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【論文まとめ】「汎心論と汎原心論/Panpsychism and Panprotopsychism」【David J. Chalmers(2016)】

心の哲学の代表的論者、デイヴィッド・チャーマーズの論文です。汎心論と汎原心論、ラッセル的一元論、汎質論についての議論がまとめられています。

www.oxfordscholarship.com

 

チャーマーズは『意識する心』と『意識の諸相』が翻訳されています。

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 どのような背景なの?


 心の哲学においては唯物論と二元論が対立している。唯物論とは、意識は根源的には物理的だという立場で、二元論は意識は根源的には非物理的だという立場だ。
 二元論を支持する論法に思考可能性論法がある。Pを宇宙についてのミクロ物理的真理とする。Qを任意の現象的真理とする(例えば『わたしには意識がある』)そのとき、
(1)P&~Q(PかつQでない)は思考可能である。
(2)もしP&~Qが思考可能であれば、P&~Qは形而上学的に可能である。
(3)もしP&~Qが形而上学的に可能であれば、唯物論は偽である。
___________________________________
(4)唯物論は偽である。

前提(1)は哲学的ゾンビの思考可能性により支持される:意識だけなくて物理的に変わらない人間を思考することはできる。
前提(2)はクリプキの反論にさらされて改良されたが、ここでは詳細を述べない。
前提(3)は、もしもP&~Qが形而上学的に可能であれば、PはQを形而上学的に必然化することはなく、QはPにより根拠付けられはしないということにより支持される。もし神が我々の世界とミクロ物理的に同一な世界を作ったとしても、意識を存在させるためにはもう一仕事が残っている。

思考可能性論法にどう対応するかで唯物論は分かれる。タイプA唯物論はゾンビは思考不可能だとして(1)を退ける。タイプB唯物論は思考可能性の例は形而上学的可能性を含意しないとして(2)を退ける。タイプA唯物論者は意識の機能的分析をして、タイプB唯物論者は他のところではやらないような特別なこと(野蛮な同一化)をしなければならなくなる。いずれにしても、思考可能性論法は一見自明である。

 

唯物論を支持する論法に因果論法がある。
(1)現象的性質は物理的出来事と因果的に関連している。
(2)物理的出来事によって因果付けされるものすべては、物理的用語により因果的に説明できる。
(3)もしも、物理的出来事によって因果付けされるものすべてが、物理的用語により因果的に説明できるならば、物理(的世界)と因果的に関連する性質すべては物理的性質により根拠付けられる。
(4)もしも現象的性質が物理的性質により根拠付けられるならば、唯物論は真である。
______________________________________
(5)唯物論は真である。

前提(1)は直観により正当化される。痛みは動きを因果付ける。
前提(2)は物理的説明におけるギャップは存在しないという物理学の前提から正当化される。
前提(3)は多重決定の否定である。ある物理的出来事に対して、ミクロ物理的にな説明が与えられたとき、追加の因果的説明が許されるのは、後者のファクターが前者のファクターにより根拠付けられるときのみである(ビリヤードのボールが別のボールを押したということは、粒子の作用により根拠付けられる)
前提(4)は定義である。

 因果論法にどう対処するかにより二元論が分類できる。付随主義者は前提(1)を否定し、意識が行動を因果付けるということは直観に過ぎないとする。相互作用論者は前提(2)を否定し、意識においては因果的ギャップの余地があるとする。付随主義者は意識と物理的出来事との間の不自然な偶然を仮定しなければならない。相互作用論は物理学者の多くが否定するであろう立場だ。

 

この論文は何を主張しているのか?


 唯物論と二元論の対立は汎心論にアウフヘーベンされる。
 汎心論は汎原心論と対立関係になり、その対立はラッセル的一元論へとアウフヘーベンされる。
 ラッセル的一元論には組み合わせ問題が課題としてのしかかる。

 組み合わせ問題の解決として、汎質論が挙げられるが、汎質論には問題がある。

 

なぜそう主張できるのか?
 
 汎心論とは、ミクロ物理的存在のいくらかに意識があるとする立場である。よりよく定義するために用語を設定しよう。
 マクロ経験:人間とかマクロサイズのヤツが持つ意識経験。マクロ経験はマクロ現象的性質の例化を含む。
 ミクロ経験:ミクロ物理的存在が持つ意識経験。ミクロ物理的性質の例化を含む。
 もしも汎心論が正しければ、マクロ経験とミクロ経験が存在する。
 構成的汎心論:マクロ経験はミクロ経験により基礎付けられる。汎心論がすべて構成的汎心論であるわけではない。
 たとえば、
 創発的汎心論:マクロ経験はミクロ経験とミクロ物理から創発する。
 しかし、非構成的汎心論は二元論の問題を引き継いでしまっている。
 
 構成的汎心論には二種類のバリエーションがある。
 タイプA構成的汎心論:ミクロ現象的真理からマクロ現象的真理はアプリオリに導き出せる。
 タイプB構成的汎心論:ミクロ現象的真理からマクロ現象的真理はアポステリオリな必然性によって導き出せる。
 タイプB構成的汎心論はタイプB唯物論の問題を抱えているため、タイプA構成的汎心論が有望だ(以下はこれを構成的汎心論として扱うことにする)

 他の種類の汎心論としてラッセル的汎心論がある。物理学は物質の構造を明かすことはできるが、その内在的本性は明かすことができないという立場に乗ったものだ。この立場によれば、古典力学は質量がなにをするのかを言えたとしても、質量とは何かということは不明のままだ。
 ここで『実体quiddities』を物理学において根本的役割を果たす根源的定言的性質(the fundamental categorical properties)とする。また、実体は物理学においてミクロ物理的傾向の土台となる。実体は傾向性からは区別される。物理学における傾向主義や構造主義は実在するのは傾向的性質だとする立場だ。
 ラッセル的汎心論は実体はミクロ現象的性質だという立場だ。
 ここで、問題が二つ出てくる。一つは、自然のなかでの現象的性質の場所はどこにあるか。もう一つは、物理的構造を基礎付ける内在的性質とは何かというものだ。二つの問題には共通の答えをすることができる。根源的現象的性質は根源的ミクロ物理的役割を果たし、根源的ミクロ物理的構造を基礎付けるのだ。


 ラッセル的汎心論ではない汎心論もありえる。ミクロ現象的性質がミクロ物理的ネットワークとは別にあるとうものだ。しかし、心的因果の問題が発生する。


 さらなる発展形として、構成的ラッセル的汎心論を考えることができる。ミクロ現象的性質は実体(ミクロ物理的性質と関連する役割を果たし、マクロ現象的性質を基礎付ける)であり、ミクロ経験はミクロ物理的役割を果たしつつマクロ経験を構成する。世界は根源的にはミクロ現象的性質を持った存在で構成されており、ミクロ現象的性質が作り出す構造は物理法則により描写されているようなものとなる。

 構成的ラッセル的汎心論は物理主義なのであろうか? 言い換えれば、実体は物理的性質なのだろうか? 答えの前に、二つの物理的性質の区別をしたい。狭い物理的性質と広い物理的性質だ。狭い物理的性質とはミクロ物理的な役割という性質だ。例えば質量を持つという役割(慣性を持つ傾向がある)などだ。これは傾向的なものだ。広い物理的性質は関連する役割を実現させるような物理的性質である。たとえば、質量傾向の定言的基礎や質量の役割を果たす一階の性質である。
 狭い物理的性質はミクロ物理的存在の構造のみを含み、実体は含まない。対して、広い物理的性質は構造的性質と実体両方が含まれる。物理主義には狭い物理主義、広い物理主義の二種類があり、狭い物理主義は広い物理主義を含意する(広い物理主義の一つである)が、広い物理主義は狭い物理主義を含意しない。
 二種類の物理主義に基づいて、哲学的ゾンビも二種類いることとなる。狭い物理的コピーのゾンビと広い物理的コピーのゾンビだ。前者は構造的ゾンビ、後者は定言的ゾンビということもできる。構造的ゾンビは思考可能であるのに対して、実体とは何かについて我々には不明であるため、実体を固定しようとする努力は無理だ。ゆえに、定言的ゾンビは思考不可能だろう。定言的ゾンビに対しては思考可能性論法が通用しない。これは構成的ラッセル的汎心論にとってハッピーな知らせだ。構成的ラッセル的汎心論は狭い物理主義ではないが、広い物理主義をとっているのだ。

 

 では、因果論法に対してはどのように反論するのだろうか? ラッセル的汎心論によると、ミクロ経験は因果的にレレバントである(因果的関連性を持つ)、一方、構成的汎心論によるとミクロ経験はマクロ経験を構成している。ゆえに、マクロ経験は因果的にレレバントである。哲学的ゾンビと同じように因果論法も二種類ある。広い物理的閉包性を前提とするものと、狭い物理的閉包性を前提とするものだ。構成的ラッセル的汎心論の脅威となるのは後者であるが、前提(2)を否定することにより簡単に反論できる。狭い物理的性質のみを使った因果的説明は不完全なのだ。実体の想定のもとでは、広い物理的領域は閉じられているが、狭い物理的領域は閉じられていない。

 

○アンチテーゼ:汎原心論
 構成的ラッセル的汎心論のアンチテーゼとして構成的ラッセル的汎原心論というものが出てくる。汎原心論とは、根源的物理的存在は原意識であるという立場だ。原現象的性質を、現象的ではないが、適切な構造をとることにより現象的性質を構成する性質と定義しよう。このとき、汎原心論はある根源的物理的存在は原現象的性質を持つという立場である。


 汎原心論は唯物論の一種になってしまわないだろうか? そんなことはない。次の二つの条件がそれを阻止する。条件(i)原現象的性質は構造的性質とは別である。(ii)原現象的性質についての真理から現象的性質についての真理がアプリオリに導き出せる。(i)はタイプA唯物論(構造的性質により現象的性質を基礎付ける)を棄却し、(ii)はタイプB唯物論(現象的性質と構造的性質の間にアポステリオリな必然性がある)を棄却する。
 唯物論を否定する認識論法を使えば、汎原心論が否定されるのであろうか。されない。認識論法は構造と現象とのギャップを示しているだけである。そのようなことは汎原心論は否定している。
 構成的汎原心論はマクロ経験はミクロ物理的存在の原現象的性質により基礎付けられるという立場だ。
 ラッセル的構成的汎原心論はある実体は原現象的性質であるという立場だ。


 非ラッセル的非構成的汎原心論もありうる。原現象的性質はマクロ経験のみを構成し、それらは実体ではない。

 

ジンテーゼラッセル的一元論
 汎心論と汎原心論をアウフヘーベンした結果、ラッセル的一元論となる。
 ラッセル的一元論は狭い物理主義を否定し、広い物理主義を取る。構造的性質により意識は構成されずに、実体が意識を構成する。実体が心と結びついているという意味でラッセル的であり、世界は自然法則により結びついた実体によるものだと考える意味で一元論である。ラッセル的汎心論もラッセル的汎原心論もラッセル的一元論のなかに入っている。


 ラッセル的一元論において、質量のような物理的性質と現象的性質の関係はどうなるのだろうか? 『質量』の種類が何であるかによって答えは変わる。

 ①『質量』が実体であるとき:『質量』と現象的性質の関係はラッセル的同一説となる。
 『質量』とは質量の役割を果たすものであり、それは心的関係性を持ち、現象的実体がその役割を果たす。
 これは普通の(心身)同一説と対称的な説となっている。普通の同一説:『痛み』は痛みの役割を果たすものであり、それは物理的関係性を持ち、C繊維がその役割を果たす。

 ②『質量』が二階の性質であるとき:『質量』と現象的性質の関係はラッセル的実現説となる。
 物理的性質は現象的性質により実現されるという立場だ。物理的性質は、実体の(原)現象的性質により基礎付けられる。
 これは機能主義と対称的な説となっている。機能主義:心的性質は二階の性質であり、それは物理的性質により実現される。
 このとき、汎心論であれば、ラッセル的観念論となる。根源的現象的性質が物理的性質を基礎付けるからだ。
 汎原心論であれば、ラッセル的中立一元論となる。根源的原現象的性質が物理的・現象的性質を基礎付けるからだ。
 二つの立場を混ぜ合わせると、ラッセル的多元論となる。ある実体は現象的であり、別の実体は原現象的あるいは現象と無関係だという立場だ。

 ③『質量』が傾向的性質であり、定言的基礎を持っていなかったとき:『質量』と現象的性質の関係はラッセル的二元論となる。
 物理的性質はt-physical propertiesに限定されるため、根源的物理的性質とは別に根源的現象的性質があることとなる。
 
 ④傾向的性質が定言的性質と同一であった場合:ラッセル的同一説の一つのバージョンとなる。このバージョンはタイプAとタイプBの二つに分かれる。
 タイプA:(原)現象的性質と傾向性の間にはアプリオリなつながりがあることとなる。
 タイプB:(原)現象的性質と傾向性の間にはアポステリオリなつながりがあることとなる。

ラッセル的観念論・中立一元論・多元論の分類は『実体を持つものはなにか』という問題を基準とする。
ラッセル的性質二元論・同一説の分類は『傾向的性質は定言的基盤と独立なのか、基礎付けるのか、同一か』という問題を基準とする。

 ラッセル的同一説のタイプBは唯物論タイプBと同じような『野蛮な同一主張』を含むので、嫌いだ!

 

○アンチテーゼ:組み合わせ問題
 ラッセル的一元論を脅かす大きな問題がある、それが組み合わせ問題だ。
 組み合わせ問題とは、ミクロ経験をどのように組み合わせるとマクロ経験になるのか? という問題だ。基本的には、思考可能性論法と同じ構造をとる。
 PPを『世界におけるすべてのミクロ物理的・ミクロ現象的真理の結合』としよう。Qを『マクロ現象的真理(あるマクロサイズ存在には意識がある、など)』としよう。このとき、
 (1)PP&~Qは思考可能である。
 (2)もしPP&~Qが思考可能であれば、それは可能である。
 (3)もしPP&~Qが形而上学的に可能なのであれば、構成的汎心論は偽である。
_____________________________________
 (4)構成的汎心論は偽である。

 鍵となる前提は(1)である。これは汎心論的ゾンビ:物理的・ミクロ現象的に我々と同一だが、マクロ現象的性質が欠けている存在が思考可能かどうかである。
 (1)を正当化する論法は以下のようなものだ、Sを『意識的主観の集合についてポジティブな現象的真理』、Tを『集合にいない意識的主観についてのポジティブな真理』とする。S&~Tは思考可能である。これは主観/主観ギャップがあるからだ。ある主観と別の主観の間には認識論的ギャップが存在する。ある主観の真理を知ったところで別の主観の真理を知ることはできない。ゆえに、ミクロ経験を知ったところでマクロ経験を知ることにはならない。
 この論法を構成的汎心論全般に拡大することが可能だ。S’を『主観集合メンバーの物理的構造的性質』、Tを『集合内にいない意識主観についての真理』とすれば、S&S’&~Tは思考可能だ。

 

 汎原心論はボトムレベルでの主観を必要とすることがないため、この論法から逃れられる。しかし、少し違った別の論法によりダメージを受ける。
 PPPを『全てのミクロ物理的・原現象的真理の結合』とする。このとき、PPP&~Qは思考可能であるので、思考可能性論法が成立する。つまり、『ミクロ物理的レベルでの原現象的性質は我々と共通しているが意識はない』という汎原心論的ゾンビは思考可能だ。これは、非現象的/現象的ギャップがあるからだ。非現象的真理と現象的真理の間には認識論的ギャップがある。このギャップを基礎付ける方法として、主観は概念的に根源的存在であるため、他の根源的存在により基礎付けられることはないという前提がある、これは明白ではない前提だ。他の方法として、非質的/質的ギャップがある。現象的性質とは質から構成される。原現象的性質を非質的とすると、このギャップは(1)を正当化する。

 

 物理主義ももちろん、組み合わせ問題に直面する。ミクロ物理的性質からどのように経験的・現象的・主観的性質が出てくるのか?という問題だ。
 二元論は組み合わせ問題に直面することはない。代わりに『経済性の問題(どうして根源的存在が多数あるのか?)』に直面する。

 

○新たなジンテーゼ:汎質主義?
 組み合わせ問題を解決する方法は次の三つがある。
 ①構成的汎心論をあきらめ、創発的汎心論をとる:ミクロ経験がマクロ経験の基礎とすることはあきらめる。
  この方法には、『マクロ経験がどのように因果的役割を果たすのか?』という問題が生じる。二元論と同じように、心的因果と物理的因果の過剰決定が生じてしまうからだ。
 ②マクロ主観は特定のミクロ主観と同一であるとする:マクロ主観は特定の根源的物理的存在(根源的現象的性質を伴う)と同一である。
  ライプニッツモナド論などがこれに当たる。量子的絡み合いや宇宙全体がその候補に入るかもしれないが、容易な道ではない。
 ③主観性をデフレ化する:経験は主観性を持たないとする、あるいは、主観は形而上学的概念的にシンプルな存在ではないとする。
  経験が主観性を持つのは概念的に真であるため、前者は無理だろうが、後者は有望な方法だ。我々とは単一の主観ではなく主観群(Subjects)であるとするのだ。我々は、そもそも、一つの主観ではないため、組み合わせ問題を回避している(組み合わせ問題は多数の主観が集まっても一つの主観にはならないという問題であったため)。


  ここで、汎質論が浮かび上がる。質(赤さ、青さ、熱……)は存在が提示する性質だという立場だ。質は現象と同一ではない、現象的性質はいつも意識主観により例化されるが、質はそうとは限らない。赤い物体という概念はそれが主観経験でなくとも意味が通る(「見ていない赤色」など)。
 汎質論は質の還元を拒否する立場だ。赤さは物理的性質に還元されないとする(『質のエデン的立場』)
 最も重要な汎質論は構成的ラッセル的汎質論であろう:質を実体として人間の経験を構成するものとする。実体は現象的性質ではなく、現象的性質を構成するものである。
 ミクロ主観の存在を仮定しないため、主観/主観ギャップから逃れられる(主観を集めても別の主観にならないじゃん!という文句を逃れられる)
 原現象的性質は質的なので、非質的/質的ギャップから逃れられる。
 非主観/主観ギャップは問題となるが、主観をデフレ化することによって逃れる。主観は質によって基礎付けられるとするのだ。

 

 だが、組み合わせ問題の別のバージョンが汎質論を脅威にさらす。QQを『ミクロ物理的なポジティブな質的真理』、Qをポジティブなマクロ現象的真理とする。
 (1)QQ&~Qは思考可能である。
 (2)もしQQ&~Qが思考可能なのであれば、形而上学的に可能である。
 (3)もしQQ&~Qが形而上学的に可能なのであれば、構成的汎質論は偽である。
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 (4)構成的汎質論は偽である。
 最初の前提は質的ゾンビの思考可能性を主張している。質的に同一だが意識のない存在である。これは質/見知りギャップにより根拠付けられる。質の例化は質の見知りを必然化するわけではない。
 汎質論者の反論は以下のようなものがある。
 ①見知りを根源的レベルにまで持っていく:見知りなしで例化されない質(痛みなど)をもってくることにより。しかし、これは根源レベルの主観を主張することになり前の問題が蘇る。
 ②見知りの存在を否定する。しかし、これは現象的事実を無視することになる。
 ③質と見知りの機能的還元を組み合わせる。しかし、思考可能性論法により棄却される考え方だ。


 汎質論は、組み合わせ問題の別の側面にも弱い。構造的組み合わせ問題:脳内で例化されている質は我々が見知っている質と大きく違っており、前者が後者を構成していると考えるのは難しい。質的組み合わせ問題:少数の原始的質が我々が見知っている多数の質になるのはなぜか?


 このような問題がある以上、汎質論は組み合わせ問題を解決しない。別の新たなジンテーゼを探さなければいけない。