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SF作家 草野原々のブログ

【論文まとめ】「このもの主義/Haecceitism」セクション1【スタンフォード哲学百科】

このもの主義

 

Haecceitism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

 

この世界の形、色、質量、大きさなどすべての質が同一であったとして、たったひとつだけ現実と違う世界がある。あなたがいないのだ。あなたの代わりに、あなたとまったく同じ質的性質を持つダブルがいる。ダブルはあらゆる点であなたと似ているがあなたではない。このような世界はありうるのだろうか?

 

また、双子で世界の質的性質を変化させずに入れ替わったり、二つの質的に変わらない鉄が交換されたりすることはありうるのだろうか?

 

このもの主義はそのような問いにイエスと答える。上のような事象は極大可能性(世界をトータルで考えたうえでの可能性)だ。

反このもの主義はノーと答える。質的に異なることなしにこのもの的に異なることはありえない。

 

このエントリのセクション1~3では、このもの主義の公式化とこのもの性・本質主義との関係。セクション4~5ではこのもの主義への反対論賛成論。セクション6ではこのもの的違いと特定の種類のこのもの的違いだけ認めるやり方。セクション7では形而上学の広いエリアにおけるこのもの主義の重要性と否定を見る。

 

 

1.このもの主義の定式化

このもの主義は様相的な説である。ある形而上学的枠組みはそれに合い、別の枠組みは合わない。さらに複雑なことに、ある枠組みは極限可能性を可能世界と分けるが、他の枠組みは両者を同一視する。

1.1 可能性と可能世界

様相主義者は可能性や可能世界の量化を認めない、代わりに、ボックスやダイヤなどの原始的様相オペレーターを使う。様相主義においてはこのもの主義者も反このもの主義者も可能世界における量化を使うことはできない。Skowによると、反このもの主義者は次のように定式化できる。

様相主義的反このもの主義:必然的に、世界は質的変化なしに非質的変化は起こらない。

 

様相主義の限界を否定するものはより豊かな存在論的資源を持つことができる。

ここで第一の区別を導入しよう。ある可能性は「極大的可能性」である。それは世界をトータルでついて述べている。一方で、非極大可能性はオバマは人間だとかのトータルではない可能性である。

第二の区別は、質的可能性と非質的可能性である。非質的可能性はある個物のみにかかわる性質で、質的可能性は個物に限定されない可能性である。ナポレオンがエルバで逃走するというのは非質的可能性、四つの赤い物体があるというのは質的可能性。(質的可能性はde dicto可能性、非質的可能性がde re可能性に対応する)

このもの主義は次のように定式化できる。

可能的このもの主義:非質的可能性である観点のみから見て違うような別の極大可能性がある。(質的にはまったく同じ極大可能性と違うような極大可能性がある)

可能的このもの主義にしたがえば、同一の質的可能性を内包したうえでこのもの的に違う極大可能性がある。

可能的このもの主義は可能性の量化を必要とするが、可能世界については何も言っていない。しかし、可能世界についての実在論者は、可能性を量化することは可能世界の量化であるとする。そのような立場は、可能的このもの主義を質的に識別不可能な世界についての理論と解釈する傾向がある。可能世界についての実在論者においてのこのもの主義は以下のようなものとなる。

世界識別不可能性:(ある可能世界と)質的に識別不可能だが、異なる別の可能世界がある。

代用主義者たちは、可能世界を文のタイプや、性質や、命題や、集合などといった抽象的存在と同一視する。もしも、集合や性質が質的特徴を持たないのであれば、『世界識別不可能性』は真となる。

もしも可能世界が命題の整合な極限集合だとすれば、このもの主義は質的に同じ命題だが非質的に違う命題を含むような極大命題集合があるという立場になる。他の立場の代用主義は別の道具を使うが、いずれにしても形而上学的コミットメントはとらない。

しかし、もしも、可能世界と極大可能性の関係を、一対一の対応関係が成り立っているとする立場ならば、可能的このもの主義を受け入れたうえで、さらに以下の主張も受け入れるだろう。

世界このもの主義:このもの的にのみ他と違っているような極大可能性があり、可能世界と極大可能性の間には一対一の対応関係が成り立つ。

世界このもの主義を拒否する代用主義もありうる。それはルイスの「安上りなこのもの主義」と似たようなものになるだろう。

 

1.2 このもの主義と様相実在論

ルイス的様相実在論では、可能世界を時空的に関係した存在の全集合とする。それらの可能世界は現実世界と同じようにリアルで具体的である。
ルイス的様相実在論は、事物についての(de re)様相は対応者理論により分析される。普通の個物は可能世界をまたがって存在することはなく、一つの世界に縛られる。対応者理論とは、個物aが可能的にFであるのは、aが「Fである」という対応者を持っていたときまたそのときのみである。対応者と個物の関係は質的な類似性関係である。オバマが医者であることができたのは十分にオバマに似ている可能的個物が医者であるときそのときのみだ。類似性は文脈により変動する。
事物についての表象は類似性をもとにしているため、質的に変わりのない二つの世界は同じということになる。ルイスはそれゆえ、質的性質と事物についての可能性の間に以下の関係性があるとした。
質的付随:事物について表象する世界(たち)の事実は、「世界(たち)についての質的性質の事実」に付随する。
質的付随を否定すると、世界の非質的特徴が部分的に、世界が事物についてどう表象するかについてを決定するという主張になる。非ルイス的な様相実在論者は質的に識別不可能な可能世界がこのもの的に別の極大可能性を表象できるとする。
しかし、ルイスは質的付随を支持する。(ルイス自身は質的に識別不可能だけど別の世界があるかどうかについては不可知論をとっている)。ルイスは、このもの主義を質的不可能性と合流させる方法はマズイやり方だとしている。ルイスによれば、このもの主義とは、複数の可能世界が表象する事物についての可能性というものを舞台としているのだ。
ルイスは質的役割が同じ双子が入れ替わるなどということは、本当に可能なことだとしている。ポイントは、修正バージョンの対応者理論では、個物が現実世界においても対応者を持つことができるということだ。双子の兄は双子の弟という対応者を持つこととなる。特定の文脈では、双子の弟は双子の兄の可能性を表象していることとなる。言い換えれば、現実世界とその部分は、適切な文脈では、現実化された極大可能性のみならず、現実化された極大可能性とはこのもの的に違う可能性も表象できるということだ(対応者である兄と弟を逆にした可能性を現実世界が表象している)。複数の可能性を使わずに、単一の世界のみでこのもの主義を表現するこれを「安上りなこのもの主義」とする。