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【論文まとめ】「現象判断のパラドクスと因果性 / The Paradox of Phenomenal Judgment and Causality」【Chris Naegle】

チャルマーズの『哲学的ゾンビ』論法(様相論法)により生み出された性質二元論への批判論文です。

原文はここで読めます。

 

現象判断のパラドックスと因果性

要約:様相論法により導き出された性質二元論では、意識には物理領域への因果的インパクトがなく、付随主義となり、現象判断が信頼できなくなる。
   性質二元論よりも確からしいものとして消去主義か交差二元論がある。

Ⅰ、定義
 物理的性質:行動的・化学的・機能的性質
  →性質二元論では心を構成している現象的性質とは別
 判断:現象的性質の機能的描写として理解できる
 
Ⅱ、様相論法と付随主義
 様相論法:意識のない哲学的ゾンビは論理的に可能である。
      →物理的性質と現象的性質は必然的な関係にあるわけではなく、ア・ポステリオリな関係である。
 二元論だと心的システムと物理的システムの二つで因果決定が起こる過剰決定になってしまう
      →付随主義ならば避けられる。心的システムと物理的システムは平行の関係にある。
 様相論法は付随主義を支持する。心的システムと物理的システムが交差するという交差二元論者は様相論法を欠陥があるとするだろう(意識がなければ物理的システムが違ってくる)
 
 Ⅲ、現象判断と付随主義
  フランク・ジャクソンの『メアリーの部屋』思考実験:色盲の天才科学者メアリーが全ての物理的事実に精通しても、色を見るという経験には行き着かない。
  現象判断:経験を持っているという判断、色が見えるようになったメアリーは「赤ってこんな色だったんだ!」と判断する。
  現象判断は非因果的なものがなければならない、さもなくばメアリーは新しい知識を得ることがない(物理知識によりことがすむ)か現象的性質が物理的性質に影響を及ぼすことができるか(性質二元論・付随主義ではなく交差二元論)のどちらか。
  現象判断が非因果的だとすると、知識も非因果的なこととなる→メアリーの経験知識は非因果的にもたらされるということになる。
 
  たとえ、メアリーが新たな知識を得ることを認めても、現象性質と物理性質が別とはいえない。現象的経験が機能的信念や行動と偶然的にしか結びつかなければ、なぜ現象と現象判断が結びつくといえるのか?現象と物理が独立に起こるものだとすると、物理的領域から精神物理法則(現象と物理がどのように関係しているかという法則)を導き出すのは不可能となる。
  さらに、付随主義者が説明する「現象」は実際の現象となんの関係もなくなってしまう。
  
 Ⅳ、付随主義への他の反論
 ○物理性質と心的性質に必然的関係がないのであれば、他者の心について何もいえなくなる。
 ○付随的意識は物理性質と関係ないので自然選択されない→ジャクソンの反論「クマの羽毛の重さは機能がないけど羽毛の温かさという性質に付随して選択された」→再反論:もしある特性が非因果的であれば、絶対にそれが自然選択されることはない。
 ○現象的性質は物理的性質に影響を与えることはない、しかしながら現象的性質と物理的性質は規則的に関連している。これをどのように説明するのか?
 ○現象的性質がクォークに内在するような性質だとすると、小指をぶつけたということがどのようにその性質と関連しているのか?

 Ⅴ、結論
 付随主義を否定するならば、選択肢は二つ
 ○交差二元論:物理性質と心的性質は独立して存在し、影響を与え合っている→心身問題が立ちはだかる
 ○消去主義:心的性質など存在しない、ゾンビ世界とは現実世界のことである→我々の経験現象から受け入れがたい
 心的因果を保ったまま物理主義を唱える(非還元的物理主義)は付随主義になってしまい、不可能

 

【メモ】科学哲学メモ

科学哲学まとめ

演繹・帰納関連

●仮説演繹法
 手持ちのデータから帰納して仮説をつくる→仮説から演繹して予言する→実験により仮説を確証/反証する

論理実証主義
 直接に真偽を確かめられるのは観察文のみ、理論文は検証できないが、観察文に翻訳することができる。予言とは仮説に含まれる理論語を観察語にすること。

帰納の正当化の問題
 帰納はどうやっても正当化できない。「帰納はこれまでうまくいってきたので使える原理だ」といってもそれ自体が帰納であるため循環論法。「自然は規則正しく斉一だ」という原理で説明しようとしても、その原理が正しそうなのは帰納を使っているから。

ポパー反証主義
 科学から帰納を追い出すための方法。検証も確証も科学にはいらない。反証のみで事足りる(確証は帰納であるのに対して反証は演繹なので)。正当化された仮説は単に反証に生き残ってきただけであり、確からしさは上がらない。反論:科学による予言が説明できない。

●グルーのパラドックス
 「2015年1月29日まではグリーンで、そこからブルー」であるものをグルーと名づける。このとき、全てのピッコロ大魔王の皮膚の色はグルーだということが観察から確証される。ゆえに、2015年1月30日のピッコロ大魔王はブルーであると予言できる。このような帰納の使い方はなぜだめなのか?

科学的説明関連

●ヘンペルのDNモデル(被覆法則モデル)
 科学的説明とは 少なくとも一つの一般法則を含み・経験的に確かめることが可能で・真である、説明項により被説明項が演繹的に推論されること。
 説明項が真かどうかわからなかったら「潜在的説明」
 反論:ピルのケース(関連性がないことが説明項に入る)旗ざお問題(旗ざおの長さから影の長さが説明できるように、影の長さから旗ざおの長さが説明できる)

●因果メカニズムモデル(サモン)
 説明とは原因を突き止めること。被説明現象と関連してそうな現象に干渉して説明項を突き止める。説明とは言語のレベルを超えた実践のレベルにある。

●統合化モデル(キャッチャー)
 説明とはそれ以上説明できない事実を減らしていくこと(exニュートンの法則はケプラーの法則を統合化した)。DNモデルと因果メカニズムモデルの共通点を探そうとして生まれた。

実在論反実在論関連

反実在論
 直接観測不可能な事象は知りえないとする立場。
 ●操作主義:初期の反実在論、理論的対象は観測可能な操作によって翻訳できる
 ●道具主義:理論的対象は観測可能な現象的法則をうまく扱うための道具
 ●構成的経験主義:科学は理論的対象を文字通り主張しているが、それはあるかないか分からない。科学の目的は経験レベルの現象をうまく説明することであり、観測不可能な対象はどうでもよい。

●奇跡論法
 科学的実在論者の論法。科学が成功してんだから観察できない対象も実在するんだ(科学の成功を説明するには観察できない対象物が実在するというのが一番というアブダクション

●悲観的帰納法
 奇跡論法への反論。フロギストンや天球など成功した科学が実在するとしたものが、後には実在しないことがわかるなんてことが山のようにある。ゆえに、いまの科学が実在しているといっているものもやっぱり実在しないんじゃない?

●決定不全性
 ある観察データを説明できる理論は唯一に決まらない。ゆえに、観測できない領域にある対象は一つに決まらない。そんなもん実在してるとはいえん。反論:実り豊かさ・整合性・単純性・新奇な予言・応用可能性・理解しやすさなどの合理的基準で一つに決めることができる。

●対象実在論(カートライト、ハッキング)
 現象レベルの法則ではない基本法則に対しての反実在論基本法則は人工的に理想化された状況のみで真だが、実際の世界では偽となる。
 操作可能な対象については実在論。いままで操作ができた対象が実在ではなかったということはないので悲観的帰納法に対抗できる。
 
●構造実在論
 いままで科学理論においての数学的構造は保存されてきた(ニュートンアインシュタインと変わっても基本方程式は近似)。ゆえに数学的構造には悲観的帰納法が効かない。これは数学的構造が実在しているからだ。

●自然な存在論的態度
 哲学者が口出しするな科学者に任せろ

パラダイム関連

パラダイム論(クーン)
 科学は累積的に発展するのではなく、ある前提を基にしたパズル解きの時期(通常科学)とその前提の変革の時期(科学革命)の繰り返しである。
 理由●通約不可能性:別のパラダイムに属する理論的対象は互いに翻訳できない(理論的対象は理論から外して個別に扱うことができないので理論そのものが対立してたらどうやっても同じ土俵で語れない)。また、どのような理論がよい理論かという基準も通約不可能。反論:パラダイムが通約不可能なら両立できるんじゃないの?
   ●データの理論負荷性:なにをデータとするかは、どのようなパラダイムを受け入れるかに左右される
   *クーン自身は相対主義者と見られることを嫌っている。クーンが言いたかったのは単に科学理論を作る決まった規則はないということのみ。

●研究プログラム説(ラカトシュ
科学理論には中心的プログラムである『堅い核』命題と、それを補助する命題がある。反証事例があれば、堅い核はそのままで補助命題の変更により対応する。新奇な予測をしてそれを当てることができるプログラムは前進的プログラム、アド・ホックな補助命題の変更で反証事例に対応してばかりだと後退的プログラム。二つのプログラムは通約不可能ではなく、どちらが発展できるかという観点を基準にできる。反論:実際の科学史では科学者集団が同じ研究プログラムをとっていた事例があまりない(exコペルニクスケプラーは何が地動説の本質かという部分で違っていた)

●研究伝統説(ラウダン
 研究伝統には理論が含まれず、「やるべきこと」(どちらの理論が善いか、どのように理論を修正すべきか)の基準が述べられている。いままで、問題解決能力が高かった研究伝統がよい研究伝統だ。問題解決能力があれば理論のアド・ホックな修正もよろしい。

●社会構成主義
 科学がいまのような姿になったのは必然ではなく、社会的状況に影響された結果である。(exスーパーコンピュータが19世紀に存在したらマクスウェル方程式はいらなくなった)
 
因果論関連


●ヒュームの規則説
 cとeが時間・空間的に近接して起こり、同じタイプの出来事も同じように起こるのであれば、cはeの原因である。たくさんのタイプを見なければいけないので因果は単一的に存在できない。また、因果を見つけるのは単なる人間の習慣なので必然性もない。反論:関連性のないことも原因と結果にしてしまえる。

●反事実条件による因果分析(ルイス)
 cとeが実際に生じて、もしcがなかったらeがなかったというようなときはcはeの原因。反論:穂乃果と凛が一緒に窓ガラスに向かって石を投げたとする、このとき穂乃果の石のほうが先に届きガラスが割れたが、もし穂乃果が石を投げなくても凛が石を投げたため窓ガラスは割れた。この分析だと、穂乃果が石を投げたことは窓ガラスが割れた原因といえなくなる。

●マーク伝達説(サモン)
 原因と結果を単独ではなく、それを一緒にした因果過程に注目しよう。擬似因果過程は何らかの干渉をしてもその干渉は伝達しない(exアニメのキャラクターに墨を塗ってもその墨は伝達しない)。真性の因果過程は変化の跡が伝達される。反論:金属バッドでハトの頭をつぶしたら、金属バッドの影もハトの頭の影をつぶし、その変化は伝達していく。このとき、影同士の因果関係を認めることになってしまう。

●保存量伝達理論(ダウ)
 因果過程とは運動量やエネルギーなどの何らかの保存量を伝達する過程である。反論:保存量とは「因果的に閉じている系で不変な量」のこと、保存量で因果を定義するのは循環論法。

●介入理論(ウッドワード)
 ある状況下でcを変化させたとき、常にeが変化するならばcはeの原因。一度きりの出来事では因果があるかどうか分からないので単一性は認めない。

 

法則関連


●法則に対する規則説
 法則には必然性がない。「七千キロトンの金塊の山は存在しない」というのも法則。

●投射可能性(グッドマン)
 過去の経験を帰納的に拡大できる投射可能な述語を用いるのが法則。反論:なんか難しい単語作って煙に巻いただけジャン。

●法則の網の目説
 他の法則と演繹的関係にある「網の目」のなかに適切に入り込めば法則。反論:いまある理論体系と等価な体系を作ることもできる。法則の必然性を説明していない。

形而上学的必然性
 「水はH2Oである」という法則は形而上学的に必然的である。一度、水がH2Oだと分かれば、水の本質はH2Oだということとなり、あらゆる可能世界で「水はH2Oである」ということは真となる。(exたとえ水そっくりの液体で人々もそれを「水」と称している可能世界があったとしても、その化合式がXYZであればそれは水ではない)。反論:本質とかかわりない法則はどうする?(ex慣性の法則

●法則的必然性(アームストロング)
 普通名詞によって表されるものは「普遍者」である。法則とは「普遍者が●●を必然化する」というものである。反論:「金塊」は普遍者だから「金塊は七千キロトンにならないことを必然化する」も法則になってしまう。

●介入理論(ウッドワード)
 ある公式が法則であるとは「その関係がかなり広い範囲の介入に対して安定である」ということ。反事実条件に近いが、可能世界ではなく実際に介入する。

●法則定立機構(カートライト)nomological machine
 基本的法則も含め、すべての法則には例外がある。ある条件を課したときの対象が持つ振る舞いが法則(そのような条件が課されたときどのように振舞うかという対象の『能力』)。その条件が『法則定立機構』。

 

参考文献

戸田山和久『科学哲学の冒険』

サミール・オカーシャ『科学哲学』

森田邦久『理系人に役立つ科学哲学』


 

【メモ】メタ倫理学メモ

●定義的自然主義

 何らかの事実により「善い」ということが定義できる。(スペンサー:善いとは進化状態が発展したことである。ミル:善いとは功利の増大である)

●ヒュームの法則
 「である」から「べきである」は導き出せない。

●サールの反論
言語についての事実、社会的約束事についての事実、約束を打ち消すようなことはないという条件
から「べき」という命題が導き出せる。
再反論 導き出せるのは「べきであることとなっている」のみ

●ヒュームの法則の使い方
「である」から「べきである」命題が導き出されるとき、隠れた「べきである」命題が前提にある

 暗黙の前提:言葉の意味についての前提だと解釈
 前提1:XであるならばYである
 前提2:「Yである」という言葉の意味には「Zすべきである」という意味が隠されている
 結論:XであるならばZすべきである。

 ●ムーアの自然主義的誤謬:
 「善い」という定義できない言葉を定義してしまう過ち
 未決問題:快楽が善いことであるとすると、「快楽は善いことなのだろうか?」という疑問は「快楽は快楽なのだろうか?」というトートロジーになるが、そうではない。「~は善いのだろうか」という疑問は決定している疑問(トートロジー)とはなりえない。
 →倫理的な概念はその他の概念を使って定義することはできない

 ●形而上学自然主義
 論理的必然性「快楽は快楽である」
 形而上学的必然性「水はH2Oである」:一度水がH2Oだと分かれば、全ての可能世界での水はH2Oとなる(そのように指示される)
 「Xは善いか?」は「水はH2Oか?」と同じレベルの問いとなる
 
 ●ムーアの直感主義:
 「Xは善い」は「善い」の定義ではなく、道徳的直感により正しいかどうか判断される。それは、ある種の事実についての判断だが、それは道徳的直感以外で知覚することはできない。反論:道徳的直感が一種の超能力になってしまう。

 ●情動主義:
  非認知主義の一つ。「Xは善い」は事実を述べてはいない。「善い」「悪い」は感情を持ったとき発せられる感嘆詞やブーイングのようなものであり、正しいも間違っているもない(エイヤー)
  「善い」という言葉には自分がそれを是認するという事実と、相手に対して同じことを是認させようとする情動的意味が含まれる(スティーヴンソン)
 反論:情動主義は倫理の合理性を探る試みを破壊する。「~べきだ」と「~は好きだな」が同一のものとなってしまう。

 ●普遍的指令主義(ヘア):
 非認知主義の一つ。「Xは善い」とは「Xには一定の性質があり、だからXをお勧めします」ということ。性質の面で、二つのものが完全に同一であれば片方のみを善いとすることはできないため。また、道徳的判断は普遍化可能(ある性質に判断を下したら、同じような他の性質にも同じ判断を下したこととなる)→倫理について合理的な理論が可能となる。しかし、ここで排除できるのはあるルールを自分の都合で適用したり適用しなかったりする人のみ。異なるルールを厳格に適用する人同士は合理的に議論ができないこととなる。

 ●外在主義と内在主義
 認知主義-非認知主義とは別の区分。
 外在主義:「善い」と「それをしたい(動機)」の心理的な結びつきは、外からの教育や条件付けにより与えられている。
 内在主義:「善い」ということのなかに「それをしたい」が入っている(「善い」の判断により「それをしたい」という判断をしている)
 非認知主義者は内在主義者だが、認知主義者にも内在主義者はいる(何かを知っているだけで動機付けられるとする感受性理論など)

参考文献

伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』第二章

 

 
 
 

 

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