水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

「フィクショナルキャラクターについての抽象的人工物理論を擁護する。なぜ、Sainsburyのカテゴリーミステイク反論は間違っているのか。/Abstract Artifact Theory about Fictional Characters Defended — Why Sainsbury’s Category-Mistake Objection is Mistaken」【Zvolenszky(2013)】

抽象的人工物説では、フィクショナルキャラクターは法や結婚と同じような抽象的な人工物である。Sainsburyは「抽象的人工物説が正しいのなら、作者や読者はキャラクターについてのカテゴリーを根源的に間違っていることになるが、それはおかしい」という「カテゴリーミステイク反論」を投げかけた。この論文では、カテゴリーミステイク反論が可能世界についての議論で強すぎる効果を持ってしまうこと。また、可能世界についての代用主義を利用することで、キャラクターについてのカテゴリーミステイクなしの理解ができることを述べる。

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抽象的人工物説:キャラクターは「結婚」と同じような抽象的人工物として実在する
Sainsburyの反論:作者や読者は、キャラクターを抽象的人工物として扱っていない。ゆえに人工物説においては作者や読者がキャラクターについて深刻なカテゴリーミステイクをしていることになる。

 

 

抽象的対象とは?

定義①具体的存在者のように時空上の位置を持っていない。定義②因果的力能を欠いている。
具体的対象:カップ、ビッグベン、J・K・ローリング
抽象的対象:数、集合、命題、性質→これらの抽象的対象が時点tにおいて存在することはtにおいてのいかなる心的活動からも独立している

別のタイプの抽象的対象:「抽象的人工物」(ex.チェスの試合)は時間的特徴を持っている。
「サッカーの試合」「チェスの入城」「結婚」「総理大臣」「アルファベット」「名前」「音楽作品」「小説作品」などはこのタイプの抽象的対象
フィクショナル・キャラクターについての抽象的人工物説:キャラクターもこのタイプの抽象的対象

 

フィクショナルキャラクターについての非現実主義

フィクショナル・キャラクターについての非現実主義:キャラクターは可能的対象である。
 現実世界と同じような可能世界を認める場合(可能世界についての実在論)→現実世界と因果的に隔絶された無数の可能世界があるとする。キャラクターは可能世界の具体的対象として在る。
 現実世界と同じような可能世界を認めない場合(可能世界についての代用主義)→可能世界とは、世界を表象する命題のうち整合的な極大の集合だとする。キャラクターは命題の集合として抽象的に在る。
 代用主義はキャラクターについての抽象的対象説に吸収される。

カテゴリーミステイク反論

Sainsburyのカテゴリーミステイク反論:作者や読者はハリー・ポッターに「人である」という性質が例化(exemplify)しているとするが、抽象的人工物説が正しいのであれば、それらの性質は例化していない(エンコードしているだけである)。ゆえに、人工物説が正しいのであれば、作者や読者は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。
※具体的対象は性質を例化する。エンコードはしない。抽象的対象は性質をエンコードする。(JKローリングはイギリス人であるという性質を例化するが、エンコードしない。ハリー・ポッターはイギリス人であるという性質をエンコードするが、例化しない)

 

著者の主張

著者の論法:カテゴリーミステイク反論は形而上学の議論のなかであまりにも強すぎる効力を持ってしまう。
可能世界についての代用主義においては、可能的個物は抽象的対象だ。しかし、「髪をブルーに染めることもできたな」と思うとき、心の中でその対象は具体的性質を持っている。カテゴリーミステイク反論が効果的ならば、日常的な見方は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。ゆえに、代用主義は間違いだということになる。
では、可能世界についての実在論はどうかというと、これもカテゴリーミステイク反論にさらされる。もしも、「あなたは無数の可能世界が具体的にあると思っていますか?」と聞かれたら「否!!」と答えるだろう。ゆえに、日常的な見方は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。ゆえに、可能世界についての実在論は間違いだということになる。
よって、カテゴリーミステイク反論が有効であれば、可能世界について非実在論のみが残されることになる。
しかし、代用主義を独立して支持する議論がある。
私が靴下1を編んだとしよう、同じ糸巻きと編糸で、別の靴下2を編むことができたかもしれないが、編まなかった。代用主義によれば、靴下2は抽象的である(さまざまな性質をエンコードしている命題の集合である)。それらの命題は現実に存在するが、命題たちが表象しているシナリオは現実化していない。
ここで「ハリー・ポッター」に出てくるフィクショナルな靴下を考える。ハリーがしもべ妖精ドビーを解放するときに使った靴下だ。これを「ドビーソックス」と呼ぼう。代用主義においては、ドビーソックスを命題の集合とすることができる。ここで、それらの命題がドビーソックスと靴下2で全く同一だとしよう。違いは、ドビーソックス集合は「JKローリングにより創造された」という性質を例化しているが、靴下2集合は「私により創造された」という性質をエンコードしているという点だ。
このように、代用主義においては、可能的な対象とフィクショナルな対象を同列に扱うことができるのだ。代用主義はカテゴリーミステイクなしに人工物説を含意できる。

この論法に対する心配は3つある。

心配①:靴下2には代用主義における可能世界にあり、それは時間を欠いている。一方、ドビーソックスは人工物であり、時間の中にある存在だ。代用主義はそんなもの認めていいのか?
    回答①この違いを除いては、靴下2とドビーソックスは大変良く類似しているので、両者とも抽象物として扱うのが妥当。回答②オペラや小説など抽象的人工物の候補は大量にあり、抽象的人工物の否定論者は代案を出さねばならない。回答③オペラや小説などにおいては、プラトン的抽象物説よりも抽象的人工物説のほうが妥当。

心配②:キャラクターは表象のための装置ではなく、エンコードされている性質だ。一方、性質の集合は表象のための装置として使うことができるため、両者は同じものではありえない。
    この心配には簡単に返答できる。代用主義者が可能世界を命題集合と捉えるのに抵抗がないのと同じように、抽象的人工物説もキャラクターを命題集合とすることに抵抗がない。「靴下2は形やサイズをエンコードし、抽象物であることを例化する」をより正確に言うと「"靴下2"の命題集合が靴下2を表象し、靴下2は形やサイズをエンコードし、抽象物であることを例化する」である。同じように「ドビーソックスはフワフワであることをエンコードし、抽象物であることやJKローリングに作られたということを例化する」をより正確に言うと「"ドビーソックス"命題集合はドビーソックスを表象し、ドビーソックスはフワフワであることをエンコードし、抽象物であることやJKローリングに作られたということを例化する」だ。

心配③:複数の抽象的対象は質的に同じものなのか?ハリーポッターの次の巻で出てくるドビーソックスは前の巻のドビーソックスと同じものなのか?
    この心配はもっと馴染み深い抽象的対象を考えることにより解決する。ハンガリー憲法は作られた後には同一性を保持する。「ナウい」などの新語も同じように同一性を保持する。もしも法律や音楽作品などの存在を認めるのであれば、キャラクターについての存在も認めなければならないだろう。

 

ストーリーはどのような存在者か?【高田敦史(2017)】

ストーリーとは出来事であり、物語が示す命題(内容)ではない。ストーリーはキャラクターと同じような存在者である。物語性(物語の特徴)を担っているのは、出来事としてのストーリーである。ストーリーが出来事であることを念頭に置けば、作品間でストーリーを移植することや、ストーリーの同一性が曖昧なことが良く理解できる。

 

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物語:ストーリーを語る表象

物語の(典型的)特徴:比較的少数の人や物に関わり、因果的結びついた(統一性のある)個別的な出来事や事実についての記述(フィクションであるかは関係ない)
物語性には程度がある:物語の特徴をたくさん持つ表象は物語性が高く、少ない表象は物語性が低い(カリーが提唱)
この論文の問題意識:物語性の担い手はどのような存在者か?

ストーリーの命題説:ストーリーとは「物語によれば真であること」である。(つまり、物語が提示する内容)
ストーリーの出来事説:ストーリーとは「物語が話題にしている出来事」である。(つまり、物語の外部に存在する出来事)
上の二つはいったいどこが違うの?:命題説においての内容は抽象的であり、時空的位置を持たないが、出来事説においての出来事は具体的であり時空上に位置を持つ。
ノンフィクションの場合、両者の違いは明白:二つの歴史書が些細な記述で食い違っていても、「同じ出来事を扱っている」とはいえるが「同じ内容である」とはいえない。
フィクションの場合、両者の違いは微妙:架空の出来事は時空上に位置を持たないため
それでも、両者の違いはある:物語が話題にしている出来事はフィクション世界内の存在者だが、物語が語る内容は現実世界の存在者である。

この論文での「出来事」:①特定の時空間に位置づけられる具体者。②複数の異なる記述により一つの出来事を指示することができる。③ある出来事が複数の出来事により構成される場合がある。(デイヴィッドソンによるもの)

虚構的真理:「このフィクションにおいて」というものが発言の頭についている限りにおいて真なる事柄
フィクショナルオペレーター:「このフィクションにおいて」
虚構性(fictionality):作品の内容だけではなく、鑑賞者の態度や行為にも適用される広い意味での虚構的真理(ウォルトンが提唱)
ウォルトンのメイクビリーフ理論:何かが虚構的であることとは、ごっこ遊びのゲームのなかで想像すべき事柄であるということだ(虚構的存在に対する鑑賞者の態度や行為はすべて想像上のフリである)
メイクビリーフ的態度:ごっこ遊びのなかでなされる想像

 

この論文の立場:ノンフィクション物語のストーリーは出来事であり、フィクション物語のストーリーは虚構的出来事である。
虚構的出来事:現実には存在しない、もしくは現実において(法や契約のような)抽象的な文化的人工物である。
この論文の立場への反論:虚構的出来事は出来事と呼べるような存在者ではないため、ストーリーが統一的な存在者でなくなる。
反論への応答:フィクションのストーリーはそもそもストーリーとはいえない。ホームズが人でないのと同じだ。

問題意識ふたたび:ストーリーは物語性の担い手となれるか?
命題説では、ストーリーは物語性の担い手にはなれない:ストーリーは物語のテキストから独立することができないから
出来事説では、ストーリーが物語性の担い手になれる可能性がある:ストーリーは物語のテキストと独立に特徴を持つことができるから

物語性の担い手は(部分的に)ストーリーであること(ストーリー構成説)の根拠。
物語の特徴づけは実際にはストーリーの特徴づけである:因果関係などは出来事が持つ性質であるので。この出来事が持つ性質を「経緯」と呼ぶ。

ストーリーは出来事であることの根拠
ストーリーは移植することができる:ストーリーは異なる作品やメディアに移植することができるが、命題説を取った場合、内容が変化しているため同じストーリーを移植することができなくなる。
移植についての三つの説明:混合説による説明・改良型命題説による説明・出来事説による説明
混合説による説明:ストーリーは物語により語られた出来事を含むが、それ自体は出来事ではない(抽象的存在者であり、時空的位置をもたない)
混合説の問題点:ストーリーに何が含まれているか決定する方法がない(物語とストーリーの関係性がはっきりしないので)

改良型命題説による説明:「ストーリーの移植にあたって求められるのは、厳密な同一性ではなく、緩やかな類似性である」
改良型命題説への反論:演出を変えて悲劇を喜劇にしたとするなど、同じストーリーだが類似性はない場合がある。

出来事説による説明:ストーリーは特定の複合的出来事(経緯)なので、それは様々な記述により特定できる。ストーリーの移植は、キャラクターの移植と同じように考えられる。

キャラクターの移植反実在論実在論どちらでも形而上学的問題はない
反実在論においてのキャラクターの移植:キャラクターは存在せず、ごっこ遊びにより存在するフリをしている。移植とはごっこ遊びゲームの拡大である。
実在論においてのキャラクターの移植:キャラクターは法や契約などといった抽象的文化的人工物である。移植とは、創作物としてのキャラクターに対する新たな想像であり、移植作品におけるキャラクターは現実においても原作キャラクターと同一である。

ストーリー移植とキャラクター移植の類似性:どちらも単なる偶然的類似だけでなく、元の作品を適切に知っていなくてはならない。また、重要な部分が保持されていなくてはいけない。

ストーリーの同一性基準のあいまいさの説明:出来事説においては、ストーリー同一性基準が曖昧であることが説明できる。キャラクターの同一性と同じように、ストーリーに対しても鑑賞者の相対的判断で同一性基準が分かれる。

行為における合理性と因果【山田友幸(2013)】

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ある理由が行為を合理化するのはどのようなときか?:人が一定の種類に対するある種の賛成的態度を持ち(欲求)、自分のする行為がその種のものだと知っている(信念)場合(デイヴィッドソンの立場、ホーガンとウッドワードがさらに条件を足しているが省略)
行為の因果説:上のように定義される主要な理由は行為の原因である。

因果説に対するサールの反論:欲求と信念により因果的に決定される行為は合理的ではなく、不合理的である。
三つのギャップ:サールが提唱した理由と行為の間のギャップ。
合理的意志決定における理由と決定の間のギャップ:選択の余地がないときは合理的意志決定とはいえないが、因果的決定に自由はない。
意思決定と行為の実行の間のギャップ:意思決定をしたとしても、その行為を実行しないことがあるが、事前の決定が因果的決定なのであればそんなことは起こらないはずだ。
時間のかかる行為の開始と完遂までの継続のギャップ:行為を決定したとしても、その行為を継続して完遂するためには自発性が必要であるが、因果的決定にはそれがない。

サールの志向性理論:意図的行為において、事前意図(prior intention)と行為内意図(intention-in-action)が区別される。
行為内意図は事前意図や行為の理由により因果的に決定はされない。(ただし、行為内意図は身体行動を因果的に決定する)
サールに対しての反論:これらのことは直観的には正しいが、自由意思が幻想であることも考えられる。

自由意思論争:自由意思が存在するという信念と宇宙が物理法則により決定される閉じたシステムであるという前提が矛盾するのをどう解決するかという論争。

理由の熟慮と意思決定の間の関係:もしもこの関係が決定論的であれば、自由意思はないという立場をサールはとる。では、どのような関係が成り立つのか?二つの仮説がある。
仮説①:物理的な脳状態の変化は因果的に決定されているが、それにより引き起こされる理由の熟慮と意思決定の関係は決定的ではない。
    →もしそうであれば、合理的な意思決定は物理世界に影響を及ぼさないということになるが、なぜそのようなシステムが進化してきたのかという問題が生じうる。
仮説②心理的なレベルのギャップに対応して、物理的なレベルでもギャップがある。サールはこちらを支持する。

仮説②は神経生物学の説明を矛盾するのではないか?:サール「そんなことはない」
仮説②と矛盾すると思われる神経生物学の実験:リベットの実験(行為内意図に意識的に気づく350ミリ秒前に脳では準備電位が発生している)
リベットの実験は自由意思と矛盾しない:刺激に意図的に気づく前に行為がはじまっていようとも、その行為は事前意図に依存する(たとえば、野球選手の身体運動は前意識的であるがそれらは練習により生み出される)
物理的ギャップはどこにあるか?:脳システム全体の意欲的な部位において生じていることと、その次に生じることの間

だが、そもそもなぜ、因果的に不十分な条件の説明(サールにおいての「理由」)が説明として受け入れられるのか?:理由の説明とは、「なぜあなたがそれをしたのか」という問いに対するものであり、「それ以外のことが生じるのは因果的に不可能」ということを要求していないから。
サールが提唱する自我の概念:知覚の束に還元されない。欲求と信念が与えられ、推論の上で行為する。それらの意志決定は理由に基づいているが、決定はされていない。自我は責任の位置する場所(the locus of responsibility)である。自我の選択は自らがこれから行うことに関わる選択である(時間のなかで時間に関して推論する存在)。これらは脳の神経生物学的システムの特徴だ。
「先行する因果的十分条件に基づくのでなしに、因果的に進行するメカニズム」が必要になる。このメカニズムの可能性は真剣に検討するべきである。

理由の内在主義と外在主義【鴻 浩介(2016)】

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動機理由と規範理由:二種類の行為の理由。
動機理由:行為者を行為へと動機づける理由。「~である」命題
規範理由:行為を支持し、客観的に正当化する理由。「~すべき」命題


理由の内在主義:規範理由についての説。考慮事項Aがある行為の理由であるならば、行為者はAにより行為へと動機づけられることが可能でなければならない。
内在主義の一般形:ある存在者R、行為者A、行為タイプTについて、Rが「AにとってTをなすべき理由」ならば、ある自明でない条件Cが整えられれば、AはRによってTすることへと動機づけられるだろう。
Rには何が入る?:心的状態の内容となる存在者
条件Cとは?:たとえば、正しい知識を持っていたならば、などのRによる動機づけが生じる条件。この条件を限定すれば内在主義全体はより広範囲に合う説となり、逆にCが広範囲にわたると内在主義が広範囲に適合するのかは怪しくなる。
動機的力の要請:内在主義の根拠。規範的力は動機的力を含意する。

 

徹底的な外在主義:理由は動機的力を持ってない。主張者にはパーフィットなどがいる。
では規範的理由とは何?:道徳的真理であり、それは信念に働きかける力を持っていない。
理由の根源主義(primitivism):理由とはそれ以上説明できない概念であるという立場、外在主義と親和性が高い。

 

内在主義の根拠①:理由は推論において考慮事項となる、ゆえに行為の理由は実践的推論において利用される。実践的推論は動機付けプロセスであるため、理由は動機的力を持つ。
内在主義の根拠②:「認識的アクセス不能な事実は行為の理由になりえない」ということを説明できる(Cの設定により)
内在主義の根拠③:実際に理由に動機づけられるかとは別に、理由によって動機づけられるべきということは広く認められる。「べし」が「できる」を含意するならば内在主義が帰結する。

 

内在主義の諸理論:Cをどのようなものにするかにより分岐する。

熟慮的内在主義:Cとは「行為者が自身の主観的動機群を前提としたうえで、理想的な熟慮を行うこと」である。提唱者はウィリアムズ
主観的動機群:行為者を動機づける心的状態。欲求・評価の傾向性・情動的反応のパターンなど
理想的な熟慮とは?:相互に矛盾しないなどの形式的な制限(内容で制限しているわけではない)

熟慮的内在主義の問題:主観的動機群に共感的動機が欠けるためにいじめを行う人物に対しては、いじめをやめる理由はないことになる。道徳的相対主義をとれば回避できる問題。
理由の数に関しての過少生成:熟慮的内在主義は理由の存在を不当に制限しているという批判。

内在主義の返答①:事実を正しく認識するということは、それだけでいじめを止める理由となるため、正しく熟慮すればいじめは止めるはずだ。
内在主義の返答②:行為者である限り必ず有している特権的動機が存在する(この論文では詳しく書かれていない)
内在主義の返答③:Cに形式的な合理性だけではなく、実質的合理性を条項に加える。「理由は合理的な人物を動機づけねばならない」ため、非合理的人物がいかに熟慮を重ねても動機づけられないことが、行為の理由ではないことにはつながらない。

 

著者が言う熟慮的内在主義のメリット:「合理的説得」をよく説明できる。行為者に正しい熟慮をうながすことが合理的説得である。

著者の主張:共感的動機に欠ける人物は、いじめを止める理由がない。
錯誤論:いじめをする人物にいじめをやめる理由がないことと、わたしたちにいじめを止めさせる理由があることは両立するが、両立しないように錯誤してしまう。

理由の哲学 メモ②

参考文献

ci.nii.ac.jp

知覚に関する三つの立場:センスデータ説、志向説、選言説

センスデータ説:知覚において主体が気づいているのは、実在物ではなくセンスデータである。
幻覚論法:センスデータ説を支持する論法。実在物はないのに主体にとってあるものが存在している見えることがある。主体が気づいている何かが存在するならば、それは実在物ではなくセンスデータである。もし知覚と幻覚が同じ心的状態であれば、知覚においても主体が気づいている何かはセンスデータである。

志向説:主体にとってあるものが存在するように見えるというところから、あるものが存在するということは導出できない。知覚と幻覚はそれぞれ現実を志向するものという面で同一だが、前者の志向内容は現実に一致し、後者は一致していない。

選言説:知覚と幻覚は全く異なった種類の心的状態である。知覚は部分的に実在物に構成されているが、幻覚はそうではない。

 

行為の理由に関する三つの立場

心理主義:行為の理由は心的状態であるという立場。センスデータ説と同じ形式の論法で正当化される(行為を説明する理由は成立している何かであり、行為者の信念が偽のときも行為の理由がある、両者の理由が同種だとすると、両者に共通する理由としては心的状態以外にはない)

心理主義:行為を説明するのは目的や事実であり、行為者の心的状態ではないという立場。
ダンシーによる反心理主義の擁護:行為の理由説明文は事実でなくともよい。行為者の信念が偽の場合でも非実在的な信念の対象が理由となる。
規範制約:「行為を説明する理由は、その行為を正当化しうるものでなくてはならない」というテーゼ。反心理主義の核心。心的状態を理由とすることはこのテーゼを満たさない。
目的・事態・事実:反心理主義において行為の理由の候補。志向説と被せて考えるならば、行為の理由は行為者が志向した先にあるもの=目的となる。

選言説:行為の理由は行為者の信念が真であるか偽であるかに応じて変化する。信念が真のときはその対象が理由となるが、偽のときは心的状態が理由となる。
選言説の問題点①:行為者の信念が偽の場合、規範制約に違反する。
選言説の問題点②:行為の理由は信念の真偽に依存しないという原理(共通項原理)に違反する。

 

 

理由の哲学 メモ①

参考文献

理由の反心理主義に基づいて行為の反因果説を擁護する

 

行為の因果説:行為と理由は行為の原因に他ならない(デイヴィッドソン)。
       行為の理由となる信念・欲求の組があったとしても、他の組との差異がなければならないそれが因果関係となる。

心理主義:行為の理由を行為者の何らかの心的状態とする。

作用-対象の二義性(act-object ambiguity):理由に言及したとしても、それが私の心的な事柄か、外的な対象か曖昧である。

心理主義:行為の理由は行為者の心的態度ではなく、その対象である(ダンシー)

因果説は心理主義を前提とする:心的態度を物理的因果として解釈する。

命題:真であったり偽であったりするもの。

事態:成立したり不成立したりするもの。命題を真とするtruth-makerとなる。
理由を命題とすると、理由-行為の因果関係を想定するのは難しい:命題は因果関係と考えにくいので
理由を事態とすると、通常の出来事因果とは別の事実因果を認めなくてはいけない

失敗例論法:心理主義を支持する議論。理由は現実的なものでなくてはならない、また、行為が失敗したときにも成功したときと同じような理由はなければならない。そうすると、心的な状態が理由となる。
 たとえば、ゴキブリをつぶすとき「ゴキブリがいるから」という理由は心的状態となる。

説明理由:行為をある仕方で説明するときの理由

規範理由:「するべきである」という面からの行為の理由。道徳的側面のみではない。行為を実際に良いものにするという客観的面からの正当化。

理由一元論:ある行為の説明理由は、規範理由でありうるものでなければならない。
      心的状態は行為の規範理由になりえないのでこの立場は反心理主義

理由二元論:説明理由と規範理由は別のものである(説明は心的態度、規範はその対象により与えられる)。この立場は心理主義

心理主義の問題点:「pと思うから」という心理的説明は信念態度にコミットしているが、pの存在についてはコミットしていない。しかし、普通はコミットしているだろ。

心理主義の問題点:成功例と失敗例の理由が別種のものになってしまう。(失敗例の理由は心的態度ということになる)。これはおかしい(薬草を取りに行くため山に行く少年の理由は、薬草があるかないかで変わることになる)

心理主義からの反論:失敗例のときの理由を非現実的なものにすることにより、成功例と同種の理由にする。(ゴキブリがいなかったとしても「ゴキブリがいると思ったからつぶそうとした」の理由は「ゴキブリがいるから」である)

 

 

 

 

フィクションにおいての真理 / Truth in Fiction【Woodward(2011)】

Truth in Fiction - Woodward - 2011 - Philosophy Compass - Wiley Online Library

 

 


1.フィクショナルワールド

ある人がフィクションに従事しているとき、フィクショナルワールドについての情報を手に入れていると思われる。
フィクショナルワールドとは、フィクションのなかにある人や物がいる世界である。
ホグワーツは『ハリー・ポッター』という物語のフィクショナルワールドのなかにあり、じゃぱりカフェは『けものフレンズ』という物語のフィクショナルワールドのなかにある。
フィクショナルな真理は、フィクショナルワールドに関係した真理である。
単にフィクショナルワールドを引いてくるだけでは、問題は解決しない。フィクションのなかでの真理とはなにかを考えるためには、「フィクショナルワールドとはなにか」という問題と「作品がどのようにフィクショナルワールドを指し示すか」という問題を解決しなければいけない。
前者を同一性問題、後者を生成問題と呼ぶことにする。

 

2.同一性問題

 フィクショナルワールドについての問題はフィクショナルキャラクターについての問題と見ることもできる。ウォルトンなどのキャラクターについての非実在論者は、フィクショナルワールドは存在しないため、同一性問題はないというだろう。
 一方、フィクショナルワールドを別の概念により還元しようとする立場もある。
 その一つが、可能主義であり、フィクショナルワールドを可能世界だとする。
 しかし、フィクショナルワールドは可能性により同一性を与えられているわけではない。
 たとえば、『フランダースの犬』は太陽系の果てにある小惑星の元素構成についての真理を確定させていない、しかし、可能世界ならばそれは確定している。
 これに対処するため、ストーリーワールドを定義する。定義は以下:フィクションにおいて真(偽)な命題は、すべてのストーリーワールドにおいて真(偽)。
 フィクションはストーリーワールドすべての集合だとする。
 だが、問題が起こる。不可能なストーリーもありうるのだ。そのとき、すべての不可能なストーリーは空集合となり、同じものとなる。
 また、ストーリーのなかで整合しない命題があるときも問題が起きる。シャーロック・ホームズシリーズでは、ワトソンが体に一つだけの傷があるとしているが、『緋色の研究』では肩、『四つの署名』では足に傷があるとされる。
 これらの問題に対処するために二つのオプションがありうる。①フィクショナルワールドは、整合的なストーリーワールド集合の共通部分である。②フィクショナルワールドは、整合的なストーリーワールド集合を合わせたものである。
 しかし、どちらのオプションも問題が発生。①では、ワトソンの傷はフィクショナルワールドから排除される。しかし、排除される要素がフィクションの中核的要素だということもありうる。②だと、ワトソンは体に一つだけ傷があるが二つ傷があるという矛盾が起こる。
 これに対処するため、①不可能世界(矛盾がある世界)を認める。②何をフィクションとするかについての我々の直観が間違っている(実は『シャーロックホームズシリーズ』はフィクションではない)というオプションがある。

 

3.生成問題

 作品が明示している命題(基幹真理)以外にも、フィクショナルな真理はどんどん増えていく。 
 たとえば、『アルプスの少女ハイジ』は登場人物に脳があるとは明示していないが、脳があることはフィクショナルな真理だろう。
 では、フィクショナルな真理はどのように生成されるのだろうか?
 生成方法の一つに「現実性原理」がある。

 現実性原理:p1....pnをある表象体によって虚構性が直接的に生み出される命題であるとするときに、別の命題qがその表象体において虚構として成り立つのは、p1.....pnが事実であるならばqが事実であるとき、そのときに限る。(ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』p145より引用)

 現実原理の問題は、基幹真理と整合するような途方もない量の現実的真理があることだ。
 『源氏物語』のフィクショナルワールドでは、超ひも理論が正しいか否かという真理は確定していることになる。
 この問題に対処するために「共同信念原理」という生成方法が提唱される。

 共同信念原理:p1.....pnをある表象体によって虚構性が直接的に生み出される命題であるとするときに、別の命題qがその表象体において虚構として成り立つのは、p1....pnが事実ならばqが事実であるということが、その芸術家の社会において共有的に信じられているとき、またそのときに限る。(『フィクションとは何か』p151より)

 だが、フィクショナルワールドは作品が作られた時代の人々の信念に依存するのだろうか? 
 両方の原理の問題点として、「ジャンルのお約束」に対処できないというものがある。ゾンビが出てきたら走らないという真理は現実原則でも共同信念原則でも導出できない。三角の黒い帽子と黒いローブを着てほうきにまたがった女性は魔女であるという真理も導出できない。

 

4.基幹真理の生成

 ストーリーテラーにより語られるフィクションがある。
 では、その語りが行われるとき、何が起こっているのか?
 ルイスは「作者が読者に対して自分の知識を与えているフリをしている(作者がナレーターになっているフリをしている)」と答えた。基幹真理はナレーターになったフリをしている作者が読者に与えるフィクショナルな真理だということになる。
 しかし、多くのフィクションには、間違ったフィクショナルな真理を読者に教える信頼できない語り手がいる。
 カリーは「フィクショナルな作者」という概念を提案した。そいつは現実の作者でもナレーターでもなく、完全に信頼できるフィクショナルキャラクターである。読者が物語を読むことによりそいつの信念が構成され、隠された信念は存在しない。
 カリーはフィクショナルな作者の信念という側面から基幹真理を定義する。フィクショナルな作者は顕在的信念と暗黙的信念を持つ。顕在的信念はフィクショナルな作者が語った信念であり、暗黙的信念とは語らないが持っている信念だ。基盤真理は顕在的信念であり、そこから派生するフィクショナルな真理は暗黙的信念だ。
 この説明にはいくつか問題がある。
 ひとつめの問題はカリーの説明では、世界が消失して語るものが誰も残っていないようなフィクションには対応できないというものだ。なぜならば語り手は誰もいなくなるからだ。カリーはそのようなフィクションを不可能なフィクションだと分類する。誰もいないような世界で語り手がいるような想像をすることは不可能である。
 ふたつめの問題は信頼できない語り手の問題だ。ビリーという語り手がフィクショナルワールドについて嘘八百を語り、読者が間違った想像をするとき、読者はビリーとは別の信頼できる語り手を構成するのだろうか?
 みっつめの問題はいかなるフィクションにおいてもフィクショナルな作者がいるのか?という問題だ。視覚的フィクションの場合は明確ではない。
 よっつめの問題は、どのフィクショナルな真理がフィクショナルな基幹真理となるのかという問題だ。フィクショナルな作者の顕在的信念はどのように選ばれるのだろうか。カリーはテキストによりガイドされるとしているが、現実の作者の信念や現実の作者のコミュニティ、物語の形式などにも左右される。
 究極的には、カリーは基盤真理の生成について実質的な答えを与えていない。