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【インターネット哲学百科事典】「認識論における内在主義と外在主義 / Internalism and Externalism in Epistemology」

インターネット哲学百科の項目『認識論における内在主義と外在主義』をまとめました。

 

原文はここで読めます。

 

内在主義とは、知識の正当化が人の中の要素だけで可能であるという立場であり、外在主義はその要素に加え外界の要素が必要であるという立場だ。この論争(I-E論争)は、「人の中」をどう定義するかという面も含んでいる。

I-E論争は、Edmund Gettirの有名な論文『正当化された真なる信念は知識か?』に端を発する。この論文で、正当化された真なる信念が知識ではない事例がいくつか挙げられる(ゲティア反例)。この反例を受けて、内在主義者は知識には正当化は必要だが、それは主観の内部だけで完結するとしている。外在主義者は知識の正当化には外界のプロセス(信念にどのような因果的関係があるか、信念にどのような反事実条件があるか、など)の要素が必要だとしている。I-E論争は、合理性・倫理・懐疑論などと関係している。

1.I-E論争の論理

I-E論争は正当化がすべて人の内部でまかなえるかどうかについての論争である。
第一に、いくらかの認識論者は外在主義を知識の正当化が不要だとする立場だとしている、一方、それに反対する立場もある。
第二に、『信念のためになる良い理由を持っていること』と『自分が持っている良い理由を基にして信念を基礎付ける』の区別は重要だ。この区別は内在主義説に関わってくる。
第三に、『人の内部』とはなにかに関して二つの考え方がある。それらは内在主義の説とそれに対する外在主義の反論に関わってくる。

a.知識と正当化
伝統的には、知識とは正当化された真なる信念(justified true belief. JTB)ということになっている。十分な理由により説明されている真なる信念だということだ。ゲティアの1963年の論文はJTBを木っ端微塵にする事例があることを示した。それは以下のような事例である:スミス氏は同僚の誰かが殺人鬼だと思っている、それは隣の席にいるジョーンズ氏が毎日、楽しそうに殺人の話をしたり血まみれの斧を背中に背負ってきたり死体を隠すための穴を掘ったりしたのを見ているからである。だが、ジョーンズ氏はただ単に殺人鬼のコスプレをして楽しんでいるだけだった。一方、スミス氏の同僚ブラウン氏は影でひっそりと連続殺人を犯していた。このときスミス氏の「同僚の誰かは殺人鬼である」という信念は正当化された真なる信念であるが、知識とはいえない。

このゲティア反例を受けて、外在主義者は何が知識かは外部の事実と信念との関係に依存するとした。一部の外在主義者は知識は正当化を必要としないが、それにもかかわらず正当化は重要だとした。他の外在主義者は知識は正当化を必要とするが、その本質は外在主義的なものだとした。
 外在主義を論ずるうえで重要な側面は、「正当化」とは論理語なのか知識に対しての必要条件のplace-holderなのかということだ。もし「正当化」が論理語であれば、それは一貫性のあるものとなる。外在主義者はそのような分析を怪しいものだと思っている。一方、正当化が単なる条件のplace-holderであれば、それは外在主義にとって都合が良い。「正当化」を論理語としながらも、それは知識には必要ないとする外在主義者もいる。他の外在主義者は、「正当化」とは知識と説明との関係だとしている。内在主義者は、知識にとって正当化は必要であり、そしてそれは一貫した概念だとしている。

b. 正当化と良い基盤
 くまさんチームがスーパーボールの試合で勝つであろう妥当な理由を単に持っていることと、そのような理由をベースにして自身の信念を形作ることの違いはなんであろうか?マイクはくまさんチームが試合に勝つであろう理由をもっている;くまさんチームはディフェンスがすごいうまいのだ。しかしながら、マイクはくまさんチームが勝つであろうという信念を希望によって形作っている。このとき、マイクは良い理由をもっているため信念が正当化されている。しかし、マイクの信念には、彼がくまさんチームの勝利を信じることを正当化しているという主張は含まれていない、なぜなら彼は単なる希望のみで信念を作ったからだ。これが、命題的正当化(propositional justification)と信念的正当化(doxatic justification)の違いである。他にも、正当化(justification)と良い基盤(well-foundedness)の違いだといわれることもある。

 この区別はI-E論争の第二ステージ開幕のゴングを鳴らす。内在主義者は信念正当化決定要素はすべて内的だとする。しかし、因果関係は通常内的とはいはない。自身の信念を理由をベースにして確立させることは信念と理由との間の因果関係であるため、内在主義者は信念的正当化を決定する要素が内的であるとはいえない。ゆえに、内在主義は命題的正当化であることとなる。もし、ある人の信念は良い理由により確立するというやり方のみで知られるのであれば、内在主義者は知識の正当化条件は二つの部分から構成されていると主張することとなる。命題的正当化と因果的つながり(basing relationと呼ばれる)だ。信念的正当化のみを見れば、内在主義と外在主義は大きく違わない。なぜなら、外在主義もまた正当化条件を詳細に記述することを避けるからだ。外在主義者が要求するのは信念とそれが生み出された方法の間にある適切な因果関係だ。

c.「内在/内的」の意味
 命題的正当化と信念的正当化の区別は、「内的状態」とはなにかという疑問をもたらす。内在主義は信念的正当化ではなく、命題的正当化だと理解できる。内的状態のみで決定できるからだ。しかし、「内的」とはなんだろう? ある者の内的状態とは、身体状態なのか、脳状態なのか、心的状態なのか、思索によってアクセス可能な状態なのか。「内的」を理解するやり方には二通りある。思索によりアクセス可能な状態と心的状態だ。前者はアクセス主義(accesibilism)、後者はメンタリズム(mentalism)と称する。アクセス主義者は、ある人の信念が命題的に正当化されるときには、思索的にアクセス可能な要素のみで決定されると主張する。信念の源からの因果関係は、アクセス可能ではないので命題的正当化とは関係がない。矛盾した信念は単独の信念であろうとも複数の信念であろうとも正当化できないため、それは認知的な要素とはいえない。
 アクセス主義は信念の因果的な源を考慮しないため、反デカルト主義である。デカルト主義では、信念と経験との間の因果関係とは思索的にアクセス可能な形で保持されている。多くの学者がこの立場は偽であるとしてきた。たとえば、フロイトは信念の源になった経験にはアクセスできないことがあると示した。また、アクセス主義は信念的正当化においてはもちろん偽である(信念的正当化=命題的正当化+信念とその源との因果関係であるから)。
 アクセス主義では、アクセス可能状態は、現在においてではないといけないのだろうか? もしアクセス主義が現在のみに制限されていないとすると、正当化を起こす状態はどの時点まで可能であるのか説明しなければいけなくなる。Feldman(2004b)は、現在の状態のみが正当化をすると主張している。
 アクセス主義では、正当化状態はアクセス状態でなければならない。ゆえに、ある人が信念Pを正当化されるかされないか決定する能力が欠如はPが正当化されていないことを示す。BonJour(1985)がいうにはこれは強い内在主義といえる。なぜならば全ての内在主義は「自分がPを知っていることを知っている」という条件は「Pを知っている」ということの前提になるわけではないとしているからだ。Nozick(1981)は内在主義とは、知識には知識の必要条件知識が含まれていると表現している。

 内在主義のもう一つの説は内的状態とは心的状態というものだ(メンタリズム)。メンタリズムも命題的正当化に関する説である。メンタリズムはデカルト主義と関係している、デカルト主義では心的状態とは孤独な思索により主体が一人で決定できるとしているからだ、拡張されたメンタリズムはアクセス主義と違い、非思索的にアクセス可能な心的状態も信念の命題的正当化に貢献するとしている。
 メンタリズムの擁護者は、どのような心的状態が正当化状態なのか説明する義務がある。心的状態とは様々な種類があるが、どれが命題的正当化をもたらすのだろうか。更に、現在の心的状態のみが正当化をもたらすのかどうか説明しなればならない。現在持っていない心的状態というのは、たとえば、たぶんあなたは186は86より大きいと信じているだろうが、それを信じる心的状態が四六時中続いているわけではない。
 メンタリズムはアクセス主義における問題点を回避することができる。アクセス主義の問題点とは、アクセス可能という言葉を分析していけば知識を正当化するものであるとなり、循環に行き着くからだ。メンタリズムはアクセス可能という問題のある概念を使わないのでこの問題を回避できる。しかし、メンタリズムは本当の内在主義とはいえないのではないかという意見もある。

 

 2、内在主義の根拠
 
 内在主義には三つのモチベーションがある。ソクラテス的/デカルト的計劃による要求、義務論(deontology)による要求、自然的判断による要求である。

a.ソクラテス的/デカルト的計画
内在主義者は共通して、正当化とは良い理由をもっていることを要求すると強調している。その起源はソクラテスデカルトだ。私がソーシャルゲームのポイントが明日中にはなくなるだろうと信じていたとしよう。このとき「私はそのことを真だと思っている、なぜならそれは真であるからだ」というのは間違いである。信念とは別の理由が必要であるからだ。しかし、その理由は信念形成の因果的源や形成プロセスであるとすることはできない。また、「カレンがそう言ったから」などの別の信念と使うこともできない。カレンの言明はポイントがなくなるであろうことを良く示しているが、信念の正当化とは離れている。ソクラテス的/デカルト的計画は合理性は良い理由を要請するということに端を発している。

 この計画は外在主義に反している、なぜならば、外在主義ではたとえ信念に対する理由がなくても、信念は正当化されるからだ。たとえば、カレンがソーシャルゲームのポイントは明日中になくなるだろうということが信頼性のあるプロセスであれば正当化はされる。他の信念により導き出されたものではない信念は基礎的信念(basic beliefs)と呼ばれるが、外在主義者は、基礎的信念は外在的な条件により正当化されるとしている。

 しばしば内在主義者は、外在主義者の条件では不十分であるとしている。ソクラテス的/デカルト的計画は、我々が持つ最も基礎的な信念が真であるかに関心があるのだが、外在主義的な条件を示しただけでは、その問題は解決できないからだ。このような不満に対して、初期の外在主義者は、条件を使用することと規定することの差を強調して反論する。アルビノの十分な定義が実際のアルビノを探すのに役立たないように、正当化の本質の分析は正当化をすることとは関係ない。ゆえに、内在主義者の計画が完成したとしても、それは認識論として不十分である。
 初期外在主義者の反論としては、他に内在主義者は自身の要求を満たしていないというものがある。Alvin Goldman(1980)は内在主義者は正当化の条件は思索的にアクセス可能とするが、正当化の過程は真理を手に入れる能力に依存し、それは思索的にアクセス可能ではないとしている。そのため、内在主義者が自分の制限を使えば、正当化の過程を理解できないこととなる。 

 b.義務論(倫理的信念)

 「正当化」は義務などのより広い領域と関係する。デカルトは誤った意思からは間違った信念が発生するとしている。これには二重の意味がある。一つは、もし自分の信念を支配していれば、自分の信念を正当化するだろうということで。もう一つは、もし適切な信念的態度を保持していれば、真なる信念をもつだろうということだ。ロックもデカルトと同じような意見を持っていた。ロックは、もし、自身の信念的態度を義務と合致させるようにコントロールすれば、価値の真理をとり逃すことはないであろうと主張した。
 正当化は義務とかかわるが、義務は完全に内的なものだ。義務を果たすときには持っている証拠を徹底的に分析することが正当化につながる。証拠がなく、外的に真だとしても、それは正当化にはならない。これが内在主義者の主張だ。
 外在主義者の反論は、第一に義務と正当化の結びつきを否定するものだ。第二に、アクセス主義が義務論と同じような正当化をすることを否定するものだ。第一の反論には二種類ある。a)義務や権利の必要条件は信念に対しては満たしていないとするもの。b)義務論的な決定は認識論的真理と何の関係もないとするもの。a)の議論は、信念は個人のコントロールを超えたもので、義務や責任と結びつけることはできないとするものだ。これは信念自発性の問題と関連する。b)は個人が認識論的に欠点があるにもかかわらず、罪がまったくなく非難できないという状態がありうるというアイディアを基とする。
 Michael Bergmannは第二の反論を唱える。彼が言うには、義務論的な正当化とは、人々が信念を否定する理由がないことを示すだけだ。信念を支持べきという強い正当化は義務論のなかにはない。

 c.ある場合においての自然な判断
 内在主義を支持するものとして、有名な二つの思考実験がある。千里眼のケースと、新悪霊のケースだ。千里眼のケースは内的証拠なしで信頼性があるケースで、新悪霊のケースは信頼性なしで内的証拠があるケースである。
 
 i.千里眼の思考実験
 ノーマンという千里眼を持つ青年がいたとしよう。この千里眼は完全に信頼性があるものだ。彼は証拠や理由なしでありとあらゆるものが見渡せる認知的パワーを持っている。ノーマンは大統領がニューヨークにいることを信じているが、どうしてそれを信じるようになったのかはまったく分からない。このとき、外在主義的観点から見ると、真であり信頼性のあるプロセスによって生まれた信念であるため、正当化された信念ということになってしまう。しかし、直感的にはノーマンの信念は正当化されてはいない。よって、外在主義は間違いだ。

 ii.新悪霊の思考実験
 オリジナルの悪霊はデカルトが考え出した思考実験だ。彼は、非常に強力な力を持った悪霊が自分をだましており、外界が存在するという幻覚を見せているのではないかと仮定した。デカルトは全ての証拠を排除した上で、悪霊を否定している。
 対して、新悪霊は外在主義の信頼性という概念を攻撃するためのものだ。映画『マトリックス』のような世界を考えよう。その世界では、脳に刺された電極により、私は外界にいる感覚があるのだが、実際にはタンクのなかにいる。木を見ていると感じているが、実際には木などない。外在主義的に考えれば、このとき、自分が持っている証拠からは木がないということが正当化されるはずだ、しかし、その証拠とは木がある場合と同一のものなのだ。これはおかしいではないか。

 外在主義者の反論
 外在主義者はノーマンの信念は正当化されないとする。なぜならば、この世界では千里眼は信頼性のある方法ではないからだ。ゆえに、ノーマンの信念は客観的にはたぶん偽である。
 新悪霊も同じように反論できる。我々の感覚的証拠は、この世界では外在的な条件を満たす。たとえ、マトリックス世界で条件が満たされなくとも、我々の世界で満たされれば良いのだ。
Alvin Goldman(1993)はノーマン・ケースへの外在主義的反論を更に発展させた。Goldmanは我々が持っている認識論的な徳と悪の関係からノーマンの信念は正当化されないとする。そして、実際に認識論的な徳は信頼性主義の形で与えられるとする。

 

 3、外在主義の根拠
 外在主義を主張する理由としては。①真理との連関 ②知識の一般的原因帰結 ③ラディカルな懐疑論のありえなさ という三つの理由がある。

 a.真理との連関
 第一の理由は、認識論的正当化は真理とつながっていなければならないとするものである。認識論的正当化は思慮深いことによる正当化や道徳的正当化とは異なる。前者は客観的でなくてはならないからだ。しかし、心的状態や思索的にアクセス可能な状態によって客観性の確保はできない。リトマス紙が酸により赤くなるのは、内的状態が原因ではなく、外界がそうなっているからなのだ。
 
 内在主義者の反論:感覚的証拠があるとしても、それが客観的信念であるとはいえない。新悪霊の思考実験が示すように、認識論的正当化には客観的に真らしいということは含まれていない。外在主義者は、客観的真理と正当化のつながりについて、直感以上の証拠を示さなければならない。

 b.おばあさんとティモシーとレイジー
 内的状態を欠いていても正当化が可能である人や動物がいるではないかという理由。
 例えば、おばあさんは自分に手があることについて詳しい論証はできないが、自分に手があることを知っている。ティモシーは今日は晴れであることを知っており、レイジーはバケツのなかに水が入っていることを知っているが、内的状態を論じて詳しく論証できない。そのような状態は創造可能であろう。
 内在主義者は、おばあさんたちのケースは、正当化を必要としないケースだというだろう。外在主義者は、もっと具体的なケースを出すことができる。例えば、チキン性別判定者は自分がどのような基準を根拠として判断しているか明言することができない、しかし、正しい判断ができるのだ。これは信念が正当化しているのにかかわらず、内的状態が存在しないケースである。
 他にも、こんな場合がある。サリーはクイズショーでヒントをもらったことで正しい解答をした。しかし、その答えはサリーの頭の中で突然思い浮かんだものであり、どのようにそれが正しいかは内的状態のなかではわからない。だがクイズの答えは正当化されていると判断するべきだ。

 内在主義者の反論:外在主義者が出す例では、内的状態が欠けているとはいえない。おばあさんは理由を引用できないが、手があるという経験や記憶はある。チキン性別判定者も、同じように経験を持っているとする。クイズショーの場合では、もっと興味深いことが起こる。サリーは内在主義者が想定する条件を持っていない。そのため、内在主義者はサリーには知識が欠けているとしなければならない。Feldman(2005a)はサリーには安定した信念形成メカニズムが欠けていると指摘する。そのため、サリーには信念が欠けており、知識には信念が必要であるため知識に欠けている。
 もう一つの選択肢は、たぶんサリー自身も自分が自らの知識に基づいて正しい答えを言ったとは思っていないだろうというものだ。

c.懐疑論スキャンダル

 外在主義を支持する三つ目の理由は、ラディカルな懐疑論を論破するのに必要だということだ。この懐疑論は、外界の存在に我々が直接アクセスすることができないということを根拠として、あらゆる信念の正当化は不可能だとするものだ。たとえ、マグノリアの木を見たと思っていても、実際には脳が操られていたため木は存在しないかもしれない。そのようなことは全てのものに当てはまり、外界全てののことは正当化されず知識とはいえない。これには単純性などの常識を導入すればよいのではないかと思われるかもしれないが、バークレーは常識では懐疑論に勝てないことを示している。
 内在主義者が懐疑論に立ち向かうのは難しい、内在主義者は経験のなかに懐疑論が偽であることは含まれていないが、それでも、経験は常識のほうが懐疑論よりすぐれていることを示すとしている。これは直感的だが、議論の多い論法だ。
 外在主義者は、事実に対しての直接的アクセスの欠如が、推論的知識の欠如を含んでいるという点を攻撃する。アームストロングなどの初期外在主義者は、もし知覚的信念pが事実により因果的にもたらされていれば、pを知っていると主張する。後の外在主義者は、信頼性や真理トラッキングなどの別の方法を使ったが、それらのコアアイディアは、直接的アクセスがないからといって非推論的知識が正当化されないわけではないというものだ。外在主義者は内在主義者の主張では、直接的アクセスの欠如が非推論的知識の欠如を含んでしまうと論ずる。また、外在主義者は常識から、我々はたくさんの知識を持っているという前提は正しいとする。

 内在主義者の反論:ある内在主義者は、我々は外界に直接的アクセスしているとする(直接実在論)。他の内在主義者は、アブダクションを利用して常識を擁護しようとする。我々の知覚を最も良く説明するのは、外界が存在するという常識的世界観であるというものだ。他の反論としては、外在主義は懐疑論に対して条件的な反論しか出せないというものがある。もし、外在主義者が外在的なEという条件により非推論的知識は保証されると主張したとしよう。このとき、我々が手に入れることができるのは知覚的知識のみだが、そこから条件的な主張を導き出すことはできない。Eを知るためには、外在主義者はまた新しい条件E1を定義しなければならないが、そのような定義づけは永遠に繰り返されるであろう。ゆえに、外在主義の計画は失敗に終わる。

 

 4、I-E論争の重要性

 I-E論争はメタ認識論の領域に関わる。認識論的理論の本質と目的はなにかという分野だ。このことに関して、三つの提案がある。

 a.温度計モデルに対しての不一致
 アームストロングは外在主義の認識論を表すため「温度計モデル」を考案した。良い温度計は、外界の気温について信頼性のある表示をする。同じように、非推論的知識は真理について信頼性がある。温度計モデルは信念が真である信頼性を持っていることは内在主義的要求を満たさなくても可能であるということを示している。
 温度計モデルの重要性は、非推論的知識を外在主義的に理解していることだ。良い温度計についてという中立的な考えから外在主義的な考え方が出てくる。これは理由主義者(rationalist)の計画を妨げる。理由主義者はオリジナルの信念とは別の理由信念があり、オリジナル信念を支持すると考えているが、温度計モデルによれば理由などなくても良い。
 温度計モデルに対しては、反論がたくさんある。BonJourは温度計モデルは千里眼を持ったノーマンのようなものだとする。このモデルは主体を単なる「認知的温度計」と解釈してしまっている。温度計モデルは、もしも、信頼性があれば、主体には自身の信念を支持するなんの知識もなくても良いとしていると反論する。
 
 b.正当化の概念に対しての不一致
 Alvin Goldman(1980)は正当化の規定的概念と理論的概念とを区別する。正当化の規定的概念とは、主体が信念を蓄積するための実践的な助言をするものである。例えば、デカルトなどはこちらの正当化にフォーカスしている。一方、正当化の理論的概念とは、認識状態に与えられた信念とは何であるか具体化すること目的としている。Goldmanは二種類の概念により正当化の理論が導けることを強調している。
 I-E論争の一つの説明として、正当化の規定的な説明の役割をめぐった論争であるというものがある。アクセス内在主義者は正当化の正しい説明をするには、規定的概念が重要であると指摘できる。たとえば倫理的信念においては、主体が信念を正当化すれば、ふさわしき行いがどのようなものか規定したことになる。一方、外在主義者は規定的概念と理論的概念の間に明白な線を引き、規定的概念は正当化の本質に関係がないとしている。
 
 c.認識論の自然主義についての不一致
 温度計モデルを見ても分かるとおり、外在主義者は認識論的概念を法則的概念で説明することができると考えている。アームストロングは、その法則とは気温と温度計のような自然的なつながりだと考え、Goldmanは信頼性だと考え、Nozickは因果概念に含まれる真理トラッキングだと考え、Dretskeは情報プロセスだと考えた。
 一方、内在主義者は信念の正当化には心的状態が必要であるとする。そして、心的状態は物理的還元ができないであろうとしている。ただ、内在主義者のキーアイディアは、気づき(awareness)のない単なる外在的な条件では認識論的概念の説明として不十分であろうというものだ。Fumertonは、このアイディアはデカルトの明晰さや、ラッセルの直接的知識(direct acquaintance)、Chisholmのこれ以上ないほど理性的な考えなどと関連しているとしている。

 認識論の自然主義の議論領域の一つは、証拠の必然性と不確かさについてだ。内在主義者は、最も基礎的な証拠とは必然的なものであり、証拠の理論はア・プリオリなものだとしている。対して、外在主義者は、証拠の肯定には不確かさが付随するとしている。

 他の領域に、心の哲学との関連がある。自然主義者は心を物理的システムとすることを目指す。自然主義者はなぜ心的状態が自然的概念を使って還元できないか疑問に思うのだ。対して、内在主義者は自然主義者が奇妙な形而上学を使っているとしている。心的状態とは自然科学によって説明されるものではなく、常識や心理学により説明されるものだからだ。

 5、結論
 I-E論争は正当化された真なる信念で知識を説明することが破綻した後生まれた。その破綻を示したのがゲティア反例だ。ゲティア反例との格闘からI-E論争は生まれた。この論争は以下のような領域をもっている:通常の知識態度、理性の本質、倫理的信念、認識論における自然主義