水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

論文要旨 フレーゲ「意義と意味について」①

「a=a」と「a=b」は明らかに異なった意味合いがある(前者は絶対に成り立ち、我々に新たな知識を与えないが、後者は知識を拡大させる)

だが、もしa=bが正しいならば、両者は同じことを言っているはず。

このようなおかしなことになるのは「a=b」が対象そのものの表現ではなく、対象の指し方の表現であるからだ。

仮に、直線a,b,cが交わっているとする。このとき、「aとbの交点=bとcの交点」であるが、これは対象の示し方が左右で異なるため新しく知識を拡大させる。

対象の指し方を「意義」と言い、対象そのものを「意味」と言う。

 

固有名(特定の対象を指し示す機能がある語や文)の意義はその言語を話すすべての人が把握しているが、固有名の意味を完全に理解するには、その意味がどのような意義によって与えられるかを全て知らなければならないため、人間には不可能である。意味の知識は常に一面的なものだ。

普通は、一つの語に対して一つの意義が対応し、一つの意義に一つの意味が対応するが。いつもそれがうまくいくとは限らない。異なる言語において、一つの意義が異なる語により与えられる。日常言語においても、語と意義が一つに対応しないときがある。そのときは、同一の文脈において同一の語が同一の意義を持つ程度に妥協しなければいけない。

ある意義に対しては必ずしも意味が対応するとは限らない。「地球から最も離れた天体」「最も遅く収束する数列」などの意義には意味は対応しない。

直接文法のときの語は意味を表す。語自体を語りたいときは、語を引用符で囲む。引用符に囲まれた語はもはや意味を表してはいない。

間接文法のときの語は意義を表す。

「太郎は aとbの交点が bとcの交点と同じだと主張した」という文は

「太郎は aとbの交点が aとbの交点と同じだと主張した」という文と同一ではない。なぜならば、「aとbの交点」という語と「bとcの交点」という語は意味は同じだが意義は違うからだ。

意味でも意義でもないものにイメージがある。イメージとはある個人が、意義を基にして作った心的な像である。これはまったく主観的なものであり、各人に共通していない。画家と乗馬師と動物学者は「ブケファルス(アレキサンダー大王の馬)」という意義から異なるイメージを作る。

イメージと意義はまったく異なる。イメージは個人のなかにしか存在しないが、意義は人類共通の財産である。

このことを示す比喩として、月を望遠鏡を通してみることを考えよう。このとき、月は意味、望遠鏡は意義、各人の網膜像がイメージである。意味は意義を通すことでイメージを作る。意義は各人に共通のものだが、イメージは各人固有のものだ。

(続く)