水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

フィクショナル・キャラクターズ / Fictional Characters【Friends(2007)】

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我々はしばしば、暁美ほむらや、アンパンマンや、ハリー・ポッターなどといったフィクショナル・キャラクターについての文を発話したり、思考したりする。このとき、いったい何を指示しているのだろうか? 反実在論者は何も指示しておらず、フィクショナル・キャラクターが入った文はすべて偽であるとする。一方、実在論者は、対象としてのキャラクターの存在を認め、一部の文は真であるとする。

反実在論者の課題

ほとんどの哲学者は直接指示理論(名前の意味とは指示詞に限られる)を採用している。
フィクショナルキャラクターについての文は「物語によると」というストーリーオペレーターが隠れているとしても問題がある。もともとの文が完全な命題ではないとすると、オペレーターをつけても命題にはならない。(文「ゴジラが東京を破壊した」に意味が欠如しているならば、「映画『ゴジラ』において、ゴジラが東京を破壊した」も意味が欠如している)
同じく「ゴジラはフィクション上のキャラクターだ」「ゴジラは存在しない」も意味が欠如していることになる。

記述主義や量化分析をしたとしても問題が発生する。このアプローチは物語のなかの文にしか適用できない。
「わたしはアンナ・カレーニナをかわいそうだと思う」「ホームズはポワロよりも優秀だ」「ハムレットはフィクショナルキャラクターだ」にはストーリーオペレーターは付かない。
反実在論者に課せられた最も難しい文は「丸いものよりも平たいフィクショナルキャラクターがある」など名前が出てこない文だ。
対して、実在論者はこの種の文に対して統一的な説明を与えることができる。
反実在論者はフィクショナルキャラクターについての文に真なものはいっさいないということはできるが、その場合、キャラクターについて語るとき我々は何をしているのか説明しなくてはいけない。

 

フリ説

最も一般的な反実在論者の説明は、フィクショナルキャラクターについて語るとき、我々はフリに従事しているというものだ。
ウォルトンによれば、フィクションを楽しむとき、我々は小説を小道具にしたメイクビリーフ(ごっこ遊び)をしており、あたかもキャラクターが存在するように振舞っている。
そこには(暗黙的な)ゲームのルールがある。
ウォルトンの課題は、フィクショナルキャラクターについての会話が、どのようにフィクションの内容を伝えているかどうかということの説明だ。ウォルトンは公式のゲームに参加することにより可能となるしている。「ゴジラが東京を破壊した」という会話は、「ゴジラ」という空名により説明されるのではなく、視聴者のゲーム参加により説明されるのだ。ゲーム参加者は、フィクションの内容についての真理を伝えたようなフリをしている。

この提案は二種類の解釈がある。
第一解釈:意味論レベルの解釈。「ゴジラが東京を破壊した」という文の意味とは特定のメイクビリーフゲームにおけるふさわしい振る舞いのことだ。その文は文字通りではないが、真である。この解釈はさまざまな分野から批判されている。
第二解釈:「ゴジラが東京を破壊した」は完全な命題ではない。ゆえに、真ではありえない。では、不完全な命題がどのように真理運送に使われるのか? 現実世界のフリの状態と対応するような「架橋法則」を特定しなくてはいけない。

ウォルトン説のメリットは、他のフィクショナルな言説についても応用できることだ。「ゴジラのほうがガメラより強い」などのメタフィクショナルな文は権威化されたフィクション内容を超えた「非公式的」ゲームだとしている。
このようなゲームはたとえば、特定の情動状態とフリの状態が対応しているという架橋法則により現実と対応しているかもしれない。

 

フリ説の難点

フリ説の難点はいくつかある。
難点①「ゴジラはフィクション上の生物だ」という文は実際に真と思われるが、フリ説では真になりえないとされる。
 解決策は二つある。
 解決策①非公式ゲームでは、我々はあたかもフィクショナルなものが(フィクションとして)存在しているように振舞っている。
 解決策②ゴジラの虚構性を指摘するのは、フリへの「裏切り」である。
 実在論者は、この対応をアドホックとするだろう。
難点②メイクビリーフゲームをどのように個別化するのか?フィクショナルオブジェクトなして説明しなければいけない。
フリ説によると、文「暁美ほむら鹿目まどかが好きだ」は文「宮水三葉立花瀧が好きだ」と同じく「xはyが好きだ」という不完全な命題を表しているとするが、両者は明らかに違う。
ウォルトンは「フリの種類」をもって説明する(ほむら的種類のフリ、三葉的種類のフリ……)が、フリの種類はどのように個別化されるのだろうか?
名前を使うことはできない(同名キャラがいる、同じキャラクターでも名前が違うことがある)。キャラ名に関わる記述内容を使うこともできない(同じ状況で違うキャラがいる)。
ウォルトンは、「特定のフィクションと無関係にフリの種類を個別化することはできない」としている。
しかし、フィクションへの指示はフリの種類の個別化に不十分だ。『君の名は。』や『コワすぎ 史上最恐の劇場版』は多くのキャラクターの小道具となっている。反実在論者は明確な解決策を持っていない。
一方、実在論者の場合、ゴジラについての文はフィクショナルオブジェクトについての文であり、真性の内容を持っているとする。

 

実在論者の戦略

実在論者は、我々は文芸活動において、フィクショナルオブジェクトにコミットしていると主張する。フィクショナルオブジェクトとは、小説・プロット・リズムなどと同じようなカテゴリの存在だ。
実在論には二つのバージョンがある。
①内的実在論:フィクショナルキャラクターとは、性質の集合によって構成される永続的・非創造的なものである。このとき、フィクショナルキャラクターはフィクションの内的パースペクティブから見た性質を持っているということになる。ブラックジャックは医者である、男性であるなどの性質から構成されているとする。作者は語りを与えたという意味のみでキャラを創造したことになる。
②外的実在論:フィクショナルキャラクターは、作者・テキスト・読者に依存して存在する。フィクションの外的パースペクティから見た性質により特定される。(アンナ・カレーニナトルストイにより作られた、『戦争と平和』に出てくる……などの性質を持つ)

 

実在論者に有利な点

実在論者に有利な点①:フィクショナルキャラクターへの志向性・対象指示性・思考・言説など(ハムレットについての思考はラスコルニコフについての思考ではなく、ハムレットへの思考である)。
さらに、ある程度主観を超えた状況でキャラクターの特定が可能だ。
このような文芸活動において、最善の説明は我々はフィクショナルオブジェクトに対しての思考を持っているということだ。
有利な点②:フィクショナルキャラクターへの量化を含んだ言説。「丸いものより平たいフィクショナルキャラクターがいる」という文は真でありそうなだけでなく、フィクショナルキャラクターへの量化を含んでいる。それらはキャラクターの量化なしにパラフレーズすることはできない。もしも、量化があるならば、存在論的コミットメントをしなくてはいけない。
 それに対しての反実在論者の反論①:「No-one came to the party」という文があってもNo-oneがいるわけではないのと同じく、量化は成り立っていない。
 反論②:量化が成り立つのはゲームのなかだけであり、現実世界については何も言っていない。
実在論者に有利な点③:フィクショナルオブジェクトの存在条件は拒否できないほど小さい。作者がキャラクターを個別化するフリをしただけで、存在する条件になる。反実在論者は、野球チームがスリーアウトで交代することを認めながらイニングを否定するようなものだ。

 

実在論の難点

実在論の難点①:その論法はフィクショナルオブジェクトのみに限定できない。ゼウスなどの神話クリーチャー、フロギストンなどの失敗した科学の措定物、さらには単なる想像物までもが存在することになってしまう。
難点②:日常的な文芸活動が実在論者に有利だとはそれほどいえない。キャラクターの本性を決めることは難しい(テレビアニメ「ラブライブ!」に出てくる矢澤にこと、そのコミカライズに出てくる矢澤にこは同一人物なのだろうか?)
フィクショナルオブジェクトの同一性条件は興味相対的だとする実在論者もいる(Lamarque)。この場合、キャラクターが同一人物なのかとか、ある作品には何人のキャラがいるかなどといった疑問に答える厳密なルールはないことになる。厳密なルールがないことは、実在論者にとってそれほど致命的な弱点ではない。小説やプロットの同一性条件も曖昧であり、反実在論者もフリの種類の同一性条件を与えられないからだ。
では、実在論者が言うように、キャラクターの実在性にコミットすることが、我々の文芸活動をスムーズに説明することになるのだろうか?

たとえ、実在論をとったとしても「ゴジラ放射線を吐く」「ブラックジャックは凄腕の医者だ」などの文は偽であるとされる。ゴジラブラックジャックは抽象的対象であるため、放射線を吐いたり医者であったりという性質を持つことはできない。しかし、作品を見た人々は上のようなことを言うだろう。実在論の観点からは、この現象はどう理解されるのか?
実在論者の戦略は三つある。
戦略①:抽象的対象には、二種類のやり方で性質を述語付けることができる。ブラックジャックは凄腕の医者だというのは、抽象的意味のなかだけである(「凄腕の医者である★」と表現する)。星なしの「ブラックジャックは凄腕の医者だ」は偽である。この戦略ではフィクショナルキャラクターへの述語付けは曖昧となる。
戦略②:「ブラックジャックは凄腕の医者だ」と言うとき、我々は内的パースペクティブに立っている。このとき、フィクショナルオブジェクトを指示してはいない。外的パースペクティブに立つことで、批評的言説の領域に入り、フィクショナルオブジェクトを指示するようになる。この戦略の問題点は、キャラクターについての言説において統一された説明が欠如していることだ。我々はあるときは「ブラックジャック」を指示しておらず、あるときは指示していることになる。
戦略③:文「ブラックジャックは凄腕の医者だ」はフィクショナルオブジェクトを指示するが、その文はオブジェクトが持っていない性質を述語付けている。「漫画においてブラックジャックは凄腕の医者だ」は真となるが、「ブラックジャックは凄腕の医者だ」は偽となる。「ブラックジャックは凄腕の医者だ」と我々が言うのはフリをしているからだ。反実在論者はフリを使っているのならオブジェクトにコミットするのは無駄だと言うかもしれないが、ブラックジャックについてのフリをしているという点を説明できるという利点がある。
しかし、この戦略は反直観的帰結をもたらす。「ブラックジャックは凄腕の医者だ」というときの反応は、「虚構的真理」の想像だということになる。しかし、抽象的対象が医者であったりする性質を持っているという想像を、どのようにしているのだろうか?数字の3がロンドンへ旅したり、憲法が頑固であったりするのと同じようなものだ。

 

実在論の全般的な問題として、内的・外的パースペクティブの差異が維持できないというものがある。実在論者は、フィクショナルキャラクターについて、我々はあるときに真のことを言い、あるときには偽のことを言うとする(反実在論者はすべて偽だとする)。文「私はブラックジャックがかっこいいと思う」について、ある実在論者はストーリーオペレーターを付けることはできないため、フィクショナルオブジェクトについての文だとする。しかし、実在するオブジェクトとしてのブラックジャックはかっこよいという性質を持つことはできない。
実在論者はフリをしぶしぶ認めるものの、批評的言説については実在するオブジェクトを指示していると主張するかもしれない。しかし、必ずしもそうとはいえない。批評においても、内的外的パースペクティブが混在している。作品のなかにおいてすら、パースペクティブの混在が見受けられる。
パースペクティブの混在問題は、反実在論者にも課せられる。『戦争と平和』の公式ゲームに従事しているとき、「アンナ・カレーニナは自殺した」は真と見なされ、「アンナ・カレーニナトルストイが創った」は偽と見なされる。しかし、「アンナ・カレーニナは自殺した最も有名なキャラクターである」は二種類のフリが混在しているように見える。ウォルトンは、このような文はキャラクターが内的性質と外的性質を併せ持っている非公式ゲームだとする。ここで、フリの種類やメイクビリーフゲームをどう個別化するのかという問題が出てくる。
しかし、この問題では反実在論者のほうが有利である。フリの種類の区別はシャープである必要はないのだ。子供は複数のごっこ遊びを混在することがある。

 

実在論VS反実在論、双方のスコア

キャラクターについての志向性や言説という面から見れば、実在論者が若干勝っている。反実在論者は特定のフリがあるキャラクターについてのもので、別のフリは違うということを説明しなければいけない。
実在論において、フィクショナルオブジェクト同一性は厳密に決定できなかった、ゆえに、フィクショナルキャラクターの同定についての説明は弱い。
反実在論者もまた、フリの種類における同一性という面で問題を抱えているが、それはフィクションやフィクショナルキャラクターとは独立している。フリの同一性問題が解決すれば、フィクショナルオブジェクトなしでフィクションに関わる活動を説明できる。
実在論者はジレンマに直面する。もしも、対象なしの思考や言説を認めるならば、「同じフィクショナルオブジェクトについて語っている」という例を出して実在論を擁護することができなくなる。一方、対象なしの思考や言説を否定するならば、我々が同じ対象について語っている証拠はどこにあるのか? フィクショナルオブジェクトを使って説明することはできない(同一性問題があるので)。ゆえに、実在論の有利な点がなくなってしまう。反実在論者はオブジェクトなしで言説活動を説明するのに長けているからだ。