水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

【論文まとめ】「ファイにおける問題:情報統合理論批判 / The Problem with Phi : A Critique of Integrated Information Theory」【Michael A. Cerullo(2015)】

The Problem with Phi: A Critique of Integrated Information Theory

 

論文の背景

ジュリオ・トノーニは意識の量を測るための「情報統合理論(IIT)」を提唱した。

それは、「意識とは統合情報である」という理論だ。統合情報とは、「システムの要素が生成する情報」とされる。

情報統合理論は、現象学をベースとするいくつかの公理から、意識の量を数学的に算出する理論である。意識の量をΦとする。

この理論では、人間の脳と同等のフォンノイマン型コンピュータは意識を持っていないとすることもできる。

 

著者の主張

情報統合理論は以下のことから欠点のある理論である。

①公理の一つである「情報排除」の証拠はない。

トリビアルな理論でもIITと同じ予測をするため、IITには説明力がない。

③IITは機能主義に立脚していないため、「消え去る/踊るクオリア論法」に弱い。

④IITは認知的意識の理論というよりも、非認知的意識または原意識についての理論であり、現在の神経科学が注目するものではない。

⑤意識のハードプロブレムを解決することはない、むしろプリティ・ハードプロブレムに向かっている。

 

なぜそのような主張をするのか?

①公理の一つである「情報排除」の証拠はない。

「情報排除」の公理とは、意識のレベルとは、システムにより排除される認識的可能性の量により決まるというものだ。トノーニはこれは現象学的直観から得られるとしている。フォトダイオードは明か暗かの状態のとき、排除する可能性はそれぞれ一種類だが、人間は無数の可能性を排除したうえで一つの意識状態にある。

この公理の問題は、著者の直観とトノーニの直観が一致しないということだ。脳は多数の状態を区別できるが、脳の主な機能が情報表象であるからであり、情報排除公理はトートロジーとなる。

また、その他の公理も証拠はない。たとえば、「排外の公理」によれば、大きな意識の中に小さな意識があるということはない(意識とは排外的である)とするが、他の意識の一部分だということをどのように知ることができるかわからない。

 

トリビアルな理論でもIITと同じ予測をするため、IITには説明力がない。

トノーニはIITに経験的証拠があるとしている。たとえば、分割脳の事例でそれぞれの分割脳が別の意識を持つのは脳を分割してもΦが大きく減ることはないからである。

だが、恣意的な別の理論でも同じくらいの説明をすることはできる。循環調整伝達理論(CCMT)というトリビアルな理論を考えてみよう。これは、意識とはシステム内のフィードバックループを起こす情報であるとする理論だ。システムの情報循環をΟ(オミクロン)とする。Οは全体の情報循環に部分の情報循環をマイナスしたものだ。フォトダイオードに意識がないのは情報が循環する通路がないためである。対して人間の脳にはフィードバックループがあるので意識がある。

分割脳の事例ではそれぞれの脳にフィードバックループが残っているため二つの意識が生まれる。

 

③IITは機能主義に立脚していないため、「消え去る/踊るクオリア論法」に弱い。

以下のエントリと同じ論法のため省略。

the-yog-yog.hatenablog.com

 

④IITは認知的意識の理論というよりも、非認知的意識または原意識についての理論であり、現在の神経科学が注目するものではない。

トノーニとAaronsonの議論では、XORゲート(XORゲート - Wikipedia)が意識を持つ可能性について話されている。トノーニはその可能性を認めるが、Aaronsonはばかげているとする。対して、トノーニは常識によりIITを棄却することはできない、なぜならば、限界事例における意識について話しているからだと反論する。また、トノーニは意識の理論は現象学からはじめるべきで意識の神経相関からはじめるべきではないとする。

ここで、トノーニには三つの問題がある。

一つ目の問題:主観的経験をベースとした意識の根源的性質の考察は人々により大きく変わりうる。AaronsonはXORゲートに意識が生じるのはありえないとするが、トノーニはありえるとする。

二つ目の問題:トノーニとAaronsonで「意識」がなにを示すかが違っている。Aaronsonは「意識」を神経科学と整合的な意味で使っているが、IITはもっと一般的な主観的現象という意味で使っている。

IITは汎心論の一種である汎経験主義である。万物に心があると主張するのではなく、万物に経験があると主張するからだ。この経験に当たるのは意識ではなく原意識である。トノーニは意識と原意識を混合している。Rosenbergは原意識的経験は心が欠けているとする。フォトダイオードやXORゲートは認識的性質を欠いている、対して、人間の脳は意識と気づき・記憶・機能遂行が関連している。

Aaronsonは科学者が興味を持つ意識を認識的意識とする、対して、IITは非認識的意識を扱う。

ネッド・ブロックは命題的態度であるアクセス的意識と感覚である現象的意識を区別したが、そのどちらも認識的意識である。

トノーニはXORゲートには非認識的意識があると言ったのに対して、Aaronsonは認識的意識はないとしたのだ。

だが、認識と経験の分離は経験者と独立の経験を認めてしまう。これは意識の本質を探るというよりもより多くの謎を生み出してしまう。もしも原意識と意識の性質が別物であれば、意識の謎については原意識をもって答えることができなくなる。

IITの当初の目的は意識の量を測るというものだったが、原意識と意識を区別していないのでその目的は果たされない。

トノーニの三つ目の問題が:⑤ハードプロブレムの誤解である。

意識のイージープロブレムは「どのように脳が意識を生み出しているか」なのに対して、ハードプロブレムは「なぜ脳が意識を生み出すのか」である。

トノーニはIITによりハードプロブレムを解決するとしているが、「なぜ統合情報が意識を生み出すのか」は不明である。

むしろ、IITはプリティ・ハードプロブレム:どんな物理的システムが意識を生み出すかを問題にしている。

 

関連エントリ

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【論文まとめ】人工知能に意識を帰属させる / Ascribing Consciousness to Artificial Intelligence 【Shanahan(2015)】

[1504.05696] Ascribing Consciousness to Artificial Intelligence

 

【論文のまとめ】

この論文は、『意識の統合情報理論』においての反機能主義的側面を批判するものだ。批判のために、「脳神経を徐々に機械化していったときどうなるか」という思考実験を使う。筆者の主張は、「意識とはなにか」という形而上学的問題ではなく「我々は何を意識とするのか」というカテゴリーに関する問題に注目すべきだというものだ。AIに意識があるのかという問題は、実際に人間レベルのAIが誕生するのを待たねばならない。

 

『意識の統合情報理論』についてはこの本を参照のこと。

www.amazon.co.jp

 

【論文の背景】

近年、Giulio Tononiは「意識の統合情報理論(IIT)」を唱えた。これは意識を情報科学の側面から明らかにしようというものであり、「Φ」という意識の量を出すことが可能になる理論だ。Φは統合された情報に依存する。要素xのシステムよりも高いΦを持つサブシステムに分割することが不可能な場合、xに意識が内在しているとされる。このような意味で還元不可能なシステムは「複雑」であると呼ばれる。

人体の場合、脳において最も高い統合情報Φmaxが示される。脳を分割したサブシステムにおいて非ゼロのΦが示されることもあるが、それらのサブシステムのΦは脳全体より大きくなることがない。そのため、脳の各部分が独立して意識を持つことはない。

一方、Tononiはコンピュータに対して、全体を無数の小さなΦmaxに分解できるため、意識を持ってはいないとしている。

さらに、Tononiは非ゼロΦシステムと機能的に同等なゼロΦシステムが存在するとしている。たとえば、非ゼロΦシステムが持っており、それと機能的に同等なゼロΦシステムに欠けているものとして再帰的連結がある。フィードバックは自らの内部状態に依存することなく、それゆえ部分ごとに生成された情報の合計以上の情報が全体として生成される。このようなシステムはΦが非ゼロであるが、フィードバックシステムと機能的に同等であるが全体として部分以上の情報を生成しないシステムはありうる。

脳は多数の再帰的連結を保持しているため、高いΦを持つ。一方、コンピュータは多数のトランジスタから構成され、それぞれの部分は自らの下位集合に依存するため低いΦを持つ。

 

【著者によるTononiへの反論】

デイヴィッド・チャーマーズによる「脳神経を徐々にエレクトロニック・デバイスに置き換える」という思考実験がある。このときクオリアはどうなるだろうか? 三つの選択肢がある。a)意識は神経が機械化されるある閾値に達すると突然消える。b)意識は徐々に薄れていく。c)意識はずっと続く。機能主義はcをとり、Tononiはbをとるだろう。

 

では、今度は機械化されるのがTononi自身だとしてみよう。機械化されたTononi (Twin Tononi / TT)は自らに意識があると主張し続けるだろう。このとき、あなたは実は機械化されているのですよと教えてあげればどういう反応をするのだろうか? 三つの選択肢がある。a)そのような発表に懐疑する。b)自らに意識があるという見解を放棄する。c)機能主義への反対を翻す。

aは不合理である。bもありそうにない、Tononiは「自分の意識が在るというのはもっとも信頼できる」としている。意識についての自己知は否定できないという立場だ。Tononiと同等な機能状態を持っているTTも同じような主張をするだろう。ゆえに、TTは機能主義に賛成せざるおえない。

 

【可能なTononiの反論とそれに対しての再反論】

Tononiは「もし自分がデジタルコンピュータであることが明かされたらどう感じますか?」という質問に、「意味のない質問だ、前提が不可能だ」と返している。TTも同じことを言うだろう。行き詰まりを打破するために、拷問をしてみよう。機械化は可逆的だと仮定する。IITの非機能主義的立場からすれば、TTは拷問の間なにも感じないはずだ。TTにあなたはコンピュータですので痛みは感じません、生物脳に戻ったときに記憶を消してお金をたくさんあげますという申し出をしたらどうだろうか?おそらく、その提案を受けることはあるまい。

ここでの教訓は、意識があるということは正当化された自己知から導き出されなくてはいけないというものだ。高いΦがあるということは正当化された自己知の主張に含意されてなくてはいけない。しかしながら、Φの高さ自身は自分の意識の発話について因果的役割を果たしていない。人は意識について主張するのに自らのΦを計算する必要はないのだ。このことから、なぜTTの発話よりもTononiの発話のほうを信頼するべきなのかという問題が沸き起こる。

 

【結論:形而上学なしの科学】

Tononiは「意識とは何か」という形而上学的疑問に返答しようとしているが、それは無駄なことだ。適切な疑問とは「どのような状況で我々はなにかに意識を帰属させようとするのだろうか?」である。人間レベルのAIに意識があるかは、実際にAIが発明されないとなんともいえない。「私には意識がある」という発話は命題ではなく、マジシャンが「ちちんぷいぷい」というようなものだ。それをまともにとって意識とは何かを追求してはいけない。

 

【関係するエントリ】

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【けものフレンズ考察】「埋設されたもの」とは何か?:全22種類の説を考えてみた

アニメ「けものフレンズ」七話でのクリフハンガーとでもいえる「フレンズやわたしたちにとってとても大切なものが埋設されている」という発言。今後の展開で、おそらくこの「大切なもの」が大きく関わってきそうだ。それを予想してみよう! というのがこの記事。数うちゃ当たるの法則でできるだけ多く考えてみた結果、22種類の説が出てきた。はたしてこのなかに正解はあるのか!?

説を見る前に、例の台詞には発言の主体は誰かいつ発言されたかにより異なる解釈があることに注意しよう。最低限、以下の三つの解釈が可能である。

 

①録音解釈:ラッキービーストが喋っているのは遥か昔に録音されたヒトの言葉。この場合、「わたしたち」とは過去の人間を指す。おそらく、パーク運営側が客へと伝えた情報であろう。
②現在ヒト解釈:絶滅を逃れてどこかに生き残っているヒトがラッキービーストを通して通信を試みているという解釈。この場合、「わたしたち」とは現在の人間を指す。
③ラッキービースト解釈:ラッキービースト自身が自我を持ち喋っているという解釈。この場合、「わたしたち」とはラッキービーストを指す。

以下の説のどれを支持するかということは、上の三つの解釈のどの立場に立つかということと密接に関係している。

それでは、各説を概観しよう。

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【論文要旨】宇宙は数学ではない/『「数学的宇宙」へのいくつかのコメント』

Jannes, Jil(2009) "Some comments on "The Mathematical Universe""

link.springer.com

 

一行で言えば?

 宇宙は数学だ!という説があるけど違うよ。

 

どんな背景なの?
 この論文は『数学的宇宙』という考え方を批判したものだ。数学的宇宙とはこの世の根源はすべて数学的構造により還元できるという考え方だ。
 数学的宇宙仮説をとなえるTegmarkは、最初に外的実在仮説(External Reality Hypothesis/ERH)からスタートする。これは「完全に人間と独立した外的な物理的実在が存在する」という仮説だ。次に、数学的宇宙仮説(Mthematical Universe Hypothesis/MUH)を展開する。これは「外的な物理的実在とは数学的構造だ」というものだ。数学的宇宙仮説は外的実在仮説を真剣に受け止めた結果だという。完全に人間と独立した外的世界の描写は、物理的対象の性質なしの純粋数学的構造となるからだ。さらに、様々な数学的規則性が自然には存在し、その結果、すべての可能な数学的構造を持ったマルチバースが存在するとTegmarkは論じている。

 

著者はどんな主張をしているの?
 Tegmarkは間違っている。


なぜそのような主張をしているの?
 Tegmarkは外的実在仮説を自明としているが、妥当な論証がなく論点先取だ。
 数学的宇宙仮説においては、三つの問題がある。一つ目は、外的実在仮説は数学的世界ではなく物理世界にコミットすることだ。プラトンイデア論は物理世界は幻覚であるとしてこの問題を片付けるが、Tegmarkは数学的構造から観測された内容が創発するとしている。
 しかし、物理的性質は数学的構造で現せないこともある。例えば、古典力学においてのHamilton-Jacobi methodでは調和振動となるか非調和振動となるかは物理的システムの選択により決まる。
 三つ目の問題は、完全な実在を描写するためには人間から独立した言語を必要とするとTegmarkが論じていることだ。しかしながら、ほとんどの動物には数学について限定的な能力しかない。数学は観測者依存的な言語であるかどうかという問題は経験的な問題であり、原理的に解けるものではない。経験においては、数学を人間の構築物としたほうが確からしい。
 Tegmarkの数学的実在論に対して、もっと穏やかな立場は数学を人間の構築物のひとつとするものだ。これは直観主義構成主義にコミットするのではなく、プラトニズムの否定を意味する。数学の有効性を理由付けるためには、数学的世界を仮定せずとも、柔軟な抽象的道具だとすれば解決する。
 Tegmarkは数学的構造そのものが宇宙であるため、昔発見された数学的構造が新しい状況にどんどん適用することが可能であり、その果てには数学的なマルチバースがあるとしている。多数の数学的構造が存在するが、それらは物理的実在を含まないからである。
 数学的宇宙仮説は、この宇宙にユニークな究極の物理理論があり、それは必然的に数学的構造であるがゆえに、宇宙とは数学的構造であるとする。このような数学的実在論を拒否する道は二つある。悲観的なほうは数学とは時空や物質などの根源的レベルの探求おいて十分な言語とはならないというものだ。楽観的なほうは数学はいかなる宇宙(存在する宇宙も存在しない宇宙も)をも記述することができるが、万物理論の選択には数学のみでなく物理的な実験値が必要になるというものだ。現実の物理学においてはそのようなことが多いことが知られている。例えば、数学的に完璧な対称性は自然界にはめったに存在せず「対称性の破れ」が見られる。

イカは宇宙を飛び、シンギュラリティを起こす/『Manifold:Time』感想

 今回紹介する本は、未訳のSF長編である。誰にも訳されていないのだ。

 

Manifold: Time

Manifold: Time

 

 


 むろん、英語がずらりと並んでいる。英語のみの小説を読むのは、難しいことだ。世界一TOEICの点数が高い人にとってみれば、簡単なことかもしれないが、それ以外の人には難しい。
 しかし、わたしは頑張って読んだ。ところどころ意味が分からないところがあったが、全部読んだ。なぜか? スティーヴン・バクスターの作品であるからだ。
 スティーヴン・バクスターといえば、とてもすごいSFを書くと有名な人だ。銀河規模・宇宙規模・時空規模のガジェットを惜しげもなくバンバン投入し、しかもそれが最先端物理学で裏付けられている。さすがは工学の博士号を持っているだけある。
 今回紹介する『Manifold:Time』は、そんなバクスター作品のなかでも『異色作』と位置づけられるところのもので、おもちゃ箱をひっくり返したような色とりどりのアイディアが整理されぬまま散らばっている。
 なかでも、すごいのがイカだ。イカが空を飛ぶ。いや、空どころではない宇宙を飛ぶ。いやいや、もっとすごい、超遠未来の宇宙を飛ぶ。どれくらい? 分からん。よく分からんが、数兆年後は超えているらしい。なんだか、陽子が自然消滅するくらいのそんなすごい未来らしい。そんな宇宙を飛ぶイカを描いたのは、SF史上においておそらく最初であろう。何事も、史上初は良いものだ。ちなみに、イカはヤリイカである。ヤリイカとは、寿司のネタとして有名なイカだ。スルメイカよりもランクは上のようだ。
 このヤリイカ、遠未来の宇宙を飛ぶだけでなく、シンギュラリティまで起こす。シンギュラリティとは、知能がどんどん上がっていくことだ。皆さん、コンピュータの発展によりシンギュラリティが起こると考えているが、それらはすべて間違いなのであり、実際のところシンギュラリティを起こすのはイカだ。
 イカがどうしてシンギュラリティを起こすのか? それは謎である。正直、わたしは読み取ることができなかった。頭足類の専門家ならば読み取ることができると思うので、是非とも読んで欲しい。どうやら、卵を産むと、次世代のイカはどんどん賢くなるようだ。驚くべき事実である。
 イカなんて単なる貝の化け物だ。そんなもん見たくないよ! という皆さん。ご安心ください。イカは中盤くらいで死にます。後は人間が主人公です。十本脚もいいけど、やっぱり二本脚だよね。そして、二本脚の主人公と一緒に知性が宇宙に果たす根源的な役割を追求しよう! 冬休みの間に人間と宇宙の関係性について把握してクラスメイトに差をつけよう!

【論文要旨】モデルはフィクションから輸出される/『モデル-世界比較の本質』

Fiora Salis(2016) "The Nature of Model-World Comparisons"

The Nature of Model-World Comparisons | The Monist

 

どんな背景なの?


 科学哲学においての問題に、モデルを使ってどのように現実世界の知識を得るのか? というものがある。力学方程式に従う理想的なバネのようなモデルは非実在的な対象である。存在しないシステムと現実世界のシステムをどのように比較するのだろうか? 非実在的なモデルシステムを抽象的対象としても解決にはならない。抽象的対象には時空的性質が存在せず、そのような性質を持つ現実の対象と比較できないからだ。
 この問題に対して、モデルはフィクション的対象であるとする説がある。科学哲学にフィクションの哲学を利用するものだ。ウォルトンのmake-believe(ごっこ遊び)理論を応用する。ウォルトンはフィクションをごっこ遊びの支柱と見なす。フィクションは鑑賞者に想像せよという指示を出し、フィクショナルな真理を生成する。フィクションの話法は内的なものと外的なものとに分けられる。内的話法においては想像的態度をとる。『日向縁の家は金持ちだ』という命題は内的話法では真となる主張だ。一方、外的話法は信念的態度をとる。日向縁は存在していないので上記の命題の真偽を確定するためには『フィクションにおいて』というオペレーターをつけなければならない。『(1)ゆゆ式において、日向縁の家は金持ちだ』という命題は真である。
 この考え方を拡張し、フィクション間の比較やフィクションと現実の比較をしてみる。『(2)蒼井晶は水瀬伊織よりも貧乏だ』『(3)村川梨衣は一条蛍よりもテンションが高い』という命題は、内的話法から見れば拡張されたフィクションのなかでの想像と見ることができる。外的話法から見ることは可能なのか? フィクション実在論者はフィクション存在を仮定する。ネオマイノング主義者は具体的だが非実在の対象、または可能であるが非現実的な対象を、抽象的対象理論においてはプラトン的存在、または社会的構築物に似た人工物とする。このうちモデル理論において、抽象的対象理論を使うことができる。その論者は、(2)(3)のような命題を対象の関係性で捉えるが、このときフィクショナルキャラクターの名には指示対象がなければならない。しかし、抽象的対象はフィクショナルキャラクターのような性質を持つことができない。このことを説明するための戦略は二つある。
 ひとつは、フィクショナルな文脈と現実文脈を区別するものだ。蒼井晶は現実に貧乏であることは不可能であるが、フィクショナルな文脈であればそのような性質を持つことができる。
 ふたつめは、性質と個体間の二つの叙述の区別に基づくものだ。我々は村川梨衣に対しては性質を属性付ける(predicate)ことができるが、一条蛍に対しては性質を帰する(ascribe)ことしかできない。フィクショナルキャラクターは性質をエンコードするだけだが、具体的対象は性質を例示できるとも言われている。ascributionやエンコードとは、想像の中でのみ、抽象的対象はある種の性質を持つことができるということだ。
 この上で、フィクション的対象の比較主張を解釈する二つの分析がある。分析1は拡大されたフィクション上のゲームだと解釈するものだ。(2)は次のように書くことができる。(4)『selector infected WIXOSS』と『アイドルマスター』によれば、蒼井晶は水瀬伊織よりも貧乏だ。この複合されたフィクションで矛盾が出るところは無視され、蒼井晶と水瀬伊織の貧乏度という中心的真理のみが焦点となる。この方法のみだと、(3)の場合には使えない。フィクションと現実という異なる文脈において、どのようにフィクションを拡大すればよいのかという問題が生じる。
 分析2は対象の性質とは数学的存在だと解釈し、それを比べるという方法だ。(2)は次のように書き換えられる。(5)「貧乏度i,jが存在する。i>jである。『selector infected WIXOSS』によれば蒼井晶は貧乏度iを持ち、『アイドルマスター』によれば水瀬伊織は貧乏度jを持つ。」(3)は次のように書き換えられる。(6)「テンション度gとhがある。g>hである。村川梨衣はテンション度gを持ち、『のんのんびより』によると一条蛍はテンション度hを持つ」。
 分析2よりも1を好む哲学者もいる。例えば、カフカ『変身』のザムザ氏は多数の脚を持つが、その数は確定していない。しかし、数の特定は求められておらず不確定であるとしても議論は通る。
 ここで、フィクション的存在の実在にコミットしなくともフィクショナルオペレーターをつけることによりフィクション命題を真にすることができることを見てきた。この見解はモデルについての議論に応用できる。
 モデルと世界を比較する主張の解釈には三つの立場がある。抽象的立場はモデルを抽象的存在とし、間接的フィクション主義はモデルをフィクション的対象とし、直接的フィクション主義はモデルに関する主張を現実世界についての主張だと解釈する。
 抽象的立場に立つGiereはモデルシステムを「標準的教科書に載っている性質のみで構成されており、教科書に記載されている性質をあますところなく持っている」抽象的存在とする。存在論的には、Thomassonのフィクションの人工物説と同じだ。しかし、例えば、抽象的対象は位置や速度といった性質を持つことはできない。
 Wewisbergはモデルを構造と解釈の構成物と見る。解釈は割り当て、理論家の意図、二つの信頼性基準(動的と表象的)からなる。例えば、生態系において捕食者と被食者の数の関係を表すロトカ・ヴォルテラモデルdV/dt=rV-(aV)P, dP/dt=b(aV)P-mPにおいては、Vを捕食者人口、Pを被食者人口、tを時間、r,a,bを二つの集団の相互作用パラメーターと割り当て。モデルの限界を二つの集団のサイズ、誕生率と死亡率、捕食率、捕食者の誕生に要する被食者の捕獲数という要素とする。信頼性基準とはどの程度モデルがターゲットに類似しているかの基準である。
 モデルとターゲットは特徴によって類似性を判別される。特徴は属性(性質とパターン)および、因果的メカニズムに分けられる。ロトカ・ヴォルテラモデルにおいては平衡状態や最大人口サイズが属性であり、被食者と捕食者の相互作用がメカニズムだ。
 モデルとターゲットとの類似性は次のようにはかられる


S(m,t)=|Ma^Ta|+|Mm^Tm| / |Ma^Ta|+|Mm^Tm|+|Ma-Ta|+|Mm-Tm|+|Ta-Ma|+|Tm-Mm|    ※^は「かつ(and)」


 Ma,Mmとはモデルにおいての属性およびメカニズム、Ta,Tmとはターゲットにおいての属性およびメカニズムである。この方程式は類似性を「特徴の非共有に対する共有の率」と定義する。
 Weisbergはフィクション主義とはモデルを素朴に解釈した結果生じた心的像であり、最終的には拒否するべきだとするが、問題は残る。モデルとターゲットを比較するとき、現実世界の対象が持っている性質をモデルも共有していなければならない。実在論的解釈においては抽象的対象は人口のような属性を持てないため破綻する。反実在論的解釈においては、モデルとターゲットは実際には性質を共有してはいないが、想像上では共有できる。この方向はフィクション主義に向かうものだ。
 次に、間接的フィクション主義を見てみる。Friggはウォルトンの理論を応用した。モデル描写を支柱と見なし、仮説システムをモデルの本質的仮定と普遍法則から生成される暗黙的真理としたのだ。Friggはモデルとターゲットの比較には問題がないとしたが、Godfrey-Smithはモデルシステムの性質が例化されていないと指摘した。
 最後に、直接的フィクション主義を見てみる。この立場はあるフィクションのなかでは現実的対象を指示していることを基本としている。例えば『ラブライブ!サンシャイン!!』は沼津市を想像せよと指示している。モデル描写はこのように直接的に現実的対象を想像せよという指示だとする。しかし、この立場は四つの問題がある。
 問題①:この立場の長所は余計な存在論的コミットメントがないことだが、Friggの立場でも別にフィクション対象にコミットしているわけではないので利点がない。
 問題②:モデルは現実に存在しない対象をも仮定する(点でしかない質量、太さのない糸など)。
 問題③:モデルは現実の様々な場所に適用されるので、ひとつの具体的な現実的対象は定まらない。
 問題④:モデリングがどのように現実世界の学習に結びつくか説明していない。
 Levyはモデルは現実世界の現象の想像的描写だとしている。現実世界の現象をフィクションの支柱としてフィクション的真理が作られるのだ。更に、モデルから現実を学習する方法を部分的真理という概念で説明する。モデル全体が偽でも、その部分は現実のターゲットについて真であるのだ。しかし、この方法ではモデルのうち真と偽の部分をはっきりと区別することが必要だが、それは難しいだろう。

どんな主張をしているの?
 フィクションの哲学における分析1と分析2をモデルに応用することにより、どのようにモデルと世界とを比較するのかという問題の回答が与えられる。

どうしてそんな主張をしているの?
 従来の説明では、モデルと世界の比較をする主張において難点があったが、フィクション命題にオペレーターをつけるように、モデルの命題もオペレーターをつければ解決に導ける。「原子核を回る電子の軌道は恒星を回る惑星の軌道のようだ」という命題はモデル内の視点から見れば、拡張したフィクションのなかで真であり。この内容に対してとるべき態度は想像である。一方、想像上の内容の外から見れば、分析1においてはフィクショナルオペレーターをつけて「ラザフォード-ボーアモデルとニュートンモデルによれば、原子核を回る電子の軌道は恒星を回る惑星の軌道のようだ」という命題になる。この命題は想像ではなく信念の対象だ。「地球と月の体系の位置と速度はニュートンモデルの二つの粒子系に非常に似ている」という命題は「拡大されたフィクションによれば、地球と月の体系の位置と速度はニュートンモデルの二つの粒子系に非常に似ている」というものとなる。この命題に対する態度は信念である。
 ここで心配なことがある。もしもモデリングがごっこ遊びならば、科学的成功もまたごっこ遊びとなり、予測や説明は単なるゲーム内部のことになってしまわないかということだ。
 しかし、モデルはフィクショナルな想像が第一の基盤としてあるが、我々は想像ゲームを脱出することができるのだ。フィクションを定量化し、フィクショナルオペレーターを埋め込むことにより外的視点に立った命題を手に入れることができる。この命題に対する態度は想像ではなく信念であり、ゲーム外の評価が可能である。
 例えば、「惑星の公転周期の四乗は軌道長半径の三乗に比例する」という命題はモデル内の主張としてもモデル外の主張としても読める(後者のときオペレーターをつけなくては真にはならない)。しかし、検証可能な仮説でもある。想像内でのゲームは現実世界についての仮説に輸出できるのだ。我々は、まず想像の中で現実と特徴をシェアするモデルを作り出す。そして、モデルを現実システムに関する仮説としてゲーム外に出すのだ。
 もしも数学的存在を仮定できたとすれば、分析2を用いることができる。「ある位置の値x1とx2があり、速度の値y1とy2がある。x1≒x2、v1≒v2である。地球と月のシステムは位置x1と速度v1を持つ。ニュートンモデルによると二つの粒子モデル系は位置x2と速度v2を持つ」と書くことができる。
 Friggの説では、現実と比べられるモデルに帰属する性質を例示していなかったためモデルと世界の比較は真にならなかったが、分析2では存在する性質の程度とモデルにより例化した性質の程度を比較することができる。ここでの存在論的コミットメントは、現実存在が持つ数学的存在と、”モデルによると”オペレーターにより真の状態がもたらされるということである。モデルと世界の類似性の比較は構造で、モデルシステムの発展は想像で行われる。

論文日記(2):『リンゴが赤い』ってどういうこと?/普遍者とトロープ

Stanford Encyclopedia of Philosophyの"Properties"1-1節より

Properties (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

 

二つの赤いリンゴaとbがあったとしよう。
これは何を意味しているのか? 
普遍者説によれば、これは次のことを意味している。
①aは赤い、bは赤いという二つの事態の状態がある。
②前者はaと普遍者「赤」を構成要素として含む。
③同じように後者も普遍者「赤」を含む。

対抗するところの、トロープ説においては
事態の状態などない
aの赤性とbの赤性という存在のみがある(二つは別のトロープである)

トロープは単一の存在であり、事態の状態は複合的な存在である。

普遍者には具体的対象を特徴付ける『characterizer』と別々の具体的対象を同じ普遍者としてシェアさせる『unifier』という二つの側面を持っている。普遍者説によれば別々の対象において客観的類似性が存在する。
一方、トロープにはcharacterizerとしての側面しかない。特定のひとつの対象しか特徴付けられないからだ。そのため、トロープ説は具体的対象の類似性について追加の説明をしなければならない。その説明はトロープには客観的類似性があり、類似性集合がunifierの役目を果たすというものであろう。
トロープ主義者は『性質』という語をトロープによる特徴化と、類似性集合による統一化へと分けるだろう。

普遍者説とトロープ説は非常に根源的な存在論的対立であり、心的因果や還元的物理主義などの哲学領域で問題となってくる。