水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

【インターネット哲学百科事典】「水槽の中の脳論証 / Brain in a Vat Argument」

今回はインターネット哲学百科事典という無料の査読つきオンライン百科の記事をまとめてみました。

記事はここで読めます。

 

 

インターネット哲学百科『水槽のなかの脳論証』

水槽の中の脳論証とは、デカルト懐疑論を描く有名な思考実験である。あなたは外界を完全にシミュレートするコンピュータにつながれた脳である可能性がある。もし、自分が水槽の中の脳ではない可能性を排除できないのであれば、外界の全てが偽である可能性も排除できない。
 Pを外界についての信念としよう。
 1、もし私がPを知っているならば、私は水槽の中の脳ではない
 2、私は自分が水槽の中の脳ではないことを知らない
 3、ゆえに、私はPを知らない
 水槽の中の脳論証は、デカルトによる悪霊の思考実験の現代版だ。また、最近では映画『マトリックス』により描かれたものでもある。

 現代哲学の一派は水槽の中の脳は不可能であることを示し、懐疑論を反駁した。例えば、ヒラリー・パトナムの『理性・真理・歴史』では、我々が水槽の中の脳でありえないことを示した。その理由として、心の哲学と言語哲学の議論や実在論の議論が挙げられている。しかしながら、パトナムの論証がうまくいっているかははっきりしているわけではない。

 

1、懐疑論実在論


 パトナムの反論は、全般的な懐疑論形而上学実在論を含んでいることを攻撃する。パトナムは形而上学実在論については世界がなんであるかが心的なものと独立に固定して存在し、世界を完璧に描写する方法があるうるとする立場と評している。科学的性質が人間の認識や分類と離れて存在し、『レディ・メイド』の世界が作られているとす説は形而上学実在論にあたる。言葉と心から独立した"事実"を対応関係として与えることができるといする形而上学実在論者はパトナムの説にイラつきを感じている。ここでは、形而上学実在論者とは存在論的なコミットメントをするものだと解釈されており、存在ではなく文や理論の真理についてコミットメントする者については無視している。

 形而上学実在論は、ある提案では、現実においてア・プリオリな認識上の制限はないとする立場である。このことを考えれば、実在論者は『レディメイド世界』との一致という問題を避けることができ、
パトナムの形而上学実在論も『認識論的な制限』などないことには同意するであろう。このような形而上学実在論の普遍的な定義は水槽の中の脳論証のターゲットでもある。もし、形而上学実在論が正しければ、私が言及している外界の全てが偽である可能性があるという全般的懐疑論を唱えることが可能となる。トーマス・ネーゲルは『実在論懐疑論を分かりやすくする』としている。なぜならば、認識と真理の間にギャップがあれば、我々の真理全てが正当化されておらず、世界を描いていない可能性があるからだ。ドナルド・デイヴィッドソンはまた以下のように指摘した。「形而上学実在論懐疑論が羽織る衣の一つだ、それらは外界についての私の信念が根本的に間違っている可能性を示しているからだ」

 水槽の中の脳のシナリオは、我々の外界についての正当化されている思念が全て間違っている可能性を示す。しかし、水槽の中の脳が間違いであれば、モーダストレンスにて形而上学実在論も間違いであると示される。
 それは以下の論証を見えれば分かる。
 1.もし形而上学実在論が真であるとすれば、全般的懐疑論が確立する可能性がある
 2.もし全般的懐疑論の可能性があるとすれば、我々は水槽の中の脳であることができる
 3.しかし、我々は水槽の中の脳であることはできない
 4.ゆえに、形而上学実在論は偽である
 この記事では3にフォーカスするが、一部の哲学者は2が間違いではないかと疑っている。

 

2、パトナムの論証


 パトナムの論証の基本は『因果的制限』である・
 因果的制限(CC):言葉が物を指し示すのは、言葉と物との適切な因果関係があるときのみである
 例えば、蟻の足跡が偶然、チャーチル大統領の似顔絵にそっくりだったとしよう、このとき、似顔絵と大統領の間に適切な因果関係は存在しないため、似顔絵は大統領を指し示しているわけではない。同じように、くしゃみをしたとき偶然「ジンギスカーン!」という音が出ていても、それはジンギスカンという人物を指し示してはいない。適切な因果関係とは、指し示すことの必要十分条件なのだ。これが単なる必要条件であれば、多くの哲学者は同意したであろう。内在主義者でさえCCには同意する。外在主義とパトナムの論証は『水槽の中の脳と自己知識』のセクションで論ずる。

 『水槽の中の脳』は以下のようなよくあるシナリオではない:マッドサイエンティストがあなたの脳を水槽の中に入れて、バーチャルリアリティを見させている。このシナリオとパトナムシナリオの重要な違いは、パトナムシナリオのほうは水槽の外界に存在する視点が存在しないことだ。もし、外界にマッドサイエンティストがいれば、彼は「これは水槽の中の脳だ」と正しく言えるし、水槽の中の脳自身もマッドサイエンティストから言葉を借りて自身を指し示すことができる。この状況でBIVが「ここには木がある」と言い、シミュレーションの木を指し示すことは間違いだといえる。なぜならば、「木」という単語をマッドサイエンティストから借りてきたのならば、BIVが見ているのは木の感覚刺激に過ぎないからだ。パトナムが描いたシナリオでは、外部にマッドサイエンティストなど存在せず、感覚のある生物は全て水槽の中にいる。このシナリオは少なくとも物理的な実在は許されているが、パトナムがいうには我々はこのシナリオを述べることはできない。『我々は水槽の中の脳である』という文章は『この文章は偽である』と同じように自己反駁的だという。

 この思考実験では、水槽の中の脳は外部にあるときと同じ主観状態を保っている。外部にあるときとの重大な違いは、外界の存在があるかないかである。BIVが「目の前に木がある」といったとき、実際には木はなく、コンピュータプログラムがあるだけだ。実際に木がなければ、BIVと木の間には因果的なつながりはない。CCにより、BIVが言う"木"は本当の木を表していない。

単純に考えて、BIVが「わたしの目の前には木がある」といえば、それは偽だ。なぜならBIVは実際の木を指し示していないからだ。しかし、「木」をBIVの言語だと考えればどうなるか。あるときのパトナムは、コンピュータから供給される感覚刺激を指すとする。一方、パトナムはデイヴィッドソンの主張に賛成することもある。デイヴィッドソンは真理条件とは感覚刺激を生じさせるコンピュータの電磁インパルスによるとする。デイヴィッドソンがそういうのには理由がある、彼はBIVの文を真としたいのだけれども、現象学を援用するのは嫌なのだ。彼に言わせると、BIVの「目の前に木がある」はもしコンピュータが正しい電磁インパルスを与えれば真なのだ。

他の提案として、BIVの発話の真理条件は空であるべきというものがある。BIVはなにも主張していないということだ。しかしながら、BIVの「目の前に木がある」は通常の言葉とは環境が著しく異なっていたとしても、なにかを意味することは確かだ。一方、BIVの「木」が外界の人物が発音するときとは別のものを指すことは確かだろう。外界にいる人は実際の木と適切な因果関係にあるが、BIVはそうではない。BIVの宇宙の中では、BIVは「水槽」や「脳」を指し示すことができるが、それは実際の水槽や脳ではない。実際の存在とBIVは適切な因果関係にないからだ。

 パトナムの論証は以下の形をとる。
 1、我々が水槽の中の脳だと想定せよ
 2、もし我々が水槽の中の脳だとすると、「脳」は実際の脳を指さず、「水槽」は実際の水槽を指さない
 3、もし「水槽の中の脳」が実際の水槽の中の脳を指さないのであれば、「我々は水槽の中の脳である」は偽となる
 4、ゆえに、もし我々が水槽の中の脳であれば、「我々は水槽の中の脳である」は偽となる

 この論証は3が本当であるかに成立がかかっている。CCによると「我々は水槽の中の脳である」は実際の水槽の中の脳を指さないが、それは偽であるという結論にはならないかもしれない。真理条件の候補は以下のようなものがある。
 A、「芝は青い」は芝が青いときのみ真である
 B、「芝は青い」は芝が青いという感覚印象を受けたときのみ真である
 C、「芝は青い」はある人が電磁気状態Qのときのみ真である
 
 水槽の中の脳を想定すると、CCはAを排除する。正しい因果的つながりがないとき「芝」は実際の芝を意味しないからだ。もしBを採用すると、BIVの「芝は青い」は真となる。その結果、Dが導かれる。
 D.「我々は水槽の中の脳である」は水槽の中の脳であるような感覚印象を我々が持っているときのみ真である
 この真理条件では、BIVの発言はおそらく偽となる。BIVは自分が水槽の中の脳であるかのような感覚印象を持っていないからだ。
 デイヴィッドソンに従い、Cを真理条件にした場合、次のような結論が導かれる。
 E、「我々は水槽の中の脳である」は我々が電磁気状態Qのときのみ真である
 ここでは、BIVの「我々は水槽の中の脳である」発言が偽であることは明確ではない。BIVが適切な電磁気状態にあれば、真理条件は満たされるからだ。このような標準的ではない真理条件を次のように表そう。
 F、「我々は水槽の中の脳である」は我々がBIV*であるときのみ真である
 BIV*はBIVと異なる。そのことを示す証明は以下である。
 1、我々はBIVであると想定する
 2、もし、我々がBIVであるとすると「我々は水槽の中の脳だ」は我々がBIV*のときのみ真となる
 3、もし、我々がBIVだとすると、BIV*ではない
 4、もし、我々がBIVだとすると、「我々はBIV」は偽である(2,3より)
 5、もし、我々がBIVだとすると、我々はBIVではない(4より)
この論証は開いた仮定法の形をしている。単なる反事実条件ではない。この論証が正しければ、我々がBIVであることは不可能なこととなる。
 しかし、4から5へと移行する過程に問題がある。言語に関する問題を命題の真偽に関する問題にしてしまっているからだ。

 

 3、論証の再構成
 
 Bruckner(1986)は、もし我々が実際にBIVだとしても「我々はBIVである」という文は偽であるとしている。BIVであるものの真理条件をDとして、次の論証ができるからだ。
 1.私はBIVかそうでないかである
 2.もし私がBIVなら、BIVの感覚印象を受けているときのみ「私はBIVである」は真である
 3.もし私がBIVなら、BIVの感覚印象を受けてはいない
 4.もし私がBIVなら、「私はBIVである」は偽である(2,3より)
 5.もし私がBIVでないなら、私がBIVであるときのみ「私はBIVである」は真である
 6.もし私がBIVでないなら、「私はBIVである」は偽である(5より)
 7.「私はBIVである」は偽である(1,4,5より)
 
 しかしながら、「私はBIVである」という表現は私はBIVであるという命題を表しているのだろうか?もし、私がBIVであった場合、「私はBIVである」という表現は、実際にBIVであるということではなく、何か別のもの(BIVであるかのようなイメージなど)を指す。たとえ「私はBIVである」という文が偽であったとしても、それにより私がBIVであるという命題まで偽であるとはいえない。
 何人かの哲学者は、論証はそのような結論でも良いとする。当初の目的であった形而上学実在論の反駁は可能であるからだ。形而上学実在論者は、いかなる言語を使っても水槽の中の脳のシナリオは表現できない。これで全般的懐疑論の心配はない。
 しかし、パトナムは意味論的な問題ではなく形而上学的な問題を扱いたかったはずだ。言語と実在の間にギャップがあることが可能であれば、パトナムの論証は水槽の中の脳の懐疑を完全に払拭し切れていないこととなる。

 パトナムの論証には別の問題点もある。2の真理条件だ。Disquotation Principleによれば、
 「芝は青い」は芝が青いときのみ真である
 はずだ。同じように、
 F.「私はBIVである」は私が水槽の中の脳であるときのみ真である
 ゆえに
 G.もし私がBIVであれば、「私はBIVである」は私が水槽の中の脳であるときのみ真である
 しかしこれは、2の真理条件とは異なる
 2.もし私がBIVなら、BIVの感覚印象を受けているときのみ「私はBIVである」は真である
 Gと2は「BIV」という言葉を使って別の存在を指す基準だ。我々が外界語を喋っている場合はGはたぶん偽である(CCにより)。しかし、我々は水槽語を使っていないとは断言できないため、2を使っているかどうかは断言することができない。私は自分が使っている言語を知らないので、「わたしはBIVではない」という表現が私がBIVではないという命題を主張するのか分からない。
 
 これと同じ問題が、Wright(1994)の論証にもある
 1.私の言語はdisquoteする
 2.BIV人であれば、「水槽の中の脳」は水槽の中の脳を示さない
 3.私の言語では「水槽の中の脳」は意味ある表現だ
 4.私の言語では「水槽の中の脳」は水槽の中の脳を示す
 5.私の言語はBIV人のものではない(2,4より)
 6.もし私がBIVであれば、私の言語はBIV人のものだ
 7.私はBIVではない
 
 これはDisquote Principle(4を保証する)とCC(2を保証する)が妥当であれば正しいように思われる。
 しかし、水槽語が意味のある言語だとすれば、DQより水槽語で「水槽の中の脳」と言ったときも水槽の中の脳を指すことができるはずだ。これは2と矛盾する。この問題はDQを自由に使いすぎていることから生まれると思われる、我々は全ての意味ある語がなにかを指すと主張したいわけではない。そのような主張は強すぎである。たとえば、「サンタクロース」という語は何も指し示していない。サンタは存在しないからだ。代わりに『擬似指し示す』ということを定義しよう。(Weiss, 2000)
W:もしLのなかで"x"がxを擬似指し示すのであり、xが実在した場合は、"x"はLのなかでxを指し示す
 もし、サンタクロースが実在するという発見がなされれば、「サンタクロース」という語はサンタクロースを指し示す。
 ゆえに、Wrightの論証は次のようになる。
 1.私の言語はdisquoteする
 2.BIV人であれば、「水槽の中の脳」は水槽の中の脳を示さない(CC)
 3.私の言語では「水槽の中の脳」は意味ある表現だ
 4.私の言語では「水槽の中の脳」は水槽の中の脳を擬似指し示す(DQ)
 5.私の言語はBIV人のものではない(2,4より)
 6.もし私がBIVであれば、私の言語はBIV人のものだ
 7.私はBIVではない
 この論証で、5は2と4から導くことはもはやできない。4を擬似指し示すではなく真性の指し示すにしたら2とDQが矛盾することとなる。さもなければ1は無効となる。

 

4、水槽の中の脳と自己知識


 Warfield(1995)は自己知識に基づき、水槽の中の脳シナリオの反駁方法を考え出した。以下のようなものだ。
 1.私は水は湿っていると思っている
 2.水槽の中の脳は水は湿っていると思うことができない
 3.ゆえに、私は水槽の中の脳ではない
1はprivileged access説から導いたもので、非経験的に知ることができるため、全般的懐疑論にもおかされる心配はない。
2はパトナムの『双子地球の思考実験』での議論を踏まえたものだ。地球と瓜二つの惑星があるとしよう。そこでは我々と同じような言語が話されており、あらゆる物質が同等であるが、ただひとつ水の組成だけが違う。双子地球の水は表面上はH2Oとよく似た性質を持つが、まったく違う化合式XYZで表される物体である。このとき、双子地球の人間が「水をくれ」と言ったとすれば、それはH20ではなくXYZを表している。たとえ、双子地球の人々の脳内状況が地球の人々と同等であってもだ。パトナムはこの思考実験から「意味とは頭の中だけで決まるのではなく外界にあるものによっても決まる」という結論を導き出した。
 水槽の中の脳でも同じように、水が湿っていると思うには外界に水がなければならない。しかし、BIV環境には水はないため、BIVは水は湿っていると思うことはできない。ゆえに、2はア・プリオリに真である。
 この議論の問題は「水」という語が指すものが実体的(substantial)なものだと断言していることだ、もしも「水」が表面的(superficial)なものを指すのであれば、BIVも水は湿っていると思うことはできるはずだ。

5、この議論の重要性
 いくらかの哲学者たちは、パトナムの議論は妥当だが、全般的懐疑論を全て撃退するまでにはいかないという。たとえば、あなたが昨日マッドサインティストに誘拐されて、脳を切り出され、バーチャルリアリティを生み出すコンピュータに接続させられたという想定はパトナムの論法では撃退できない。実証主義者たちは、BIVシナリオは反証方法がないため無意味な仮説だと主張する。他の人々は水槽の中の脳は認知科学的に可能であるかということを議論している。Dennet(1991)は人間生活と同等なバーチャルリアリティを作ることは物理的に不可能であるとしている。しかしながら、未来技術に望みを託しているものもいる。