水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

フィクションのパラドックス/The Paradox of Fiction【インターネット哲学百科事典】

http://www.iep.utm.edu/fict-par/

 

我々はフィクション作品を鑑賞するとき、しばしば情動が揺さぶられたと主張する。しかし、情動の本質について考えると、この事象はパラドックスを引き起こす。

 


フィクションのパラドックスは、正しそうに見える以下の三つの命題が互いに矛盾していることである。
(1)フィクションの鑑賞者は、フィクションの登場人物などに対して情動を抱いている。
(2)何らかの対象に対して情動を抱くとき、その対象が実在していることを信じていなければならない。
(3)フィクションの鑑賞者は、フィクションの登場人物などが実在していることを信じてはいない。

パラドックスの提案者、ラドフォードは三つの命題をすべて受け入れ、情動とは非合理的なものだと結論付けたが、その解決法は十分なものではない。

代表的な戦略は三つである。(1)を否定するフリ説。(2)を否定する思考説。(3)を否定するイリュージョン説だ。

 

 

フリ説


ウォルトンが提案するフリ説は、我々がキャラクターに対して、本当の情動を抱いていることを否定する。本当の情動は、その対象が実際に存在するという信念が必要だ(なお、のちにこの条件を緩めて、現実世界の行動への動機付けがなければならないという条件にしたらしい)。
ウォルトンによれば、フィクションにより生成されるように見える情動は本当の情動ではなく「準情動」である。ホラー映画を見て恐怖しているように見えるのは、実際には「準恐怖」を感じているに過ぎない。鑑賞者はフィクションを手掛かりとして、信念では真としない命題を真と仮定するメイクビリーフ(ごっこ遊び)ゲームを開始し、そのなかであたかもフィクショナルキャラクターが存在するフリをする。フィクショナルキャラクターに対しての情動のように思えるものはすべてそのメイクビリーフゲーム中での準情動である。
準恐怖を生成するのはその対象が存在するという信念ではなく、「フィクションによれば、対象がメイクビリーフ的に存在している」という二階の信念である。(なお、準恐怖は恐怖よりも感じが弱いというわけではない、通常の恐怖から存在信念を抜いたものを準恐怖と呼ぶ。その感じは日常的なものよりも強く、持続性も高いことがある)。
このことをもって、他のフィクションのパズルを解くことができる。ある悲劇を見たとき、視聴者はキャラクターたちを苦悩から救ってほしいと言うが、バッドエンドも見たいと一方で言う。これは、「キャラクターを救ってほしい」というメイクビリーフをしながら、実際には「キャラクターが苦しむというメイクビリーフをしたい」という欲求を持っているからである。
また、結末を知っている物語を楽しめるのは、その都度生成される新しいメイクビリーフゲームに参加しているからである。

 

フリ説への反論

ウォルトンは子供のごっこ遊びとメイクビリーフゲームのアナロジーを使う。キャロルは両者にディスアナロジーがあることを指摘する。ごっこ遊びをするかしないかは行為者に選択の余地があるが、ホラー映画を見て(準)恐怖するということは視聴者に選択の余地はない。クソ映画では視聴者を(準)恐怖させることに失敗することがあるかもしれないが、それは映画の問題だ。
他のディスアナロジーとして、現象的側面がある。お涙頂戴の映画にあきあきしながらも思わず涙を流してしまうことがある。フィクションへの参加を拒否しているのに、なぜ(準)情動が生じるのかフリ説では説明できないという反論だ。
ウォルトンはこのような反論に対して、ゲームは意識的なものだけではなく、無意識に参加できるというだろう。
また、ウォルトンは準情動とは何かを明確にしているわけではなく、信念により生成される情動に対応させて、メイクビリーフにより生成される準情動とテクニカルに定義しただけである。

ウォルトンの準情動は余計なものだという反論もある。
映画では突然の音楽や演出などの「ビックリ効果」が良く使われる。そうした効果によって生じる驚きは、存在信念を必要としない。また、驚きによるドキドキした感じは容易に恐怖と混合される。ホラー映画を見たときの恐怖は、実際には驚きを混合したものだというパラドックスの解消法もある。驚きを知覚と分類し、知覚と情動が混在した結果パラドックスが生じるという説だ(Saatela1994)。しかし、その説はフィクションにより哀れみや後悔が与えられることを説明できない。
Glenn Hartzはフィクションへの反応は前意識的なものであり、信念とは独立しているとした。

 

思考説

思考説は前提(2)を否定し、対象が存在しないとわかっていたとしても、それに対しての情動が発生するという説だ。情動が発生するためには、「心的表象」「思考内での楽しみ」「想像的企て」などのみで十分であり、存在信念は必要ないのだ。必要な信念は、フィクションにおいてキャラクターがどれだけ恐ろしいとされているかなどの「評価的信念」のみでよい。

思考説と似ているが違う説としてカウンターパート説がある。この説では、フィクションを楽しむとき本当の情動が生まれているが、それとストーリーの関係性は意図的なものではなく因果関係であるとされる。ストーリーが現実世界についての思考を生じさせ、それが対象となり情動が生まれるという見方である。カウンターパート説は思考説ともフリ説とも協力が可能だ。「存在していないものを対象には情動は生じない」という条件を保持することができるからだ。

 

思考説への反論

思考説への典型的な反論は、存在しないとわかっている怪物を怖がるのは不合理であるというものだ。
また、Malcolm Turveyは我々は、単なる映画のイメージに対して現実と変わらない反応を示すため、そもそもパラドックスは成立しないとしている。しかし、たとえば小説においては文字に対して情動反応を示しているわけではない。
思考説は単なる思考がなぜ激しい情動を引き起こすのか説明しなければいけない。

 

イリュージョン説

年々賛同者が少なくなっているイリュージョン説は(3)を否定し、我々はフィクションに従事しているとき実際にキャラクターが存在するという信念を抱いているとする。Cokeridgeは「意志による不信の宙吊り」によりフィクションを楽しんでいる間、鑑賞者はキャラクターの存在について半信半疑となっているとした。
最も強力な反論は、現実に対してのものとフィクションに対してのものの情動反応の差である。鑑賞者はいくらホラー映画が怖くとも映画館から逃げ出そうとはしない。たとえ半信半疑であろうとも、怪物の存在を半ば信じているのであれば念のため逃げようとするはずである。さらに弱めて、ほんの一瞬の間は存在を信じているとしても、時間が短すぎて情動の説明にはならないであろう。
しかし、鑑賞者の会話は一見、フィクショナルキャラクターの存在を信じているように見える。これは単なるメタファーなのであろうか。「作品に吸い込まれる」「我を忘れる」という言説は非信念的な説明のみで十分なのだろうか。

また、Richard Moranは情動が様相的事実や歴史的事実に反応することは問題ないケースであることから、パラドックスの成立を否定している。