水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

「もうこれ以上存在しない方が良い:存在し続けることの害」【Sullivan-Bissett&McGregor(2012)】

Ema Sullivan-Bissett & Rafe Mcgregor, better no longer to be - PhilPapers

 

ベネターは存在してしまうことは常に害であるとした。この論文では、もしベネターの「快楽と苦痛の欠落についての非対称性論法」と「貧しいクォリティ・オブ・ライフ論法」を受け入れるとすると、反出生主義(anti-natalism)と親自殺主義(pro-mortalism)が導き出されるとする。

ベネター自身は親-自殺主義には立っていない(存在することは害だが、存在し続けることは害とはいえないという立場)が、それは間違いだとする。

 ベネターの反-出生主義が正しいかということ自体はこの論文では触れない。

 第1節で反出生主義は「存在し始めること」だけでなく「存在すること」自体も害と見なすべきということ、第2節でベネターが「死自体が害である」ことを示すのに失敗していること、第3節で「存在し続けることの利益」で親自殺主義を反駁することは非合理性があることを示す。

 

1、反-出生主義と親-自殺主義

ベネターの反-出生主義の論法は二つある。

第1の論法が「快楽と苦痛においての、存在と欠落についての非対称性」論法である。

その論法の基本は、苦痛の非在は善いが、快楽の非在は悪いとはいえないというものだ。

このことから、世界に存在しないことより、存在することの方が悪いということが導き出せる。もし世界に存在してしまったら、苦痛も快楽もある。快楽があることは善だが、苦痛があることは悪だ。一方、世界に存在しなければ苦痛も快楽もない。苦痛がないことが善で、快楽がないことは悪ではないため、存在しないほうが善いことになる。

 

この論法は、一見すると、親-自殺主義にも使えそうだ。行為者が存在しなくなると、その結果、苦痛は消える(善)。一方で、快楽も消える(悪ではない)。ゆえに、存在しなくなるということは善いことであり、親-自殺主義が導き出される。

しかし、ベネター自身は反-出生主義は親-自殺主義を含意しないと言う。

ベネターは親-自殺主義に反対する親-生命(pro-life)論法を出している。

それは次のようなものだ「存在者は存在し続けることに利益を持つことができる。生命の価値ある存続を止めるような害は、それらの利益を無効にする」

 

ザッデウス・メッツ(Thaddeus Metz)はベネターの議論を補足して、「存在することの害」の一部分は「存在が終わること(死)」であるとする。

 

では、死はなぜ害になるのだろうか?

最初に考えられるのは、死は道具的に害であるということだ(死そのものが悪いわけではなく、他の善をなくしてしまうことにより悪い)

しかし、それだと若いうちの死は年取ってからよりもより悪いという結論になる(若いうちの死のほうが失くしてしまう可能的利益が多いため)。これはベネターの立場と合わない。

ベネターは「死はそれを望む者にとっても悪い」と発言している。これは、彼が死を単に道具的だけではなく、内在的にも悪いとしているのだろう。

もし死が内在的に悪いとすると、行為者の死は追加的な害となる。

 

ベネターの論法は、「存在すること」が害なのではなく、「存在し始めること」が害であるとする。

だが、彼はクォリティ・オブ・ライフの自己判断が過剰に楽観的となっているということについても、反-出生主義の根拠にする。

その根拠の検討はここでしないが、そのような彼の主張から、「存在をはじめること」のみならず「存在すること」自体が害であるとしたほうが整合的である。

 

ベネターは以下のような四つの主張をしている。

①いかなる生も始めるに値しない。

②人間が絶滅することは善いことである。

③他の条件が同じならば、感覚を持つ生命が長く生きることは、よりその苦痛が大きい。

④これまで、我々の生はとても悪いのだと述べてきた。その苦痛を広げないように試みるべき理由がある(それには存在の害も入る)。

これらの主張から、ベネターは存在自体も害としているといえる。

(もしも、あるものに対して、いかなる状況でも始めるべきではなく、その継続が苦痛を増やし、廃絶が求められるならば、その存在自体と存在をはじめることが両方とも害的であるのだ。)

 

このことをわかりやすくするために、タバコのアナロジーを行ってみよう。

①*:誰においてもタバコは始めるべきではない。

②*:タバコのグローバルな廃絶を求める。

③*:タバコを吸う量と害は比例する。

④*:他者がタバコを吸うことを防ぐ義務がある。

これらの主張の理由は、「タバコをはじめること」のみならず「タバコを吸うこと」自体が害であるからだろう。

ベネターの反-出生主義においては、存在をはじめることのみならず、存在すること自体が害であるといえるのだ。

おそらく、ベネターは「死そのものが害であるため、このアナロジーは成り立たない」と反論するだろう。タバコのアナロジーでは「タバコをやめること」自体が害ではないので、そうするとアナロジーは崩壊する。

しかし、続いての節で、「死そのものが害」という証明は失敗していると論証する。

 

2、反-死(anti-death)論法

 

この節では、死そのものが害ではないとするエピクロスの論法を説明する。

エピクロスは、死そのものは経験されることがないため、それは害とならないとした。「我々が在るとき、死は未だ来ていない。死が来たとき、我々はいない」

もしも、エピクロスの説を受け入れれば、死そのものは害ではない。もしも、死そのものが害ではないならば、ベネターの非対称性論法から親-自殺主義が導き出せる。

 

ベネター自身は、三つの点でエピクロス説に反対している。

第一の点は、直観を引き合いに出すことだ。もしもエピクロス説を受け入れれば、日常生活においてあまりにも多くのことを諦めなければいけない。「殺人犯は殺人によって被害者を害する」「死者の願いに対して敬意を払わなければいけない」「他の条件が同じならば、長い生の方が短い生より善い」などの立場は死そのものが害ではないとすると、諦めなければいけない。それは反直観的である。

もっとも、ベネターは直観を基にする論法が決定的なものだと考えてはいない。

しかし、ベネター版の反-出生主義と、エピクロス説は後者のほうがラディカルに反直観的だとする。「存在することは害だ」よりも「殺人者は被害者に害を与えていない」のほうが人々に受け入れられにくいだろう。

この点ではベネターは正しいかもしれないが、全体としてはおかしな論法だ。ベネターは直観論法が決定的ではないとしているのに、エピクロス説のほうが反直観的だと退けるのは解せない。

さらに、なぜ人々がエピクロス説を受け入れないかについて(エピクロス説の否定ではないやり方で)説明することができる。

デイヴィッド・スーツ(David Suits)は「より深刻な傷のほうがより大きな害があるとする。そのような心理的傾向を死にまで広げていった結果、死を最も大きな(回復不能の)傷と解釈して、それに巨大な害を当てはめてしまうのだ」としている。

 

ベネターがエピクロス説に反対する第二の点は、予防原則である。もしエピクロス説が間違っていて、人々がそれに従って行動し、自身や他者を殺したとすると、それは深刻な害となる。一方で、もしベネターの反-出生主義が間違っていて、人々がそれに従ったとしても、害を受ける者はいない。

しかし、この反論は二つの点で間違っている。一つに、もし反-出生主義の非対称性論法が間違っていたとすると、誰も害を受けないという結論にはならない。生まれなかった子供から快楽が剥奪されることは害となるのだ。ベネターは暗黙に自身の説が正しいとしてしまっている。

もう一つに、予防原則に訴えるのも、直観に依拠した論法である。

 

ベネターの第三の反論は、反-出生主義にエピクロス説を入れても、親-自殺主義は導かれないというものだ。なぜならば、もしも、死が死んだ人に害をなさないのであれば、死が死者にとって良いことをなすということはないからだ。そこから、死が何らかのものを回避させる働きはないということも言える。

ベネターが何を言っているのか理解するため、次のようなジョンの例を出そう。ジョンはいままさにトンデモなく恐ろしい拷問にさらされようとしている。ここで、ジョンが自殺すれば拷問の苦しみから避けられるという意見がある。しかし、(ベネター解釈での)エピクロス説では、死は良いことをもたらさない。ゆえに、死んでも拷問の苦しみから逃れるわけではない。

この論法はおかしい。ベネターはエピクロス説を誤読している。

反-出生主義+エピクロス説の親-自殺主義のポイントは、自殺で苦しみから逃れることによって望ましいとされる者は誰もいないということなのだ。反-出生主義において、存在を始めさせられないことによって、苦しみから逃れる者はいない、だけど、それは「生殖を中止すべきではない」ということにはつながらない。同じように、たとえある人が自殺によって苦しみから逃れられなくとも、自殺すべきではないということにはならない。「苦痛の欠如は善い、たとえ、その善さを誰も享受してなくとも」なのだ。

 

上の三つの反論では、ベネターはエピクロス説に反駁できない。

ベネターはなんとかして、死そのものが害であると立証しなければいけない。彼はある論法のヒントを挙げた。次の節では、それをもっと精密化してみる。

 

3、親-生命(pro-life)論法

 

ベネターは未来の生(「生を始めさせるか」)と現在の生(「生を続けるか」)には別のレベルにおいての判断が要請されるとしている。なぜならば、「始めるか」と「続けるか」を判断するための質の閾値は違うからだ。前者は高く、後者は低くすべきだ。

その理由として、利益(interest)が挙げられる。存在する者は存在し続けることに対して利益を持つことができる。生が存続する価値がないという主張は、その利益を毀損する。

彼は、深刻な障害の例を挙げる。胚の段階で深刻な障害が見つかれば中絶することは正しいかもしれないが、30歳で事故にあって同じような障害を受けた人が死ぬべきというのは正しくない。胚は道徳的に関連する利益を持っていないが、意識の発達とともに利益を持つのである。ベネターは、道徳的に関連した感覚のなかで存在者は、存在し続けることに対してとても強い利益を持つとする。この利益により、害を減らそうと望む道徳的行為者は、自殺にコミットしないのである。

ベネターは利益は意識の発達とともに、道徳に関連するようなものとなるとしている。その証拠を挙げていないが、それはマイナーな問題だ。

大きな問題が別にある。ベネター自身が「生への非合理的な愛」があると言っていることだ。クオリティ・オブ・ライフの自己測定は不可避的に過大評価されるという現象(ポリアンナ効果)がある。もしも、多くの人々がポリアンナ効果に陥っているとすれば、存在し続けることの利益が合理的な推定なのか怪しくなる。

タバコのアナロジーで説明しよう。ある人がタバコを30年続けていたとする。そして、科学的な知識などから、健康に悪く害が利益を上回り、止めるべきだと思うが、まだ吸い続けたいという欲求に従ってしまう。この状態は非合理的であり、止めるべきだ。たとえ、そいつがおそらく禁煙しないであろうとしても、それでも、合理的にいえば禁煙すべきだろう。

同じように、知識(ベネターの論法、ポリアンナ効果の研究)から、存在し続けることの利益よりも害が上回ると理性的に判断したとき、たとえ、存在し続けたいという欲求があったとしても、その欲求は合理的ではなく、道徳的に関連しているものではない。

ゆえに、つねに自殺にコミットするのが合理的ということになる。

 

ベネターのいくつかの文章からは、同じような結論が見られる。

彼はこう書いている「この利益(存在し続けること)は貧しいクォリティ・オブ・ライフにいつも打破されるわけではない。死はいつもベネフィットにはならない。しかし、存在し始めることの真剣な害を考えるとすると、この想定は合理的なのだろうか?ここで言えることは、死がベネフィットになるほどクォリティ・オブ・ライフが低いというのはいつもではないということだ。はたして、そんなに低いのはどのくらいなのかという問いは開かれている」

ここで、「存在し続けることは(いつもではないが)大半は深刻な害となる」という結論が含意される。

ベネターは70億人いる人間のほとんどは自殺した方が合理的だという結論を拒否するだろうが、反-出生主義を真剣に読めば、否定することはできない。

 

ここで、規範において道徳性よりも合理性のほうが引き合いに出されている。これは、伝統的な道徳と理由(reason)のカップリングによる。道徳の認知主義的理論において、道徳の基盤には合理性がある。合理的存在にとって、欲求による行為よりも合理性による行為のほうをするべきという規範だ。

ベネターの反-出生主義が正しければ、(少なくとも)弱いバージョンの親-自殺主義が正しいことになりそうだ。

反-出生主義:出産は(いつも)悪い。

親-自殺主義:自殺することは(たいていは)合理的だ。

 

4、結論

 

この論文では、最初にエピクロス説によりベネターの反-死論法が無効にされることを確認した(もし存在が害で、死が害ではないならば、親-自殺主義が導かれる)

エピクロス説に対するベネターの三つの反論は成功していない。彼は死自体が害であることを論証できていない。

ベネターの「存在し続けることへの利益」を使った親-生命論法は非合理的でないということを示すことができていない。「存在し続けることが合理的だ」と「存在し始めることは害だ」という意見は緊張関係にある。

ゆえに、ベネターの立場は親-自殺主義を含む。

もしも存在し始めることが善くないのであれば、もうこれ以上存在しないほうが善いのである。