水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

【論文まとめ】「ファイにおける問題:情報統合理論批判 / The Problem with Phi : A Critique of Integrated Information Theory」【Michael A. Cerullo(2015)】

The Problem with Phi: A Critique of Integrated Information Theory

 

論文の背景

ジュリオ・トノーニは意識の量を測るための「情報統合理論(IIT)」を提唱した。

それは、「意識とは統合情報である」という理論だ。統合情報とは、「システムの要素が生成する情報」とされる。

情報統合理論は、現象学をベースとするいくつかの公理から、意識の量を数学的に算出する理論である。意識の量をΦとする。

この理論では、人間の脳と同等のフォンノイマン型コンピュータは意識を持っていないとすることもできる。

 

著者の主張

情報統合理論は以下のことから欠点のある理論である。

①公理の一つである「情報排除」の証拠はない。

トリビアルな理論でもIITと同じ予測をするため、IITには説明力がない。

③IITは機能主義に立脚していないため、「消え去る/踊るクオリア論法」に弱い。

④IITは認知的意識の理論というよりも、非認知的意識または原意識についての理論であり、現在の神経科学が注目するものではない。

⑤意識のハードプロブレムを解決することはない、むしろプリティ・ハードプロブレムに向かっている。

 

なぜそのような主張をするのか?

①公理の一つである「情報排除」の証拠はない。

「情報排除」の公理とは、意識のレベルとは、システムにより排除される認識的可能性の量により決まるというものだ。トノーニはこれは現象学的直観から得られるとしている。フォトダイオードは明か暗かの状態のとき、排除する可能性はそれぞれ一種類だが、人間は無数の可能性を排除したうえで一つの意識状態にある。

この公理の問題は、著者の直観とトノーニの直観が一致しないということだ。脳は多数の状態を区別できるが、脳の主な機能が情報表象であるからであり、情報排除公理はトートロジーとなる。

また、その他の公理も証拠はない。たとえば、「排外の公理」によれば、大きな意識の中に小さな意識があるということはない(意識とは排外的である)とするが、他の意識の一部分だということをどのように知ることができるかわからない。

 

トリビアルな理論でもIITと同じ予測をするため、IITには説明力がない。

トノーニはIITに経験的証拠があるとしている。たとえば、分割脳の事例でそれぞれの分割脳が別の意識を持つのは脳を分割してもΦが大きく減ることはないからである。

だが、恣意的な別の理論でも同じくらいの説明をすることはできる。循環調整伝達理論(CCMT)というトリビアルな理論を考えてみよう。これは、意識とはシステム内のフィードバックループを起こす情報であるとする理論だ。システムの情報循環をΟ(オミクロン)とする。Οは全体の情報循環に部分の情報循環をマイナスしたものだ。フォトダイオードに意識がないのは情報が循環する通路がないためである。対して人間の脳にはフィードバックループがあるので意識がある。

分割脳の事例ではそれぞれの脳にフィードバックループが残っているため二つの意識が生まれる。

 

③IITは機能主義に立脚していないため、「消え去る/踊るクオリア論法」に弱い。

以下のエントリと同じ論法のため省略。

the-yog-yog.hatenablog.com

 

④IITは認知的意識の理論というよりも、非認知的意識または原意識についての理論であり、現在の神経科学が注目するものではない。

トノーニとAaronsonの議論では、XORゲート(XORゲート - Wikipedia)が意識を持つ可能性について話されている。トノーニはその可能性を認めるが、Aaronsonはばかげているとする。対して、トノーニは常識によりIITを棄却することはできない、なぜならば、限界事例における意識について話しているからだと反論する。また、トノーニは意識の理論は現象学からはじめるべきで意識の神経相関からはじめるべきではないとする。

ここで、トノーニには三つの問題がある。

一つ目の問題:主観的経験をベースとした意識の根源的性質の考察は人々により大きく変わりうる。AaronsonはXORゲートに意識が生じるのはありえないとするが、トノーニはありえるとする。

二つ目の問題:トノーニとAaronsonで「意識」がなにを示すかが違っている。Aaronsonは「意識」を神経科学と整合的な意味で使っているが、IITはもっと一般的な主観的現象という意味で使っている。

IITは汎心論の一種である汎経験主義である。万物に心があると主張するのではなく、万物に経験があると主張するからだ。この経験に当たるのは意識ではなく原意識である。トノーニは意識と原意識を混合している。Rosenbergは原意識的経験は心が欠けているとする。フォトダイオードやXORゲートは認識的性質を欠いている、対して、人間の脳は意識と気づき・記憶・機能遂行が関連している。

Aaronsonは科学者が興味を持つ意識を認識的意識とする、対して、IITは非認識的意識を扱う。

ネッド・ブロックは命題的態度であるアクセス的意識と感覚である現象的意識を区別したが、そのどちらも認識的意識である。

トノーニはXORゲートには非認識的意識があると言ったのに対して、Aaronsonは認識的意識はないとしたのだ。

だが、認識と経験の分離は経験者と独立の経験を認めてしまう。これは意識の本質を探るというよりもより多くの謎を生み出してしまう。もしも原意識と意識の性質が別物であれば、意識の謎については原意識をもって答えることができなくなる。

IITの当初の目的は意識の量を測るというものだったが、原意識と意識を区別していないのでその目的は果たされない。

トノーニの三つ目の問題が:⑤ハードプロブレムの誤解である。

意識のイージープロブレムは「どのように脳が意識を生み出しているか」なのに対して、ハードプロブレムは「なぜ脳が意識を生み出すのか」である。

トノーニはIITによりハードプロブレムを解決するとしているが、「なぜ統合情報が意識を生み出すのか」は不明である。

むしろ、IITはプリティ・ハードプロブレム:どんな物理的システムが意識を生み出すかを問題にしている。

 

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