水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

論文要旨 フレーゲ「意義と意味について」② (注:映画まどマギねたばれあり)

(注:映画まどマギのネタバレあります)

 

 

これまでは、固有名に関して意義と意味についてみてきたが。これからは文についてみていこう。

文は命題(思想とも言う)をもつ。ではこれは文の意義か意味か? ある文の言葉を、同じ意味だが異なる意味を持つ言葉にしたと考えよう。そのとき、文の意味には影響しないが、命題は変化する。例えば、「べべはシャルロッテである」という命題は「百江なぎさはシャルロッテである」という命題とは異なる。映画を全部見ていない人やほむほむは前者の命題を真とするが後者の命題を偽とする。

それゆえ、命題は文の意味ではなく、意義である。

では全体としての文を考えてみよう。一つの文が意義を持つが、意味を持たないということはありうるのか? 意味を持たない固有名を含む文はそのようなものとなる。例えば、「ほむらはまどかを救うために悪魔となった」という文は意義を持つが、意味を持つかと問われたら考えてしまう(まったくのフィクションなので)。ひょっとすると、意味をもつと強く主張する人はいるかもしれないが、ここではその議論はしない。命題のみを考えるときは、意義のレベルのみを考えればいいからだ。「ほむら」や「まどか」という名が意味を持つかどうかに関わらず、命題のレベルでは同一である。

では、なぜ我々は命題のレベルまでで満足することがなく、文に意味を求めるのか? それは、命題の真理値に対して関心があるからだ。映画まどマギ叛逆の物語を芸術作品として見るとき、「まどか」や「ほむら」といった名が意味を持つかはどうでもよい。しかし、真理の追究ということになってくると意味に関心を抱かなければならない。

つまりは、文の意味とは真理値なのである。語の意味が問題となるすべての文は主張文である(その意味は真か偽かどちらかである)。

ある判断をするとき、それは意義のレベルから意味のレベルに一歩踏み込んでいるということだ。

(続く)