水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

谷村省吾「一物理学者が見た哲学」の第二章を読んで、哲学的ゾンビ論法についてまとめてみた。

これまでのあらすじ


物理学者の谷村省吾先生が「一物理学者が見た哲学」という文章を公開していた。

http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html

谷村先生は『〈現在〉という謎』という本で、哲学者と対話したのだが、その対話はすれ違いに終わってしまったことを書いた文章だ。

 

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

 

 


その内容は色々であるが、わたしは、そのなかでの二章。二章のなかでも、「ゾンビ論法」の件に注目した。


谷村先生はこう書いていた。

しかし、私は繰り返し 述べているとおり、物理的に同一状態にあるものは、どのような観点から見ても同一状 態であると私は信じているので、現象ゾンビが現実に存在する可能性はゼロだと思うし、 現象ゾンビを想像して何か有意義なことがわかるとは 1 ミリグラムも思わない。

 


「意識状態は物理系の物理的状態である」とする現代物理学説は、青 山氏の概念分析では、論点先取の誤りということになるのであろうが、そういうことは クオリアが物理系の物理的状態ではない何ものかであることの片鱗でもよいから証拠 を示してから言ってほしいと物理学者たる私は思う。


これらすれ違いは、「意識は既存の物理学体系から大きく逸脱しない範囲で説明可能である」とする「物理主義」を否定する「ゾンビ論法(思考可能性論法とも)」が共有されていないという、比較的簡単な問題があると思った次第である。


そこで、わたしは、勉強を兼ねて、「ゾンビ論法」をまとめようと決意したのだった。

このエントリーでは、ゾンビ論法(思考可能性論法)を非常に簡素にまとめる。

 

ゾンビ論法

ゾンビ論法(専門的には思考可能性論法というほうが多いけどゾンビのほうがキャッチーなのでこっちの名前を使う)は哲学者のデイヴィッド・チャーマーズさんが物理主義に異議を唱えるために考え出した思考実験だ。

以下の参考文献として

Zombies (Stanford Encyclopedia of Philosophy)


「ゾンビ論法」は以下のような議論を行う。


0、物理主義の定義
ジャクソンの定義「この世界の物理的な複製はこの世界の複製ですよ」
チャーマーズの定義「この世界の性質はすべて、ミクロ物理的な性質に論理的に付随しますよ」


1、哲学的ゾンビは思考可能である
次のような存在を「哲学的ゾンビ」と定義する。
まったく同じ物理的状態にある二人の人間がいるとする。一方は意識経験(クオリア)を有しているが、もう一方は意識経験(クオリア)を有していない。後者を「哲学的ゾンビ」とする。
こいつは「思考可能」である。


「思考可能」とはどういうことであろうか? 
「Aが思考可能なのは次のとき、また次のときのみである:非Aということをア・プリオリに知ることができない」ということらしい。
では「ア・プリオリ」とはどういうことなのか? 「ア・プリオリ」とは「経験なしでわかる」ということらしい。たとえば、「独身者は結婚していない」という文は、「独身者」の意味がわかれば調査をする必要なく真だとわかる。ゆえに、「独身者は結婚している」ということを思考することは不可能である。
哲学的ゾンビは存在しない」ということは、ア・プリオリには知ることができない。ゆえに、哲学的ゾンビの存在は思考可能である。


2、思考可能性は可能性を含む:
世界についての思考可能性からは、世界のあり方の可能性(形而上学的可能性)が帰結する。
言い換えれば、ある状況が思考可能ならば、可能である。


3、1と2よりゾンビの存在は可能である。
注意点として、この節で行っていることは、「この世界に哲学的ゾンビがいるかもしれない!」という主張ではない。
「この世界と物理的に瓜二つだけど意識経験だけないゾンビ世界の存在は、(内部矛盾によって)論理的に排除されることがない」というものである。


4、ゾンビの存在が可能であれば、物理主義は偽である。


この議論で言いたいことは要するに
「物理的な事実から意識経験についての事実は論理的には出てこないよ。だから、物理的事実によって世界のすべてが決まるという物理主義は偽だよ」


注意点として、物理主義を否定するからといって、即座に霊魂の実在を支持するなどの「実体二元論」には行かないことだ(ゾンビ論法を支持する哲学者でも、実体二元論を支持する人はかなり少ないと思われる)。たとえば、この論法の提唱者のデイヴィッド・チャーマーズは「世界の構成要素には物理的性質と意識経験的性質(現象的性質)がある」という「性質二元論(中性的一元論)」を唱えている。
チャーマーズは現在の物理学を根底から覆そうとしているのではなく、意識経験の存在を物理学の基礎的な概念と考えて、新しく「精神物理法則」を考えようという、広い意味での自然主義の立場に立っている。

 

意識する心―脳と精神の根本理論を求めて

意識する心―脳と精神の根本理論を求めて

 

 


チャーマーズの立場を支持する科学者として、脳神経学者の渡辺 正峰先生がいる。
(この本に書いてあった)

 

 


また、ジュリオ・トノーニという科学者が唱えている「意識の統合情報理論」はチャルマーズと立場を同じくしているという指摘もある。

 

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

 

 
物理主義者の反論


反論A:哲学的ゾンビの存在を思考することはできない。(1を攻撃する)


ダニエル・デネットは「哲学的ゾンビが思考可能だって言うけど、実際は十分なイメージをしてないじゃん」とか「哲学的ゾンビという概念はよくよく考えると矛盾してるよ」と言っているらしい。


反論B:思考可能だからといって、可能であるわけではない(②を攻撃する)


「経験的探求の結果、意識経験は必然的に物理的であることがわかる」とする反論。
クリプキという哲学者の「アポステリオリで必然的に真」という概念を使っている反論らしい。
「ア・ポステリオリ」とは「経験的に」という意味。
たとえば、「水はH2Oだ」という命題はア・プリオリに真ではないが、経験的探求の結果、真だということがわかった。
水がH2Oだとわかったため、「水はXYZ(という化学式で表される水にそっくりな液体)である」という命題は必然的に偽であることになる(すなわち、そういう可能性はなくなる)
なぜならば、「この地球にそっくりで海や川にはXYZが流れている」という世界があることは可能であるが、その世界にあるXYZは水ではないからだ。
同じように、意識経験が何らかの物理的なものだと、経験的に判明すると、「ゾンビが存在する」という命題は必然的に偽であることになる(すなわち、ゾンビの可能性はなくなる)


この反論に対して、チャーマーズは「二次元意味論」というものを使って再反論しているらしい。
短くまとめると
『水』っていう語は「無色透明で海や川を流れて飲めるなどなどの液体」という意味と「H2O」という意味の2つがあるじゃんけ、「H2OはXYZ」という命題は思考不可能でかつ(形而上学的に)不可能な状況だけど、「無色透明で(略)液体はXYZである」という命題は思考可能でかつ可能な状況だよ!
というものらしい。