水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

フィクショナル・キャラクターズ / Fictional Characters【Friends(2007)】

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我々はしばしば、暁美ほむらや、アンパンマンや、ハリー・ポッターなどといったフィクショナル・キャラクターについての文を発話したり、思考したりする。このとき、いったい何を指示しているのだろうか? 反実在論者は何も指示しておらず、フィクショナル・キャラクターが入った文はすべて偽であるとする。一方、実在論者は、対象としてのキャラクターの存在を認め、一部の文は真であるとする。

反実在論者の課題

ほとんどの哲学者は直接指示理論(名前の意味とは指示詞に限られる)を採用している。
フィクショナルキャラクターについての文は「物語によると」というストーリーオペレーターが隠れているとしても問題がある。もともとの文が完全な命題ではないとすると、オペレーターをつけても命題にはならない。(文「ゴジラが東京を破壊した」に意味が欠如しているならば、「映画『ゴジラ』において、ゴジラが東京を破壊した」も意味が欠如している)
同じく「ゴジラはフィクション上のキャラクターだ」「ゴジラは存在しない」も意味が欠如していることになる。

記述主義や量化分析をしたとしても問題が発生する。このアプローチは物語のなかの文にしか適用できない。
「わたしはアンナ・カレーニナをかわいそうだと思う」「ホームズはポワロよりも優秀だ」「ハムレットはフィクショナルキャラクターだ」にはストーリーオペレーターは付かない。
反実在論者に課せられた最も難しい文は「丸いものよりも平たいフィクショナルキャラクターがある」など名前が出てこない文だ。
対して、実在論者はこの種の文に対して統一的な説明を与えることができる。
反実在論者はフィクショナルキャラクターについての文に真なものはいっさいないということはできるが、その場合、キャラクターについて語るとき我々は何をしているのか説明しなくてはいけない。

 

フリ説

最も一般的な反実在論者の説明は、フィクショナルキャラクターについて語るとき、我々はフリに従事しているというものだ。
ウォルトンによれば、フィクションを楽しむとき、我々は小説を小道具にしたメイクビリーフ(ごっこ遊び)をしており、あたかもキャラクターが存在するように振舞っている。
そこには(暗黙的な)ゲームのルールがある。
ウォルトンの課題は、フィクショナルキャラクターについての会話が、どのようにフィクションの内容を伝えているかどうかということの説明だ。ウォルトンは公式のゲームに参加することにより可能となるしている。「ゴジラが東京を破壊した」という会話は、「ゴジラ」という空名により説明されるのではなく、視聴者のゲーム参加により説明されるのだ。ゲーム参加者は、フィクションの内容についての真理を伝えたようなフリをしている。

この提案は二種類の解釈がある。
第一解釈:意味論レベルの解釈。「ゴジラが東京を破壊した」という文の意味とは特定のメイクビリーフゲームにおけるふさわしい振る舞いのことだ。その文は文字通りではないが、真である。この解釈はさまざまな分野から批判されている。
第二解釈:「ゴジラが東京を破壊した」は完全な命題ではない。ゆえに、真ではありえない。では、不完全な命題がどのように真理運送に使われるのか? 現実世界のフリの状態と対応するような「架橋法則」を特定しなくてはいけない。

ウォルトン説のメリットは、他のフィクショナルな言説についても応用できることだ。「ゴジラのほうがガメラより強い」などのメタフィクショナルな文は権威化されたフィクション内容を超えた「非公式的」ゲームだとしている。
このようなゲームはたとえば、特定の情動状態とフリの状態が対応しているという架橋法則により現実と対応しているかもしれない。

 

フリ説の難点

フリ説の難点はいくつかある。
難点①「ゴジラはフィクション上の生物だ」という文は実際に真と思われるが、フリ説では真になりえないとされる。
 解決策は二つある。
 解決策①非公式ゲームでは、我々はあたかもフィクショナルなものが(フィクションとして)存在しているように振舞っている。
 解決策②ゴジラの虚構性を指摘するのは、フリへの「裏切り」である。
 実在論者は、この対応をアドホックとするだろう。
難点②メイクビリーフゲームをどのように個別化するのか?フィクショナルオブジェクトなして説明しなければいけない。
フリ説によると、文「暁美ほむら鹿目まどかが好きだ」は文「宮水三葉立花瀧が好きだ」と同じく「xはyが好きだ」という不完全な命題を表しているとするが、両者は明らかに違う。
ウォルトンは「フリの種類」をもって説明する(ほむら的種類のフリ、三葉的種類のフリ……)が、フリの種類はどのように個別化されるのだろうか?
名前を使うことはできない(同名キャラがいる、同じキャラクターでも名前が違うことがある)。キャラ名に関わる記述内容を使うこともできない(同じ状況で違うキャラがいる)。
ウォルトンは、「特定のフィクションと無関係にフリの種類を個別化することはできない」としている。
しかし、フィクションへの指示はフリの種類の個別化に不十分だ。『君の名は。』や『コワすぎ 史上最恐の劇場版』は多くのキャラクターの小道具となっている。反実在論者は明確な解決策を持っていない。
一方、実在論者の場合、ゴジラについての文はフィクショナルオブジェクトについての文であり、真性の内容を持っているとする。

 

実在論者の戦略

実在論者は、我々は文芸活動において、フィクショナルオブジェクトにコミットしていると主張する。フィクショナルオブジェクトとは、小説・プロット・リズムなどと同じようなカテゴリの存在だ。
実在論には二つのバージョンがある。
①内的実在論:フィクショナルキャラクターとは、性質の集合によって構成される永続的・非創造的なものである。このとき、フィクショナルキャラクターはフィクションの内的パースペクティブから見た性質を持っているということになる。ブラックジャックは医者である、男性であるなどの性質から構成されているとする。作者は語りを与えたという意味のみでキャラを創造したことになる。
②外的実在論:フィクショナルキャラクターは、作者・テキスト・読者に依存して存在する。フィクションの外的パースペクティから見た性質により特定される。(アンナ・カレーニナトルストイにより作られた、『戦争と平和』に出てくる……などの性質を持つ)

 

実在論者に有利な点

実在論者に有利な点①:フィクショナルキャラクターへの志向性・対象指示性・思考・言説など(ハムレットについての思考はラスコルニコフについての思考ではなく、ハムレットへの思考である)。
さらに、ある程度主観を超えた状況でキャラクターの特定が可能だ。
このような文芸活動において、最善の説明は我々はフィクショナルオブジェクトに対しての思考を持っているということだ。
有利な点②:フィクショナルキャラクターへの量化を含んだ言説。「丸いものより平たいフィクショナルキャラクターがいる」という文は真でありそうなだけでなく、フィクショナルキャラクターへの量化を含んでいる。それらはキャラクターの量化なしにパラフレーズすることはできない。もしも、量化があるならば、存在論的コミットメントをしなくてはいけない。
 それに対しての反実在論者の反論①:「No-one came to the party」という文があってもNo-oneがいるわけではないのと同じく、量化は成り立っていない。
 反論②:量化が成り立つのはゲームのなかだけであり、現実世界については何も言っていない。
実在論者に有利な点③:フィクショナルオブジェクトの存在条件は拒否できないほど小さい。作者がキャラクターを個別化するフリをしただけで、存在する条件になる。反実在論者は、野球チームがスリーアウトで交代することを認めながらイニングを否定するようなものだ。

 

実在論の難点

実在論の難点①:その論法はフィクショナルオブジェクトのみに限定できない。ゼウスなどの神話クリーチャー、フロギストンなどの失敗した科学の措定物、さらには単なる想像物までもが存在することになってしまう。
難点②:日常的な文芸活動が実在論者に有利だとはそれほどいえない。キャラクターの本性を決めることは難しい(テレビアニメ「ラブライブ!」に出てくる矢澤にこと、そのコミカライズに出てくる矢澤にこは同一人物なのだろうか?)
フィクショナルオブジェクトの同一性条件は興味相対的だとする実在論者もいる(Lamarque)。この場合、キャラクターが同一人物なのかとか、ある作品には何人のキャラがいるかなどといった疑問に答える厳密なルールはないことになる。厳密なルールがないことは、実在論者にとってそれほど致命的な弱点ではない。小説やプロットの同一性条件も曖昧であり、反実在論者もフリの種類の同一性条件を与えられないからだ。
では、実在論者が言うように、キャラクターの実在性にコミットすることが、我々の文芸活動をスムーズに説明することになるのだろうか?

たとえ、実在論をとったとしても「ゴジラ放射線を吐く」「ブラックジャックは凄腕の医者だ」などの文は偽であるとされる。ゴジラブラックジャックは抽象的対象であるため、放射線を吐いたり医者であったりという性質を持つことはできない。しかし、作品を見た人々は上のようなことを言うだろう。実在論の観点からは、この現象はどう理解されるのか?
実在論者の戦略は三つある。
戦略①:抽象的対象には、二種類のやり方で性質を述語付けることができる。ブラックジャックは凄腕の医者だというのは、抽象的意味のなかだけである(「凄腕の医者である★」と表現する)。星なしの「ブラックジャックは凄腕の医者だ」は偽である。この戦略ではフィクショナルキャラクターへの述語付けは曖昧となる。
戦略②:「ブラックジャックは凄腕の医者だ」と言うとき、我々は内的パースペクティブに立っている。このとき、フィクショナルオブジェクトを指示してはいない。外的パースペクティブに立つことで、批評的言説の領域に入り、フィクショナルオブジェクトを指示するようになる。この戦略の問題点は、キャラクターについての言説において統一された説明が欠如していることだ。我々はあるときは「ブラックジャック」を指示しておらず、あるときは指示していることになる。
戦略③:文「ブラックジャックは凄腕の医者だ」はフィクショナルオブジェクトを指示するが、その文はオブジェクトが持っていない性質を述語付けている。「漫画においてブラックジャックは凄腕の医者だ」は真となるが、「ブラックジャックは凄腕の医者だ」は偽となる。「ブラックジャックは凄腕の医者だ」と我々が言うのはフリをしているからだ。反実在論者はフリを使っているのならオブジェクトにコミットするのは無駄だと言うかもしれないが、ブラックジャックについてのフリをしているという点を説明できるという利点がある。
しかし、この戦略は反直観的帰結をもたらす。「ブラックジャックは凄腕の医者だ」というときの反応は、「虚構的真理」の想像だということになる。しかし、抽象的対象が医者であったりする性質を持っているという想像を、どのようにしているのだろうか?数字の3がロンドンへ旅したり、憲法が頑固であったりするのと同じようなものだ。

 

実在論の全般的な問題として、内的・外的パースペクティブの差異が維持できないというものがある。実在論者は、フィクショナルキャラクターについて、我々はあるときに真のことを言い、あるときには偽のことを言うとする(反実在論者はすべて偽だとする)。文「私はブラックジャックがかっこいいと思う」について、ある実在論者はストーリーオペレーターを付けることはできないため、フィクショナルオブジェクトについての文だとする。しかし、実在するオブジェクトとしてのブラックジャックはかっこよいという性質を持つことはできない。
実在論者はフリをしぶしぶ認めるものの、批評的言説については実在するオブジェクトを指示していると主張するかもしれない。しかし、必ずしもそうとはいえない。批評においても、内的外的パースペクティブが混在している。作品のなかにおいてすら、パースペクティブの混在が見受けられる。
パースペクティブの混在問題は、反実在論者にも課せられる。『戦争と平和』の公式ゲームに従事しているとき、「アンナ・カレーニナは自殺した」は真と見なされ、「アンナ・カレーニナトルストイが創った」は偽と見なされる。しかし、「アンナ・カレーニナは自殺した最も有名なキャラクターである」は二種類のフリが混在しているように見える。ウォルトンは、このような文はキャラクターが内的性質と外的性質を併せ持っている非公式ゲームだとする。ここで、フリの種類やメイクビリーフゲームをどう個別化するのかという問題が出てくる。
しかし、この問題では反実在論者のほうが有利である。フリの種類の区別はシャープである必要はないのだ。子供は複数のごっこ遊びを混在することがある。

 

実在論VS反実在論、双方のスコア

キャラクターについての志向性や言説という面から見れば、実在論者が若干勝っている。反実在論者は特定のフリがあるキャラクターについてのもので、別のフリは違うということを説明しなければいけない。
実在論において、フィクショナルオブジェクト同一性は厳密に決定できなかった、ゆえに、フィクショナルキャラクターの同定についての説明は弱い。
反実在論者もまた、フリの種類における同一性という面で問題を抱えているが、それはフィクションやフィクショナルキャラクターとは独立している。フリの同一性問題が解決すれば、フィクショナルオブジェクトなしでフィクションに関わる活動を説明できる。
実在論者はジレンマに直面する。もしも、対象なしの思考や言説を認めるならば、「同じフィクショナルオブジェクトについて語っている」という例を出して実在論を擁護することができなくなる。一方、対象なしの思考や言説を否定するならば、我々が同じ対象について語っている証拠はどこにあるのか? フィクショナルオブジェクトを使って説明することはできない(同一性問題があるので)。ゆえに、実在論の有利な点がなくなってしまう。反実在論者はオブジェクトなしで言説活動を説明するのに長けているからだ。

【論文まとめ】「このもの主義/Haecceitism」セクション1【スタンフォード哲学百科】

このもの主義

 

Haecceitism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

 

この世界の形、色、質量、大きさなどすべての質が同一であったとして、たったひとつだけ現実と違う世界がある。あなたがいないのだ。あなたの代わりに、あなたとまったく同じ質的性質を持つダブルがいる。ダブルはあらゆる点であなたと似ているがあなたではない。このような世界はありうるのだろうか?

 

また、双子で世界の質的性質を変化させずに入れ替わったり、二つの質的に変わらない鉄が交換されたりすることはありうるのだろうか?

 

このもの主義はそのような問いにイエスと答える。上のような事象は極大可能性(世界をトータルで考えたうえでの可能性)だ。

反このもの主義はノーと答える。質的に異なることなしにこのもの的に異なることはありえない。

 

このエントリのセクション1~3では、このもの主義の公式化とこのもの性・本質主義との関係。セクション4~5ではこのもの主義への反対論賛成論。セクション6ではこのもの的違いと特定の種類のこのもの的違いだけ認めるやり方。セクション7では形而上学の広いエリアにおけるこのもの主義の重要性と否定を見る。

 

 

1.このもの主義の定式化

このもの主義は様相的な説である。ある形而上学的枠組みはそれに合い、別の枠組みは合わない。さらに複雑なことに、ある枠組みは極限可能性を可能世界と分けるが、他の枠組みは両者を同一視する。

1.1 可能性と可能世界

様相主義者は可能性や可能世界の量化を認めない、代わりに、ボックスやダイヤなどの原始的様相オペレーターを使う。様相主義においてはこのもの主義者も反このもの主義者も可能世界における量化を使うことはできない。Skowによると、反このもの主義者は次のように定式化できる。

様相主義的反このもの主義:必然的に、世界は質的変化なしに非質的変化は起こらない。

 

様相主義の限界を否定するものはより豊かな存在論的資源を持つことができる。

ここで第一の区別を導入しよう。ある可能性は「極大的可能性」である。それは世界をトータルでついて述べている。一方で、非極大可能性はオバマは人間だとかのトータルではない可能性である。

第二の区別は、質的可能性と非質的可能性である。非質的可能性はある個物のみにかかわる性質で、質的可能性は個物に限定されない可能性である。ナポレオンがエルバで逃走するというのは非質的可能性、四つの赤い物体があるというのは質的可能性。(質的可能性はde dicto可能性、非質的可能性がde re可能性に対応する)

このもの主義は次のように定式化できる。

可能的このもの主義:非質的可能性である観点のみから見て違うような別の極大可能性がある。(質的にはまったく同じ極大可能性と違うような極大可能性がある)

可能的このもの主義にしたがえば、同一の質的可能性を内包したうえでこのもの的に違う極大可能性がある。

可能的このもの主義は可能性の量化を必要とするが、可能世界については何も言っていない。しかし、可能世界についての実在論者は、可能性を量化することは可能世界の量化であるとする。そのような立場は、可能的このもの主義を質的に識別不可能な世界についての理論と解釈する傾向がある。可能世界についての実在論者においてのこのもの主義は以下のようなものとなる。

世界識別不可能性:(ある可能世界と)質的に識別不可能だが、異なる別の可能世界がある。

代用主義者たちは、可能世界を文のタイプや、性質や、命題や、集合などといった抽象的存在と同一視する。もしも、集合や性質が質的特徴を持たないのであれば、『世界識別不可能性』は真となる。

もしも可能世界が命題の整合な極限集合だとすれば、このもの主義は質的に同じ命題だが非質的に違う命題を含むような極大命題集合があるという立場になる。他の立場の代用主義は別の道具を使うが、いずれにしても形而上学的コミットメントはとらない。

しかし、もしも、可能世界と極大可能性の関係を、一対一の対応関係が成り立っているとする立場ならば、可能的このもの主義を受け入れたうえで、さらに以下の主張も受け入れるだろう。

世界このもの主義:このもの的にのみ他と違っているような極大可能性があり、可能世界と極大可能性の間には一対一の対応関係が成り立つ。

世界このもの主義を拒否する代用主義もありうる。それはルイスの「安上りなこのもの主義」と似たようなものになるだろう。

 

1.2 このもの主義と様相実在論

ルイス的様相実在論では、可能世界を時空的に関係した存在の全集合とする。それらの可能世界は現実世界と同じようにリアルで具体的である。
ルイス的様相実在論は、事物についての(de re)様相は対応者理論により分析される。普通の個物は可能世界をまたがって存在することはなく、一つの世界に縛られる。対応者理論とは、個物aが可能的にFであるのは、aが「Fである」という対応者を持っていたときまたそのときのみである。対応者と個物の関係は質的な類似性関係である。オバマが医者であることができたのは十分にオバマに似ている可能的個物が医者であるときそのときのみだ。類似性は文脈により変動する。
事物についての表象は類似性をもとにしているため、質的に変わりのない二つの世界は同じということになる。ルイスはそれゆえ、質的性質と事物についての可能性の間に以下の関係性があるとした。
質的付随:事物について表象する世界(たち)の事実は、「世界(たち)についての質的性質の事実」に付随する。
質的付随を否定すると、世界の非質的特徴が部分的に、世界が事物についてどう表象するかについてを決定するという主張になる。非ルイス的な様相実在論者は質的に識別不可能な可能世界がこのもの的に別の極大可能性を表象できるとする。
しかし、ルイスは質的付随を支持する。(ルイス自身は質的に識別不可能だけど別の世界があるかどうかについては不可知論をとっている)。ルイスは、このもの主義を質的不可能性と合流させる方法はマズイやり方だとしている。ルイスによれば、このもの主義とは、複数の可能世界が表象する事物についての可能性というものを舞台としているのだ。
ルイスは質的役割が同じ双子が入れ替わるなどということは、本当に可能なことだとしている。ポイントは、修正バージョンの対応者理論では、個物が現実世界においても対応者を持つことができるということだ。双子の兄は双子の弟という対応者を持つこととなる。特定の文脈では、双子の弟は双子の兄の可能性を表象していることとなる。言い換えれば、現実世界とその部分は、適切な文脈では、現実化された極大可能性のみならず、現実化された極大可能性とはこのもの的に違う可能性も表象できるということだ(対応者である兄と弟を逆にした可能性を現実世界が表象している)。複数の可能性を使わずに、単一の世界のみでこのもの主義を表現するこれを「安上りなこのもの主義」とする。

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション4~6/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015)】

セクション4では、形而上学的に偶然だが法則的に必然である法則の例として、微細構造定数αとそれに基づくクーロンの法則が挙げられます。

セクション5では、ある法則は形而上学的に偶然だが、別の法則は形而上学的に必然であると論じられます。形而上学的に必然の法則の一つとして、パウリの排除原理(PEP)が挙げられます。

セクション6はまとめです。

セクション1のエントリはこちら

the-yog-yog.hatenablog.com

セクション2~3のエントリはこちら

the-yog-yog.hatenablog.com

 

 

Ⅳ 偶然的法則


 ハイブリッド見解のために、形而上学的に偶然だが法則的に必然である法則を挙げよう。少なくともある根源的物理定数は時間に依存して変化するかもしれない。たとえば、微細構造定数αは電子と陽子の質量比によるが、クェーサーの観測からαは変化しているとわかっている。
 微細構造定数は無次元定数だということを補足しておこう。電磁定数とプランク定数光速度の組み合わせから微細構造定数ができる。無次元定数の変化は、定数間の関係が変化していることを示唆する。αの変化は電磁定数の変動により説明されることが主流だが、光速度の変動が提案されることもある。
 αが実際に時間により変動しているということは、形而上学的可能世界のなかで定数が変動しうるという一見したところの証拠となる。このことは、微細構造定数を使用するすべての法則(クーロンの法則を含む)において、別様でありえた可能性を与える。
 だが、αの時間変動があるからといって、可能世界において法則が変動するといえるのだろうか? もしかしたら、αは特定の幅の中に納まるという法則があるかもしれない。αの変動は形而上学的に必然な別の法則の結果かもしれない。Marc Langeはαの変動は法則が一時的であることを示すのではなく、時間依存的な永久的法則を示すとして、反事実条件での法則の不変性があるとした。しかし、そこにはαの値を決めるのは独立した制限ではなく、形而上学的に必然な法則であるとするアドホックなコミットメントが必要だ。
 Langeはまた、個別の法則が形而上学的可能世界のなかで変動することができるという一般的な想定は問題含みであるとした。法則群とは法則性に由来して構成されるシステムであるとするのだ。法則性とは反事実条件的な仮定のもとでも抵抗力を全体としてもっている下位法則的(sub-nomic)な安定性のことだ。システムであるため、ひとつに統合されている。Langeのこの指摘は、著者が特定の法則よりも特定の定数にフォーカスする理由である。αを変更するということは、ひとつの法則のみならずシステム全体に普及するからだ。このアイディアでは、可能世界ごとにオルタナティブなシステムが存在するという想定を導く。Langeによると、「自然的必然性の様々なグレード」がある(EllisやBirdは強い必然性のみであるとする)。この論文では、グレードを認めるにしても、自然的必然性と形而上学的必然性という区別があるとして進める。
 
 ここまでの議論で、もしも、法則lが時間依存的に変化しているのであれば、少なくとも、lが形而上学的に偶然である一見自明の証拠となることを見てきた。しかし、形而上学的偶然性を保証することはない。lが時間依存的に変化するということが形而上学的に必然かもしれないからだ。だが、時間依存変化現象は、他の可能世界では変化率が著しく違うのではないかという想定を与える。
 時間依存的な法則はそもそも法則ではないという意見もあるかもしれないがそれは違う。もしすべての法則が時間依存的だと判明したとしても、法則性は保ち続けられるだろう。
 少なくとも、他の可能世界の法則は、現実世界の法則の時間依存性に敏感であり、ゆえに他の可能世界でも現実世界と同じ法則を持っていると明らかに言うことはできないくらいのことは論証できた。
 
 ここまでの議論をもとに、本質主義者に対しては次のような質問ができる。「なぜ、電荷粒子のふるまいを支配している法則の形而上学的必然性について説明するのに、粒子の本質が必要なんですか?」「たとえ、本質主義者の説明が基本的に正しくても、関連する別の本質が、法則により特徴づけられているものの必然性を担うことはあるんじゃありませんこと?」「さらには、たとえ根源的自然種を特徴付けているもっと『特権的』な法則があったとしても、我々が観測しているような規則性は単なる形而上学的偶然なのではないかというヒューム主義的発想を禁止するものがなくってよ」

 それらの質問に対して、本質主義者がする乱暴な返答は「特権的でない偶然法則は、もっと根源的で必然的である法則に根拠付けられるのだ」というものだ。しかしながら、微細構造定数は根源的な法則であるクーロンの法則にかかわっている。αの変動をもっと根源的な法則から説明するのは新しい物理学が必要であり、難しいことだ。

 このセクションの議論は、「すべての法則は形而上学的に必然」だとする立場への反論になるものだった。潜在的な解決策として、同じ定数群を与えるような境界条件を必然的法則とすることだ。しかし、この解決策は法則の形而上学的必然性を導くことはできない。同じ定数群を持っているのにもかかわらず、その値が劇的に変わり、世界の間で法則(それらの法則は自然種を特徴付ける)が違うということがありえるからだ。

 

Ⅴ 必然的な法則

 

 ここまでは、すべての法則が根源的な自然種を特徴付けるものではないということを見てきた。この見解は、根源的自然種を特徴付ける法則もあるという立場と両立するものだ。このセクションでは、ある法則は根源的自然種を特徴付けるものであり、それは形而上学的必然性の地位を持っていると論ずる。
 
 このセクションで論ずる命題は以下のものである。
(COND-MET):もし真正なる自然種があれば、その自然種のみを特徴付けるような法則は形而上学的に必然である。また、そのような法則のみが形而上学的に必然な法則である。
 この命題はハイブリッド見解の存在論的基礎になるものだ。

 ケーススタディとして、PEP(パウリの排除原理)とフェルミオンを見てみよう。フェルミオンが同じ時刻に同じ量子状態にならないというのは、PEPにより特徴付けられている本性(のひとつ)の振る舞いである。PEPによる様相制限、たとえばスピンの値が半整数であるということはフェルミオンの本質である。なぜならば、そこが違うとフェルミオンではなくボゾンになってしまうからだ。フェルミオンとボゾンは真正なる自然種の候補となるだろう。
 PEPは形而上学的に必然的な法則の候補の一つとなる。たとえ、PEPが必然的でなくとも、物質の結合や安定性を特徴付けるPEPに似たような法則は必然的であろう。もしも、いかなる結合的な振る舞いもすることがない宇宙が形而上学的可能であれば、それは反例となりうる。しかし、判例になりうる宇宙はフェルミオンを含んでなければならない。(たとえば真空しかない宇宙はPEPに制限されるようなものを含まないので反例にならない)。一見、反例となりうるような宇宙における「フェルミオン」は実はフェルミオンではなく、ボゾンとして振舞うであろう。結合的振る舞いのない宇宙はフェルミオンのない宇宙なのだ。ゆえに、反例を持ち出すことはできない。
 もちろん、ここでの議論は反quidditismを前提としたものだ。性質の同一性というものは裸ではないとする。
 もしも、形而上学的可能宇宙のなかで、PEPの類似物に制限されていないフェルミオン*があったとしよう。quidditistはフェルミオンフェルミオン*の同一性をはかるツールがあるとする。しかし、この議論ではquidditistのほうに論証責任があるだろう。
 フェルミオンの事例はquiddismへの反証となるかもしれないが、ここでは深く突っ込まない。

 

 Ⅵ結論

 

 ハイブリッド見解の強みは、単一の事例では反駁できないことだ。ある法則は形而上学的に必然で、ある法則は形而上学的に偶然だという立場は、科学的・傾向的本質主義とヒューム主義のどちらにも部分的に賛成している。新たな事例が出てきたら、ある法則についての見解を改めることができる。
 想定される反論に、ハイブリッド見解が正しいとしても形而上学的に偶然の法則はそもそも法則といわないというものがある。もし望むのならば、偶然の法則を何か別の言葉を使って呼べば良いだろう。おそらく必然の法則を「強い」法則、偶然の法則を「弱い」法則と呼ぶのも良いだろう。著者としては「ハード」と「ソフト」のほうの区分のほうが良い。
 ハイブリッド見解は、法則は自然種の本性や本質から生まれると説明する点で科学的・傾向的本質主義者のほうに近い。ヒューム主義者や法則的必然性主義者は形而上学的に必然の法則の様相的力を説明することは困難だろう。PEPは少なくとも、形而上学的な様相制限を与えるということが示されている。

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション2~3/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015)】

物理法則の力はなにを根拠にしているのでしょうか? セクション2では、本質主義者の「因果力を与える本性」が物理法則の根拠になっているということを説明し、それは強すぎる主張だとします。

セクション3では、根源的自然種の例化というアイディアを検討し、クーロンの法則にはその説明が適用できないのを見た後、法則を形而上学的必然のものと形而上学的偶然のものにわけるという方法を提唱します。

セクション1はこちら

the-yog-yog.hatenablog.com

Ⅱ 見かけ上の法則の様相的力


 法則と単なる規則性を区別する見かけ上の様相的力について、本質主義者たちは因果力を与える本性をもって説明する。
たとえば、粒子の本性により、電荷粒子が互いに引き付き合う規則性がすべての形而上学的可能世界をまたいで成立することを説明する。

しかし、「可能世界をまたいだ規則性を根源的粒子で説明すること」は「可能世界をまたいで法則が同一であること」という主張と切り離すことができる。
なぜならば、我々は「特定の規則性が形而上学的可能世界をまたいであること(例えば電荷は引き付き合ったり反発したりするということ)」には同意できるにしても、「電荷を支配する法則が同じ世界で同一に保持されること」には追加のコミットメントが必要となるからだ。
たとえば、電磁気的相互作用の結合量が同じ世界において変動するかもしれない。

ここで、パウリの排除原理(PEP)のケースを見てみよう。二つのフェルミオンが同じ時点で同じ量子状態をとることはできないというものだ。PEPは物質の振る舞いを規定する。塩素とナトリウムがイオン結合して、塩化ナトリウムとなる際に、PEPは重要な役割を果たす。二つのイオンが接近する際に、PEPは両者の電子が同じ量子状態になることを防ぐ。こうして、イオンが過剰に接近することを防ぎ、安定した塩化ナトリウムができるのだ。
 PEPはすべての物質の振る舞いにおいて中心的な規則性を現している。分子や原子が作られる能力を基礎付けるものだ。だが、実際に我々がイオン結合を考える際にはもっと高階の法則に言及する。その一つがクーロンの法則だ。クーロンの法則とPEPでは後者のほうがより普遍的な法則だとされる。
 BirdはPEPについて、それは量子力学に内包される説明であり、(Birdが法則の必要条件とするところの)根源に「近い」関係性について述べることはないとする。しかし、著者が見るところでは、たとえ量子力学により説明することができたとしても、PEPは根源に「近い」関係性を言及する理由がある。それは根源的自然種が法則の様相的力の中心にあるということだ。

 

Ⅲ 法則と種

根源的自然種が法則の様相的力の中心にあるという提案はE. J. Loweによるものだ。Loweの考えるところによると、カテゴリカリズムを捨てれば、法則の様相的力について十分な説明をすることができる。電子の力や傾向性などなどの斉一性は、同一の根源的自然種の特定の例化という事実により説明される。Loweは自然種の本性(nature)により法則は説明されるべきだとする。電子の本性の一つとして負の電荷を持つという例化が挙げられる。同じように、フェルミオンの本性の一つは、PEPが述べているように同時に同じ量子状態をとれないということだ。
 このような分析により、「黄金の山は存在しない」と「ウラニウムの山は存在しない」の違いを区別することができる。後者はウラニウムの本性に言及しているため、法則を構成しているが、前者は法則ではない。
 しかし、Loweの分析はクーロンの法則には適用できない。なぜならば、その法則はいかなる根源的自然種の特徴づけもしていないからだ。クーロンの法則はすべての物質的対象をスコープに入れているのだ。
 Loweはクーロンの法則は自然種である「物質的なものmaterial body」について言及していると反論するかもしれないが、それを認めたとしても、保存則などのもっと普遍的な法則が存在する。物理システム全体が自然種だという立場を取らない限り反論はできない。
 しかし、単純な解決策がある。自然種を特徴付ける法則と特徴付けない法則という区分が、形而上学的に必然な法則と偶然な法則という区分に対応しているとするのだ。この策はLoweの立場と両立しない。なぜならば、Loweは自然種を特徴付けるような形而上学的に偶然的な法則が存在する余地を残しているからだ。

 なぜ、法則を二種類に分ける必要があるのか。それは、法則的な(物理的な・自然的な)様相と形而上学的な様相の区別があるからだ。形而上学的に必然な法則は自然種を特徴付けるものだが、それに当てはまらないクーロンの法則など、自然の規則性を表現する法則もある。
 クーロンの法則を形而上学的に必然だとすると、どのような問題が出てくるのだろうか? Birdはクーロンの法則は形而上学的に必然だとしている。彼はこう言う「クーロンの法則による電磁結合は塩が水に溶けることを十分にする。塩が水に溶けることに失敗する可能世界とは、クーロンの法則が働いていない世界であるのだが、塩の生成自体にクーロンの法則が関わる。ゆえに、クーロンの法則が働いていない世界では、塩はそもそも存在できないのだ。塩が水に溶けないような世界において、塩が存在しないということはありえないだろう」
 一方、Beebeは次のようにクーロンの法則が形而上学的に偶然であることを論証する「Birdの論証は、他の世界が秩序だって働いているという想定に立っている。クーロンの法則が偽の世界のなかには、塩を作り出すような固有の法則が真である世界もあるのだ」(ゆえに、クーロンの法則は塩が水に溶けるという傾向性を特徴づけはしない)

 ハイブリッド見解では、必ずしも根源的自然種があるということにコミットしなければいけなわけではない。自然種の代わりに「算出可能な指標」を使うこともできる。科学においては、根源的な「算出可能な指標」は質量や電荷といった形で認められているが、根源的な自然種は認められているとは限らない。しかしながら、この論文では根源的自然種を使って説明しよう。のちにそのコミットメントを正当化する。
 ハイブリッド見解では、法則においての見かけ上の様相的力は次のように説明される:ある法則は自然種を特徴付けているため形而上学的に必然であり、他の法則はヒューム主義者が提唱しているように形而上学的に偶然であり法則的規則性である。後者は「ソフト」な様相的力を持ち、前者は「ハード」な様相的力を持つ。

 まとめると、法則と規則性については以下の三つに分類されるだろう。
①根源的自然種を特徴付ける形而上学的に必然な法則
②法則的に必然だが、形而上学的に偶然な法則。自然種を特徴づけはしないが、自然的性質を特徴付ける。
③単なる偶然。形而上学的にも法則的にも偶然的な規則性。(法則とはいえない)

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション1/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015】

法則は偶然的なのでしょうか、それとも必然的なのでしょうか?

この論文の著者は、ある法則は必然的であり、別の法則は偶然的だとしています。

このエントリでは、セクション1の先行研究の紹介と、著者の主張のみです。セクション2からはのちに新しいエントリを投稿します。

 

philpapers.org

 

 

 

法則の様相的状態については三つの主な立場がある。

ヒューム的スーパーヴィーニエンス(Lewisが提唱):法則は完全に偶然的であり、単なる規則性であり、事実にスーパーヴィーン(付随)しているだけだ。
法則的必然性アプローチ(Armstrongが提唱):法則は形而上学的に必然ではないが、単なる規則性とは区別できる。偶然性のスペクトラムを導入する。『ソフトな』種類の法則的様相を前提とする。
科学的/傾向的本質主義アプローチ(Ellis, Birdが提唱):法則は形而上学的に必然的であり、物の本質的性質に関係している。『ハードな』種類の法則的様相を前提とする。

他には、Mumfordの法則なし性アプローチ、Loweの本質主義者アプローチ、Maudlinの法則についての原初主義などがある。
いずれにしても、様相的力(Modal Force)をどう扱うかで立場が変わってくる。
様相的力についての問い:単なる規則性から本当の法則を区別するような見かけ上の様相的力を説明することはできるか?
哲学者たちは、様相的力の説明をどの程度したら十分なのかは一致していない。しかし、この論文では、それぞれ一致していなくても良いとする。なぜならば、様々な種類の法則があるからでる。

法則的必然性アプローチとヒューム主義は、両者とも、『ハードな』種類の様相的力を拒否するという点において同じ側にいる。以下で両者の類似性について見ていこう。
ヒューム主義においては、性質についての見解は『定言主義/カテゴリカリズム/categoricalism』あるいは『カテゴリカル一元論/定言的一元論』と呼ばれているもので、「すべての根源的性質は傾向的ではなく、カテゴリカルだ」というものだ。根源的性質とは、本質的な因果力やいかなる本質的性質も持たない。つまり、性質には内在する様相が欠けているのだ。
カテゴリカルな立場においては、法則はカテゴリカル性質に関しての偶然的規則性である。
ヒューム主義と法則的必然性アプローチは両者ともカテゴリカルな立場である。科学的/傾向的本質主義アプローチはこの二つと対立する。著者は、後者のほうを自らのスタート地点とする。

著者のアイディアとは、ある法則は偶然的であり、ある法則は形而上学的に必然的であるとする「混合的立場」である。これをハイブリット見解と呼ぼう。
先行研究で著者に最も近いのはHendry and Rowbottom(2009)である。彼らの見解はある種の(温和な)傾向的本質主義である。それは反quidditismを特徴とする。quidditismとは、性質の同一性は原初的であり、同一性を失うことなく質量や電荷など傾向的特徴を交換することが可能であるという立場だ。同一性を保証する「このもの性haecceity」は傾向的特徴にかかわりなくあるとする。
Hendry and Rowbottomは、「このもの性」の代わりに、同一性の基準に「曖昧な傾向的プロフィール」を使う。塩が水に入ると溶けるという傾向性は、様々な条件が必要になるが、その条件は曖昧である。それらの条件を総合して「曖昧な傾向的プロフィール」とする。しかし、個別の傾向性自身を使わずに、特定できないプロフィールを使うのはquidditismになる恐れがある。

著者はHendry and Rowbottomに完全に賛成しているわけではないが、重要なつながりがある。Hendry and Rowbottomの説を「温和な」タイプの傾向的本質主義、Ellisの説を「厳格な」タイプとすれば、著者は「弱い」タイプの傾向的本質主義である。
「温和」タイプは、性質の同一性は傾向的プロフィールもしくは因果的役割で決定されるとするが、性質の傾向的プロフィールのなかで「穏健な」間世界的変動を認める。
「温和」タイプと「弱い」タイプの重要な違いは、前者が傾向的プロフィールの変動を取るに足らないものとして説明なく放っておくのに対して、後者が変動を起こすものについて説明を試みることだ。

著者の立場は、自然種についての根源主義だ(本当の自然種と根源的存在論的カテゴリーを前提とする)。これはLoweやEllisもとっている立場だ。しかし、著者のバージョンには相違点がある。主な違いは以下の二つである。
①:ある法則は偶然的で、別の法則は必然的である。
②:根源的自然種の特徴についての法則は必然的であり、非根源的自然種の特徴についての法則は偶然的である。

セクション2では、①が擁護される理由を示す。セクション3では、Loweの本質主義的アプローチへの批判と、法則と自然種のつながりが示され、Loweの説明の問題点から②が導き出されることを確認する。セクション4と5では、光物理学での法則には偶然的なものと必然的なものが混在していることを示す。

 

 

【論文まとめ】IITはラッセル的汎心論と両立するか?/“Is IIT compatible with Russellian panpsychism?"【 Hedda Hassel Mørch(2016)】

mindsonline.philosophyofbrains.com

 

 

 

アブストラクト

 

 意識の統合情報理論(IIT)はある種の汎心論を含んだ経験的仮説である。この論文では、IITはラッセル的汎心論と親和的であり、ラッセル的汎心論の弱点である組み合わせ問題を解決できる可能性があるが、現在のバージョンのIITとラッセル的汎心論は整合的ではないところがある。整合性をもたらすために、IITに対する二種類の修正がありうる。一つはIITの排外仮定を修正するものであり、もうひとつは粗い粒化原理(coarse-graining principle)を修正するものだ。

 

○汎心論とは?


 汎心論とはすべての物理的なものは次の三つのうちどれかだと主張する立場だ。
 ①意識
 ②意識的なパーツにより作られたもの
 ③意識を作り出す部分

 

ラッセル的汎心論


 近年の心の哲学で受け入れられている汎心論のバージョンはラッセル的汎心論である。これは物理主義と二元論の問題点を避ける立場であるからだ。物理主義の問題とは、認識論的ギャップの問題であり、二元論の問題とは、心的因果の問題だ。
 ラッセルは物理学が扱うのは関係的あるいは構造的性質のみだとした。どのように物理的なものが他のものと関係しあうかであり、ものそのものが何であるのかという問題は扱わない。ラッセル的汎心論では、関係性には内的性質(instrisic properties)が必要だ。さらに、現象的性質は内的性質であるとする。

 

○物理主義と二元論の困難とラッセル的汎心論の有利な点


 物理主義では、現象的性質は物理的性質と同一だとする。問題は、現象的性質なしの物理的性質は想定可能だということだ。
 二元論では、現象的性質と物理的性質は別だとする。問題は、物理的世界は物理的性質のみに閉ざされていると想定した場合、心的因果が物理的世界に向かって働くことはないという結論になってしまうことだ。
 ラッセル的汎心論では、物理的性質は現象的性質(内的性質)により構成されるとする。もし、内的性質のあるものが存在するのであれば、その構造である物理的性質も存在するので、ギャップの問題はない。物理主義の問題点を回避できる。
 ラッセル的汎心論では、現象的性質が物理的構造を実現するため、物理的性質の因果的有効性は内的性質なしにはありえない。ゆえに、心的因果の問題はない。二元論の問題点を回避できる。

 

○構成的汎心論と創発的汎心論、およびその問題点


 構成的汎心論では、複雑な意識は単純な意識により構成されると考える。つまり、複雑な意識とは単純な意識が時空的に関係した姿と同一である。この立場は『組み合わせ問題』に直面する。ミクロな意識をどのように組み合わせればマクロな意識が構成されるのだろうか?ミクロ意識があっても、そこからマクロ意識があるということを導き出せない。
 創発的汎心論では、ミクロ意識の集合体とマクロ意識は別のものだとする。むしろ、ミクロ意識集合体により因果的にマクロ意識が生み出されるのだ。この立場は心的因果の問題に似た問題に直面する。ミクロ意識が物理的構造を決定するのならば、マクロ意識は因果的に余分な部分となってしまうのだ。

 

○IIT


 IITは意識の経験的相関を見出そうとする理論だ。すべての意識システムは統合情報Φの最大値であり、意識とはそれのみであるとする。この相関関係は、自己の内観から得られた現象学的公理からアプリオリで導出される。
 IITは小脳などの脳の部分にはなぜ意識がないか、や深い眠りについたときにどうして意識が消えるのかということを説明することができる。

 

○IITと組み合わせ問題


 IITは組み合わせ問題を解決できる。意識とΦの相関関係は現象学的公理からアプリオリで導出できるためだ。アプリオリなつながりは認識的ギャップをなくす。
 その解決の仕方には、いくつかの立場がある。

 

○現象的結束の立場


『現象的結束の立場(the phenomenal bonding view)』では、some physical relations はそのrelataの内的性質に還元不可能な内的本性を持っているとする。内観により、いくつかの物理的relataの本性にアクセスできるが、物理的relationsの内的本性にはアクセスできない。現象的結束立場によると、もし我々が脳内の粒子のむすびつきに関して内的本性を知ったならば、マクロ意識の存在はミクロ意識の関係性から導き出せると結論付けることができる。
 現象的結束の立場において最大の問題は、どんな物理的関係性が現象的結束関係性に対応するかを選び出すことだ。Goffは空間的関連性は現象的結束関係性だとする。そうだとすると、空間的関係性のあるすべての物理的性質は意識があることが導き出される。これを普遍主義(universalism)というが、ほとんどの汎心論者は普遍主義を拒否して意識をあるシステムだけに制限している。
 IITは現象的結束立場のようなことはありえるとする。IITが正しければ、現象的結束関係はある種の因果関係(オーバーラッピングする他のシステムよりもΦが高い要素の因果関係)となる。これは普遍主義を含まずに、アドホックな連接もない、自然な物理的関係性である。

 

○融合の立場


『融合の立場(the fusion view)』は創発的汎心論で組み合わせ問題に解答しようという立場だ。この立場によると、マクロ意識の創発共時的ではなく、通時的に起こる。創発したマクロ意識が、それを引き起こしたミクロ意識の集合体を引き継いで存在するようになるのだ。これにより、物理的性質を実現する候補は一つとなる。
 Seagerは量子的絡み合いやブラックホールのフォーメーションなどが物理的融合の例だとしている。要素は個別性を失い、『大きな単一』となる。しかし、脳内にそれに値するものは見つからない。
 IITはそれ自体は融合の立場である。それは排外(Exclusion)の仮定によるものだ。システムのなかで最大値のΦを示す部分のみが意識を持ち、下位レベルのミクロ意識は失われるとする。IITは情報の統合性という基準により融合の同一性基準を与えている。それは経験的に取り扱えるもので、物理学的仮説に対して改訂的ではない(脳内の量子的絡み合いを仮定するような無理はしていない)。

 

○粗い粒化問題(the coarse-graining problem)


 粗い粒化問題とは、IITが意識の時空的粒子を選び取る方法に起因する問題だ。IITでは脳というシステムはニューロンなどの荒い空間的粒子を部分として構成しているとする。また、ミリ秒単位の荒い時間的粒子を基準としている。
 粒子以下の構造は経験の質にとって関係がないとすると、ミクロ構造が炭素でもシリコンでも意識の性質には変化がないということになる。
 このことは、ラッセル的汎心論と矛盾する。ラッセル的汎心論では、物理的構造が現象的性質に付随(スーパーヴィーン)するとしている(少なくとも法則的に付随する)。しかし、IITでは付随は成立しない。
 次のように考えればIITとラッセル的汎心論の対立が解消されるかもしれない:炭素ニューロン脳とシリコンニューロン脳はマクロ現象的性質は同一であるが、ミクロ現象的性質は別であるのだ。同一のマクロ現象的性質は同一のマクロ物理的構造を実現あるいは法則的決定するが、ニューロンなどのミクロ単位での別々の経験が別々のミクロ物理的構造を実現するのだ。
 しかし、この考えは、排外の仮定により棄却される。マクロ意識よりも下位レベルのニューロンはミクロ意識を持つことはできない。

 

○Exclusionを放棄する


 排外仮定の放棄は脳内に無数の意識があることを意味し、『多数者の問題』を引き起こす。また、普遍主義を導く。これはまずい。
 さらに、IITの経験的問題を引き起こす。夢のない眠りでもΦはゼロにならないが、なぜ意識は消えるのかという問題に対して、脳内のサブシステムのΦよりも脳内全体のΦが低くなったからだと回答できる。Exclusionの下では、サブシステムの意識により脳全体の意識が排外されると説明できる。

 

○粗い粒化を放棄する


 粗い粒化を放棄して、もっと細かい粒化にしてはどうだろう。しかし、問題が起こる。第一に、我々の経験は脳内のミクロ物理的構造を反映していない。哲学においてこの問題は『粒の問題』といわれている。経験の粒は脳内のミクロ物理的粒を反映していないのだ。 
 第二に、経験的問題が起こる。Φはニューロンよりも小さい単位でもゼロにならないため、脳内の分子や原子が意識を持ってしまうこととなる。これは多数者の問題を引き起こす。

 

○Exclusionを修正する


 次のようにExclusionを修正すれば粗い粒化問題を解決できる。
 ①同じ時空的粒のなかでは意識はオーバーラップしない。
 ②下位レベルのシステムよりもΦが高いシステムでのみ意識は粒として存在する。
 これは、脳内の意識は、もっとも肌理の細かいミクロ物理的粒における意識とオーバーラップしているということだ。肌理の細かい部分が違う二つの脳(炭素脳とシリコン脳)はその部分においては別種の質を持った意識を経験しており、その違いはミクロ物理的構造と法則的スーパーヴィーンしている。
 この解決法は、Exclusionの放棄よりも役に立つ。例えば、眠りにおける意識の喪失を否定しない。脳レベルでの粒の意識は、下位レベルがより高いΦを持つと消える。また、能が考えられる限りで最も高いΦを持つシステムだとすれば、銀河や宇宙が意識を持つとする普遍主義も棄却できる。
 この修正案は、構成的ラッセル的汎心論のみに適用できる。創発的汎心論のように、ミクロ現象的性質とマクロ現象的性質が別物なのであれば、ミクロ現象的性質がマクロ現象的性質を因果的に排除するはずだ。
 しかしながら、粗い粒の現象的性質が細かい粒の現象的性質により構成されると考えても別の問題が生じる。緑を見るという経験ができる最小の部分を考えよう。その部分は主体にとって、完全に均一である。もしもこの均一な緑の部分がもっと小さな粒におけるミクロ現象的性質により構成されているとすると、主体の経験は均一で部分がないにもかかわらず複合体であるということになる。
 多くのラッセル的汎心論者は、現象的性質について見せかけと実際の区別は存在しないということを動機にしている。もしそうであれば、ある経験が均一でかつ複合体であるというのは道理に合わない。

 

○粗い粒化を修正する


 粒の問題:脳内のミクロ物理的構造に対応するマクロ意識の構造が少なすぎる。
 パレット問題:物理学において根源的粒子の数は制限されているが、それに対してマクロ意識が持つ質は多すぎる。
 この二つの問題は相補的に解決できる。失われたミクロ物理的構造のいくらかは余分なマクロ意識の質にエンコードされていると考えるのだ。ミクロ物理的構造が潜在的に可能なマクロ現象的な質に対応しているとするのだ。
 この考えは、IITの粗い粒化原理を修正する。Φ最大値の粒よりも下位の情報は経験の質にとって重要であり、構造にとっては重要ではない。つまり、ミクロ物理的レベルで別々のものが同じマクロ現象的構造を実現することはあるが、同じマクロ現象的質は実現できない。
 ここには、どのようにミクロ物理的構造が経験的質にエンコードされるのか?という謎がある。

 

○結論


 この論文では、粗い粒問題を解決し、IITとラッセル的汎心論を両立させる二つの方法を提案した。一つはExclusion仮定の修正であり、もう一つは粗い粒化原理の修正である。この二つの修正案は、ラッセル的汎心論の組み合わせ問題を解決しうる。心的組み合わせの原理は現象学的公理もしくは相関的主張のみからアプリオリに演繹可能である(現象的結束の立場または融合の立場いずれにしても)
 Exclusionの修正は現象的質は必然的に見かけとしてあるという立場と緊張関係にあり、粗い粒化原理の修正は質と構造の間のミステリーな関係性を前提とする。

【論文まとめ】「汎心論と汎原心論/Panpsychism and Panprotopsychism」【David J. Chalmers(2016)】

心の哲学の代表的論者、デイヴィッド・チャーマーズの論文です。汎心論と汎原心論、ラッセル的一元論、汎質論についての議論がまとめられています。

www.oxfordscholarship.com

 

チャーマーズは『意識する心』と『意識の諸相』が翻訳されています。

www.amazon.co.jp

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