水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

「フィクショナルキャラクターについての抽象的人工物理論を擁護する。なぜ、Sainsburyのカテゴリーミステイク反論は間違っているのか。/Abstract Artifact Theory about Fictional Characters Defended — Why Sainsbury’s Category-Mistake Objection is Mistaken」【Zvolenszky(2013)】

抽象的人工物説では、フィクショナルキャラクターは法や結婚と同じような抽象的な人工物である。Sainsburyは「抽象的人工物説が正しいのなら、作者や読者はキャラクターについてのカテゴリーを根源的に間違っていることになるが、それはおかしい」という「カテゴリーミステイク反論」を投げかけた。この論文では、カテゴリーミステイク反論が可能世界についての議論で強すぎる効果を持ってしまうこと。また、可能世界についての代用主義を利用することで、キャラクターについてのカテゴリーミステイクなしの理解ができることを述べる。

philpapers.org

抽象的人工物説:キャラクターは「結婚」と同じような抽象的人工物として実在する
Sainsburyの反論:作者や読者は、キャラクターを抽象的人工物として扱っていない。ゆえに人工物説においては作者や読者がキャラクターについて深刻なカテゴリーミステイクをしていることになる。

 

 

抽象的対象とは?

定義①具体的存在者のように時空上の位置を持っていない。定義②因果的力能を欠いている。
具体的対象:カップ、ビッグベン、J・K・ローリング
抽象的対象:数、集合、命題、性質→これらの抽象的対象が時点tにおいて存在することはtにおいてのいかなる心的活動からも独立している

別のタイプの抽象的対象:「抽象的人工物」(ex.チェスの試合)は時間的特徴を持っている。
「サッカーの試合」「チェスの入城」「結婚」「総理大臣」「アルファベット」「名前」「音楽作品」「小説作品」などはこのタイプの抽象的対象
フィクショナル・キャラクターについての抽象的人工物説:キャラクターもこのタイプの抽象的対象

 

フィクショナルキャラクターについての非現実主義

フィクショナル・キャラクターについての非現実主義:キャラクターは可能的対象である。
 現実世界と同じような可能世界を認める場合(可能世界についての実在論)→現実世界と因果的に隔絶された無数の可能世界があるとする。キャラクターは可能世界の具体的対象として在る。
 現実世界と同じような可能世界を認めない場合(可能世界についての代用主義)→可能世界とは、世界を表象する命題のうち整合的な極大の集合だとする。キャラクターは命題の集合として抽象的に在る。
 代用主義はキャラクターについての抽象的対象説に吸収される。

カテゴリーミステイク反論

Sainsburyのカテゴリーミステイク反論:作者や読者はハリー・ポッターに「人である」という性質が例化(exemplify)しているとするが、抽象的人工物説が正しいのであれば、それらの性質は例化していない(エンコードしているだけである)。ゆえに、人工物説が正しいのであれば、作者や読者は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。
※具体的対象は性質を例化する。エンコードはしない。抽象的対象は性質をエンコードする。(JKローリングはイギリス人であるという性質を例化するが、エンコードしない。ハリー・ポッターはイギリス人であるという性質をエンコードするが、例化しない)

 

著者の主張

著者の論法:カテゴリーミステイク反論は形而上学の議論のなかであまりにも強すぎる効力を持ってしまう。
可能世界についての代用主義においては、可能的個物は抽象的対象だ。しかし、「髪をブルーに染めることもできたな」と思うとき、心の中でその対象は具体的性質を持っている。カテゴリーミステイク反論が効果的ならば、日常的な見方は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。ゆえに、代用主義は間違いだということになる。
では、可能世界についての実在論はどうかというと、これもカテゴリーミステイク反論にさらされる。もしも、「あなたは無数の可能世界が具体的にあると思っていますか?」と聞かれたら「否!!」と答えるだろう。ゆえに、日常的な見方は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。ゆえに、可能世界についての実在論は間違いだということになる。
よって、カテゴリーミステイク反論が有効であれば、可能世界について非実在論のみが残されることになる。
しかし、代用主義を独立して支持する議論がある。
私が靴下1を編んだとしよう、同じ糸巻きと編糸で、別の靴下2を編むことができたかもしれないが、編まなかった。代用主義によれば、靴下2は抽象的である(さまざまな性質をエンコードしている命題の集合である)。それらの命題は現実に存在するが、命題たちが表象しているシナリオは現実化していない。
ここで「ハリー・ポッター」に出てくるフィクショナルな靴下を考える。ハリーがしもべ妖精ドビーを解放するときに使った靴下だ。これを「ドビーソックス」と呼ぼう。代用主義においては、ドビーソックスを命題の集合とすることができる。ここで、それらの命題がドビーソックスと靴下2で全く同一だとしよう。違いは、ドビーソックス集合は「JKローリングにより創造された」という性質を例化しているが、靴下2集合は「私により創造された」という性質をエンコードしているという点だ。
このように、代用主義においては、可能的な対象とフィクショナルな対象を同列に扱うことができるのだ。代用主義はカテゴリーミステイクなしに人工物説を含意できる。

この論法に対する心配は3つある。

心配①:靴下2には代用主義における可能世界にあり、それは時間を欠いている。一方、ドビーソックスは人工物であり、時間の中にある存在だ。代用主義はそんなもの認めていいのか?
    回答①この違いを除いては、靴下2とドビーソックスは大変良く類似しているので、両者とも抽象物として扱うのが妥当。回答②オペラや小説など抽象的人工物の候補は大量にあり、抽象的人工物の否定論者は代案を出さねばならない。回答③オペラや小説などにおいては、プラトン的抽象物説よりも抽象的人工物説のほうが妥当。

心配②:キャラクターは表象のための装置ではなく、エンコードされている性質だ。一方、性質の集合は表象のための装置として使うことができるため、両者は同じものではありえない。
    この心配には簡単に返答できる。代用主義者が可能世界を命題集合と捉えるのに抵抗がないのと同じように、抽象的人工物説もキャラクターを命題集合とすることに抵抗がない。「靴下2は形やサイズをエンコードし、抽象物であることを例化する」をより正確に言うと「"靴下2"の命題集合が靴下2を表象し、靴下2は形やサイズをエンコードし、抽象物であることを例化する」である。同じように「ドビーソックスはフワフワであることをエンコードし、抽象物であることやJKローリングに作られたということを例化する」をより正確に言うと「"ドビーソックス"命題集合はドビーソックスを表象し、ドビーソックスはフワフワであることをエンコードし、抽象物であることやJKローリングに作られたということを例化する」だ。

心配③:複数の抽象的対象は質的に同じものなのか?ハリーポッターの次の巻で出てくるドビーソックスは前の巻のドビーソックスと同じものなのか?
    この心配はもっと馴染み深い抽象的対象を考えることにより解決する。ハンガリー憲法は作られた後には同一性を保持する。「ナウい」などの新語も同じように同一性を保持する。もしも法律や音楽作品などの存在を認めるのであれば、キャラクターについての存在も認めなければならないだろう。