水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

虚構主義とお話 / Fictionalism and the Folk【Toon, Adam(2016)】

この論文では、心的状態(信念、欲求などの命題的態度)はその人の内的状態に言及しているわけでなく、虚構であるという「虚構主義」をとる。心的状態は虚構であるが、人々の状態や行動を説明するのに適切に役立つものである。また、心的状態は人々に対する真正の断言(genuine assertion)である。フィクションを使ってその人の状態に言及しているからだ。それはメタファーを使うときと類似している。「怒った雲が雨を降らす」というとき、怒った雲の存在に依拠しているわけではない。怒った雲がなかろうが、その主張は天気に対する真正の断言となる。
ウォルトンの言葉を使えば、心的状態とはプロップ志向的メイク・ビリーヴである。プロップ志向的メイク・ビリーヴとは、ごっこ遊びのためのプロップ(小道具)に対して注目しているメイク・ビリーヴだ。通常の小説や映画などは内容志向的メイク・ビリーヴである。内容志向的メイク・ビリーヴはプロップではなく、内容を注目の的とする。(『風の谷のナウシカ』は視聴者をセル画の方法に注目させるものではなく、ストーリーの内容に注目させるものだ)。一方、「クロトン半島はイタリアブーツのつま先だ」というようなメタファーは、プロップであるクロトン半島に注目させるためのものだ。
また、この論文においての虚構主義は、我々の心的状態の理解を一変させようとする革命的虚構主義ではなく、普通の人々は実は実在する状態としての心的状態にコミットしていないとする解釈的虚構主義だ。

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行動主義との対比

行動主義は内的状態に対して一切コミットしていない。一方、虚構主義は信念・欲求などにはコミットしないが、それが表象するような内的状態にはコミットする。
ある状態に重ね合わせるべきフィクションは無数に存在する。このことが、行動主義の一般化の障害になっているのかもしれない。

道具主義との対比

道具主義とは、信念や欲求は、志向的システム理論において、行動をよりよく予測するための措定物だという立場だ。
道具主義への批判として、「ブロックヘッドの思考実験」というものがある。志向的システム理論に完全に合致するような行動をインプットされた機械仕掛けのブロックは直観的に思考者だとは見なされないが、道具主義はその直観が説明できないというものだ。
虚構主義はこの思考実験に対して説明を与えることができる。機械仕掛けの頭に対しては思考者であるというフィクションを与えることが適切にできないからである。
ダニエル・デネットは心的状態は「重心」のような、存在しないが適切な理解なのだとしている。また、デネットは心的状態のパターンは志向的姿勢により選び出され、それらは実在世界の対象における特徴なのだともしている。
デネットの説明は虚構主義によりよりよく理解できる。「雲が怒っている」というとき、怒った雲は存在しないが、世界の特徴を捉えている。同じように心的状態も、実在しないが、世界の特徴を捉えている。だが、複雑なメタファーはそうであるように、共通する物理的特徴がないならば、フィークサイコロジーのゲームに参加していない者は心的状態を選び出すのは難しいかもしれない。

接頭詞虚構主義との対比

接頭詞虚構主義とは、心的状態とはフォークサイコロジーという特定の理論の内容に変換できるという主張だ。対して、この論文で提唱されているのはフリ虚構主義といえる。フリ虚構主義では、子供がままごと遊びをするときのように、特定の理論やルール、テキストなどを必要としない。
接頭詞虚構主義の問題は3つある。
①フォークサイコロジーが現実世界とは別の可能世界(たとえば、フロイトが無意識について発表しなかった世界)で、現実世界と完全に同じ状態にいる人には、別の心的状態を付与しなければいけなくなる。

②普通の人々が関心を持っているのはフォークサイコロジーについての内容ではない。

③現象的に、心的状態について話しているとき、フォークサイコロジーによるお話について話しているわけではない。

フリ虚構主義は、心的状態とはフィークサイコロジーによるお話ではなく、人々の実際の状態について言及するためのフリだとする。ゆえに、フォークサイコロジーが別の世界でも現実世界と同じような心的状態が付与される。また、フォークサイコロジーではなく実際の人々に対しての関心が説明できる。心的状態について語るとき、それを通して実際の状態について語っている。

他の分野の接頭詞虚構主義と対比しても、心の接頭詞虚構主義は不利だ。
可能世界についての接頭辞虚構主義は“ルイスの『世界の複数性について』によると”を接頭辞とするが、心的状態について接頭辞虚構主義はそのようなテキストは存在しない。
一方、フリ虚構主義が求めるのは人々の行動をベースとしたルールに則った心的状態の付与のみであり、そこにはテキストはいらない。

消去主義との対比

消去主義とは、フォークサイコロジーは誤った理論であり、そこから導き出させる心的状態とは、フロギストンやエーテルのように消去すべきものだという立場だ。
虚構主義は、たとえ心的状態が存在しなくとも、それについて言及し続けることができるという面で、直観的に消去主義よりも秀でている。メタファーは存在しなくとも、認知的に有効な効果を生み出すからだ。

課題

課題①現象学的問題:我々が心的状態に言及するとき、それはメイク・ビリーヴのようには感じられない。
解釈的虚構主義ならば、フリを通して人々の行動についての真正の言及をしているためこの課題は回避される。

課題②メイク・ビリーヴには同一性条件に問題がある(ある心的状態と別の心的状態が同じかという質問に答えられない)
これは答えなくとも良い「愚かな問い」である。メタファー「犬のように素早い身のこなし」の犬の種類は確定しなくともよい。「怒った雲が雨を降らす」の雲が先日の雲と同一かという問題はどうでもよい。
数学的対象の実在論を批判する「オラクル論法」を応用して説明することもできる。もし、全知の者から「数学的対象は存在しない」というお告げがくだされたとしても、我々は「1+1=2」という発話を止めたりしない。つまり、もともと数学的対象の実在は必要なかったのだ。同じように、もしも「信念や欲求などは存在しない!」ということがわかったとしても、心的状態についての言及は続く。つまり、心的状態の実在は必要ない(ゆえにその同一性は問題とならない)

課題③心的状態がフィクションならば、因果を持たないはずだが、我々は心的状態を使って因果的説明をしている。これは矛盾だ。
「怒った雲が雨を降らす」において、怒った雲は存在しない、しかしこの発話においては真正の因果的説明が行われている。「怒った雲」というフィクションを使って実際の状態Sに言及しているからだ。同じように、たとえ心的状態が存在しなくとも、それを使った発話は因果的説明を果たしうる。

課題④心的虚構主義は不整合だ。「メイク・ビリーヴ」や「フリ」などの概念はそもそもがフォークサイコロジーに依拠している。フォークサイコロジーが正しくないという立場は矛盾している。
これは最も難しい課題である。未来の神経科学においては、フォークサイコロジーを使わずにメイク・ビリーヴについての説明ができるかもしれないが、現在はフォークサイコロジーの他に選択肢はない。