水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

プロフィール

Profile

草野原々(くさの げんげん)

日本のSF作家。現在、札幌市在住。ときどき横浜市にもいる。

1990年 広島県東広島市生まれ。北海道大学理学院博士課程在籍。

日本SF作家クラブ所属。

 

連絡先

Twitter @The_Gen_Gen

ブログ http://the-yog-yog.hatenablog.com/

カクヨム https://kakuyomu.jp/users/The_Yog_Yog

お仕事のご依頼は

theyogsototh★gmail.com

まで(★を@に変えてください)。

 

これまでの活動

受賞歴

・「最後にして最初のアイドル」にて第4回ハヤカワSFコンテスト特別賞第48回星雲賞日本短編部門第16回センス・オブ・ジェンダー賞〈未来にはばたけアイドル賞〉を受賞。

第27回暗黒星雲賞ゲスト部門受賞

  

小説

・「最後にして最初のアイドル」:早川書房オリジナル電子書籍、2016年11月配信

 

最後にして最初のアイドル【短篇版】

最後にして最初のアイドル【短篇版】

 

 

 『伊藤計劃トリビュート 2』早川書房編集部編、ハヤカワ文庫JA、2017年1月発行 収録

 

伊藤計劃トリビュート2 (ハヤカワ文庫JA)

伊藤計劃トリビュート2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

・「エヴォリューションがーるず」: 早川書房オリジナル電子書籍、2017年7月31日配信

 

エヴォリューションがーるず

エヴォリューションがーるず

 

 

・『最後にして最初のアイドル』 ハヤカワ文庫JA、2018年1月

 

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

エッセイ等

・「草野原々インタビュウ」 - 『S-Fマガジン』2016年12月号 収録

・「Oh ! マイアイドル」 - 『小説すばる』2017年2月号 寄稿

・「『けものフレンズ』はなぜSFとして「すっごーい!」のか」 - 『S-Fマガジン』cakes版(Web上)2017年2月17日 寄稿

・「塾員クロスロード」 - 『三田評論』2017年5月号 寄稿

・「『最後にして最初のアイドル』星雲賞受賞記念インタビュウ」 - 『S-Fマガジン』cakes版(Web上)2017年7月22日 寄稿

・「SF映画総解説 ホーリー・マウンテン」- 『S-Fマガジン』2017年10月号収録

・「書評| 久木田水生、神崎宣次、佐々木拓 著 『ロボットからの倫理学入門』」 - 『応用倫理』第10号(北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター、2017年11月30日)

・「『ブラック★ロックシューター』から読み解く情動の哲学と人生の価値」- 『ユリイカ2018年3月臨時増刊号 総特集=岡田麿里』(青土社、2018年2月26日)

 

 

講演等

・「けものフレンズはSFなのです なのです」- 『はるこん』2017年4月23日

・「げんげんの『ラブライブ!トーク」 - 『ドンブラコンLL』2017年8月27日

その他の賃金が発生しない活動

・存在する(継続中)

『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』で大流行!最近話題の概念「ワイドスクリーンバロック」ってなに!?

 

現在絶賛公開中のアニメ映画『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト

 


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では、物語のキーワードとして「ワイルドスクリーンバロックというものが多用されています。

 

「ワイルドスクリーンバロック」の元ネタは、おそらくSFのサブジャンルワイドスクリーンバロックでしょう。

この記事では「ワイドスクリーンバロック」とは何かをサーベイして、はたして『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』が「ワイドスクリーンバロック」なのかを考えたいと思います。

【簡単な要約】:「ワイドスクリーンバロック」のもともとの意味は規模が大きくてハチャメチャなスペースオペラくらいの意味合いだったが、日本に輸出されたことで意味合いが変わりアイデアがすごくたくさん出てくるSFくらいの意味になった。『劇場版レヴュスタ』は前者の意味合いには当てはまらないが後者には当てはまるかもしれない。

 

ワイドスクリーンバロック」の起源

はじめて、「ワイドスクリーンバロック」(Wide-screen baroque)という言葉が使われたのは、1964年でした。

この用語の考案者は、イギリスのSF作家・SF評論家のブライアン・オールディス(1925~2017)。アメリカのSF作家、チャールズ・L・ハーネス(1915~2005)が書いた長編小説『パラドックス・メン』を称賛するために、その序文に自らの造語として書いたのでした。

 

つまり、「ワイドスクリーンバロック」とは、もともとは『パラドックス・メン』という特定の作品を言い表すために作られた用語だったのですね。 

翻訳版訳者あとがきからの孫引き引用になりますが、そのオールディスの文章は以下のようなものとなります。

こうした純粋なSFは、ワイドスクリーン・バロックとしてカテゴライズできるかもしれない。プロットは精妙で、たいてい途方もない。登場人物は名前が短く、寿命も短い。可能なことと同じくらいやすやすと不可能なことをやってのける。それらはバロックの辞書的な定義にしたがう。つまり、すばらしい文体(スタイル)よりはむしろ大胆で生き生きとした文体をそなえ、風変わりで、ときにはやり過ぎなところまで爛熟する。ワイドスクリーンを好み、宇宙旅行と、できれば時間旅行を小道具としてそなえており、舞台として、すくなくとも太陽系ひとつくらいは丸ごと使う。(『パラドックス・メン』p333より引用、中村融訳)

のちに、オールディスは著書『十億年の宴』(1973年刊行)に次のようなことを書いています。

私自身の好みは、ハーネスの『パラドックス・メン』である。この長編は、十億年の宴のクライマックスと見なしうるかもしれない。それは時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛び回る。機知に富み、深遠であると同時に軽薄なこの小説は、模倣者の大軍がとうてい模倣できないほど手ごわい代物であることを実証した。この長編のイギリス版に寄せた序文で、私はそれは《ワイド・スクリーン・バロック》と呼んだ。これとおなじカテゴリーに属する小説には、E・E・スミスA・E・ヴァン・ヴォークト、そしておそらくはアルフレッド・ベスタ―の作品が挙げられよう。(『十億年の宴』p305~306より、浅倉久志訳)

 

 オールディスが挙げた作家は以下の三人です。

E・E・スミス(1890~1965)は〈レンズマン〉シリーズ・〈スカイラーク〉シリーズで恒星規模の破壊をやすやすとこなす宇宙戦争など、これまでとは桁違いの規模のSFを作り出しました。

 

 A・E・ヴァン・ヴォークト(1912~2000)は、『非Aの世界』『非Aの傀儡』で、当時流行していた哲学思想「一般意味論」を応用したスーパーヒーローを描きました。そのヒーローは「一般意味論」を使うことによって超能力に目覚め、銀河系規模の陰謀から地球を救うために戦うことになります。

 

 アルフレッド・ベスタ―(1913~1987)は、『分解された男(破壊された男)』にて、他者の心を読むテレパス能力者が出現したことにより、犯罪が不可能になった未来社会を描きました。『虎よ、虎よ!』では、全人類がテレポーテーション能力を取得したことによって、太陽系の隅々にまで一瞬でいけるようになった未来社会を描きました。『コンピュータ・コネクション』では、宇宙のかなたから帰還して両性具有となった元宇宙飛行士の超人類を支援するために天才博士と一体化した神のごときコンピュータが出現しますが、不死のネアンデルタール人に殴られて壊されます。

 

 

 

 

 

上記の作家を見る限り、オールディスが「ワイドスクリーンバロック」という言葉で表したのは、「スペースオペラ(宇宙冒険・宇宙戦争などをテーマにしてヒーローが活躍するSFサブジャンル、物語や演出を優先してリアリティや科学的整合性を無視することが多い)」のなかのさらなる作品群であると思われます。 

事実、文学研究者のジェローム・ウィンターは"Wide-Screen Baroque Revisited"(2016)で次のように書いています。

ブライアン・オールディスは『十億年の宴』(1973年)の中で、E・E・スミスA・E・ヴァン・ヴォークトがSFというジャンルに与えた影響を論じる際に、「ワイドスクリーン・バロック」という言葉を初めて使った。オールディスのこのフレーズは、発展するサブジャンルとしてのスペース・オペラの現代的理解に深く絡みついている。言うならば、よく引用されるこのフレーズは、小説や映画のコンベンション(訳者注:ファン大会)やそこでの会話においてのスペースオペラについての議論に対する、オールディス固有の「ニューウェーブ」的介入を表しているのだ。おそらくオールディスは、ウィルソン'ボブ'タッカーが1941年頃にスペースオペラを "ギーギー鳴っている、悪臭を放つ、時代遅れの、宇宙船ほら話"と酷評したことから、スペースオペラを救い出そうとしているのかもしれない。(以下のホームページより引用、2021年6月23日閲覧、拙訳、傍線は引用者による)

Wide-Screen Baroque Revisited | UWP

ここでまだ重要な用語が出てきました。「ニュー・ウェーブ」です。

「ニュー・ウェーブ」とは、1960年代~1970年代に起こった、SF作品に文学的・実験的な要素を入れようとするSF作家・評論家の(主に英語圏で起こった)運動のことです。ワイドスクリーンバロック」という概念は、この「ニュー・ウェーブ」運動のさなかに遡及的に唱えられたものでした。そもそも、『パラドックス・メン』の初版(題名は『昨日への飛行』)は1953年に刊行されています。オールディスが序文を書いたのは、いったん絶版になったあと再刊されたものだったのです。オールディスを中心とした「ニュー・ウェーブ」運動の推進者たちが、過去に目を向けた結果「時代遅れだと思われてたスペース・オペラのなかにも、こんなすごい作品があるぞ!」と『パラドックス・メン』に代表される作品を持ち上げるために作り出されたカテゴリーが「ワイドスクリーンバロック」だったというわけです。(〈レンズマン〉シリーズの第一作刊行は1937年、『非Aの世界』の刊行は1948年、『分解された男』の刊行は1953年で、「ワイドスクリーンバロック」がはじめて唱えられた1964年から見て一昔前の作品たちでした)

 

ワイドスクリーンバロック」の日本への輸出と意味の変容

 

その後、「ワイドスクリーンバロック」という用語は日本SF界に輸出されて、さまざまな作品を言い表す言葉として使われました。その過程で、オールディスの使用法から、微妙に意味が変容していきます。

クリス・ボイス(1943~1999)の『キャッチワールド』(日本での刊行は1981年)の解説において作家・翻訳家の安田均さんはこう書いています。

(前略)登場人物はいちおうの性格づけを与えられるものの、ほとんど性格描写はされず、ただ作者の筆に操られるまま巨大なゲームの駒として動いていく。さらに、冒頭第二章、未来の日本の説明にみられるグロテスクな異国情緒(作者は日本の現状をかなり知っていて歪曲した節がある)をはじめとして、さまざまな箇所で見受けられるアクの強さ。ここまで書くと、この作品があるSFのタイプを完全に目標としていることに気がつかれるだろう。

そう、ワイドスクリーンバロックである。(『キャッチワールド』p370より引用)

この文章は「ワイドスクリーンバロック」という言葉が日本に入ってきたときの印象を記録しています。翻訳版の『十億年の宴』は1980年に刊行されたため、まさに、当時はこの言葉が日本に現れた直後でした。

さらに、安田は作者であるクリス・ボイスを紹介するとき、ある重大な示唆を行いました。

(前略)実質的に認められたのは何といっても本書であり、これで彼(引用者注:クリス・ボイス)は最近のイギリスのSFに顕著な”アイデア派””観念派”の一員として見られることになった。この派には、他に、バリントン・J・ベイリーイアン・ワトスンといったいずれも七〇年代に頭角を現した作家が属す。彼らの作品の特徴となるのは、小説のアイデア部分に異常なほどの力を注ぎ、つぎつぎにくりだされる(ときには未整理なほどの)アイデアの奔流によって、一種の”めまい”とも呼べる効果を導きだすといった点だろう。これは一方で、マイクル・コニイ、リチャード・カウパークリストファー・プリーストといった小説のスタイルに重点をおく作家群と対置されながら、現在のイギリスSFの活況を担っているといえる。(『キャッチワールド』p371-372より引用)

オールディスのもともとの文章が「舞台の規模」「プロットの精妙さ」「機知、深遠と軽薄の合流」を強調していたのに対して、『キャッチワールド』解説では、「アイデアの奔流によるめまい」が強調されています。

さらに、二つ目の引用文を読むと、クリス・ボイスはイギリスにおける「アイデア派」に属す作家とされていることがわかります。

 

 

この「アイデア派」とは、70年代のイギリスSF界で起こった作家同士の論争に起因するものでした。このことは、残っている資料があまりなかったので、わたし自身もよく知らないのですが、1976年刊行の『ファウンデーション誌』にイアン・ワトスン(1943~)とクリストファー・プリースト(1943~)が”Science Fiction: Form versus Content”というタイトルでエッセイを書いているようです。これが発端になったのかもしれません。

Title: Science Fiction: Form versus Content

また、1978年に刊行されたアンソロジー『アンティシペイション』では、クリストファー・プリーストイアン・ワトスンを紹介するときに、次のような序文を書いています。

イアン・ワトスン。わたしとワトスンはしばしばお互いをよき論敵とみなしあっているし(たとえば、この序文でわたしが書いてきたことの大半に彼は同意しないだろう)、創作のアプローチはまったく違っている。にもかかわらず、わたしは彼の作品の多くを高く評価している。(『アンティシペイション』p10より引用、安田均訳)

 

 1981年に行われたイアン・ワトスンへのインタビューでは、次のように語られています。

ラングフォード(注:インタビュアー):クリス・プリーストとあなたは、SFへのアプローチについて熱い議論を交わしてきました。私らしい粗雑な表現でまとめると、「教訓(教育)Didacticのワトソン」対「美学Aestheticのプリースト」ということになります。"どちらかが先行するのではなく、美学が十分に発揮されれば、いつでも教訓的なものを打ち負かすことができる!」と『ファウンデーション10』でクリスは言っていました。その段階の議論から5年経った今、あなたには立場がどのように見えますか?

ワトソン:確かに、当時の共同編集者である私たちは、活発な議論をするために始めました。教訓対美学の件は、根底にある政治的な偏見が隠されています。それは、リーズ大会で、SFは運動を支援すべきかどうかという議論の中表面化しました。私の親愛なる誤った友人クリスが、イギリスは占領された国(アメリカに占領された国)であり、たとえその結果、私たち全員が放射性の塵に吹き飛ばされたとしても、これを変えるために何かをしようとすることはできないし、すべきではないと宣言したのです。これは、自律的であるはずの美的スタンスの破綻です。彼がStatus Quoというバンドを好きなのもうなずけます。

ラングフォード :痛い。後期ハインラインのような教訓的な作家が単なる美学者の左に位置していることを示唆しているのではなく、哀れな老クリスに対するただの悪口であることを願っています....

Ian Watson Interview (1981)より引用、2021年6月23日閲覧、拙訳)

 

面白いことに、本来は直接関係なかったはずのワトスン対プリースト論争と、「ワイドスクリーンバロック」が、日本においては関連づけられて語られるようになったのです。

それにより、本来ワイドスクリーンバロックの母体であったはずのニューウェーブ運動と切り離されて考えられるようにもなりました(ワトスンはニューウェーブ運動に批判的でもありました)。

こうして、日本SF界においては「ワイドスクリーンバロック」の中核に「アイデアの奔流」を置く理解が広まりました。

そして、その代表作家として目されたのが、イギリスのSF作家、バリントン・J・ベイリー(1937~2008)です。

1983年に日本で翻訳版が刊行されたバリントン・J・ベイリーの『カエアンの聖衣』の解説で、SF評論家・翻訳家の大野万紀さんは次のように書いています。

(前略)科学用語や擬似科学的論理は山ほど出てくるのだが、ハードSFとは違い、よく読めば矛盾がいっぱいだ。ところが読んでいる間、こういったことはまったく気にならない。デタラメだろうがインチキだろうが、ひどくぬけぬけと語られ、しかも物語の中ではそれで当然だと思えてくるから不思議だ。

 こういう種類のSFを、ふつう〝ワイドスクリーン・バロック〝と呼ぶ。ブライアン・オールディスが『十億年の宴』で使ったことばだが、スペース・オペラの奔放さと雄大さを受け継ぎつつ、観念性と軽薄さを同時に武器とするような離れ業をみせる。ひとつひとつじっくりと味わう間もないほど、これでもかこれでもかと詰め込まれたアイデアの、めまいを起こしそうな密度の濃さ。それを柔らげるコミカルなユーモア感覚と、どこまでも広がっていく気の遠くなりそうなスケールの大きさ。無限の時間と空間。個々の人間ではなく、文明や種族のレベルで語られる観念的な物語。何重にも入り組んだプロット。めくるめくセンス・オブ・ワンダー。こういったすべてをひっくるめて、意識の拡大という、SFの重要な特質が効果を発揮するのだ。ハードSFが論理(ロジック)に重点を置き、文学的SFが文体(スタイル)に重点を置くところを、ワイドスクリーン・バロックは観念(アイデア)に重点を置くのである。そして、それこそが、最もSFらしいSFであり、SFファンが最も魅惑的だと感じる形式――そしてSFファン以外の読者にとまどいを感じさせる形式――であると断定しても、おそらく間違ってはいないだろう。(「カエアンの聖衣」解説 より引用、傍線は引用者による、2021年6月23日閲覧)

 

 

 

この解説でも、ワイドスクリーンバロックの特徴が「アイデア」にあるとされています。

このように、バリントン・J・ベイリーワイドスクリーンバロックの中核的作家とされるのは、おそらく日本SF界においての独特な見解でしょう。

たとえば、Science Fiction EncyclopediaのWidescreen Baroqueの項目には、ベイリーは載っていません。むしろ、イアン・バンクススティーヴン・バクスター、ジョン・C・ライトなどの「ニュースペースオペラ(科学的知識や説得力のあるテクノロジーに基礎を置き、遠未来を舞台にし、よりリアリティを追及したスペースオペラ。1990年代~2000年代にかけて多くの作品が書かれる)」に分類される作家たちが入っています。(日本SF作家の大原まり子さんも掲載されています)

Themes : Widescreen Baroque : SFE : Science Fiction Encyclopedia

(2021年6月23日閲覧)

 

 

 

 

 

 

 

 ※ベイリーの小説は、現在では電子版もあり、かなり手に入りやすくなっています。(以下電子版がある作品)

 

 

 

 

 

 

日本SFにおいての「ワイドスクリーンバロック」の影響

 

バリントン・J・ベイリーを中核作家に置き、「アイデアの奔流」「アイデアによるめまい」を特徴にするという、日本SF界にて独特の把握をされた「派生的ワイドスクリーンバロック」は、やがて、独自の影響力を持ち始めます。

そのような「ワイドスクリーンバロック」にもっとも大きな影響を受けた一人として、劇作家・脚本家の中島かずきさんが挙げられるでしょう。

新訳版の『カエアンの聖衣』の解説にて、中島さんは次のように書いています。

それまでモヤモヤとしていたやりたいことが、ワイドスクリーン・バロックに出会って「これだよ、おれのやりたいのはこういうことなんだ」とイメージできたのだ。中核になるアイデアを軸に、まわりに付帯的なアイデアをちりばめためまいがするような大法螺話。舞台なのでなかなか宇宙的なスケールまではいけないが、自分なりにワイドスクリーン・バロック的手法で書いていこう。SFとしての定義は違うのはわかっているが、作劇術としてのワイドスクリーン・バロック。それをやっていこう。(『カエアンの聖衣〔新訳版〕』、電子版より引用)

こうして、作られたのが、アニメ「天元突破グレンラガン」(2007)と「キルラキル」(2013)でした(「キルラキル」は『カエアンの聖衣』の直接的影響があります)。

天元突破グレンラガン』で、今石洋之監督の「ドリルをテーマに26話のアニメがやりたい」という無茶ぶりに「ドリル=螺旋力」と読み替えて、一人の男の成長と、生命の進化と宇宙創成の二つをテーマに描くと決めたとき「これで本気でワイドスクリーン・バロックがやれる」と一人ほくそ笑んだものだ。(『カエアンの聖衣〔新訳版〕』電子版より引用)

 

打ち合わせのなかで「女子高生が特殊な能力を持つ制服を着て戦う」というアイデアで落ち着きそうになった時、これはもう『カエアンの聖衣』は避けられないと腹をくくった。(『カエアンの聖衣〔新訳版〕』電子版より引用)

 また、わたくし(草野原々)もバリントン・J・ベイリー型のワイドスクリーンバロックに影響を受けた一人です。

短編集『最後にして最初のアイドル』収録の「暗黒声優」は、どんどん規模が巨大化するスペースオペラでもありますので、オールディス型のオリジナル・ワイドスクリーンバロックにも適合する作品でしょう。

 

 そのほかにも、長編の前後編となる『大進化どうぶつデスゲーム』と『大絶滅恐竜タイムウォーズ』もベイリー型ワイドスクリーンバロックの影響下にあります。(特に後編の『タイムウォーズ』のほうは、アイデアの奔流を作り出すことを意識しました)

 

 

 

 

『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』は「ワイドスクリーンバロック」なのか?

『レヴュースタァライト』に「ワイドスクリーンバロック」をもじった「ワイルドスクリーンバロック」という言葉が使われているのは、もともとのオールディスから、ベイリーへ、そして中島かずきさんへという系譜が背景があると思われます。

では、ひるがえって、『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』はワイドスクリーンバロックなのでしょうか?

オールディスが唱えたオリジナルの意味合いのワイドスクリーンバロックとはいえないでしょう。『レヴュースタァライト』はスペースオペラではなく、舞台も太陽系サイズではありません。

しかし、ベイリーを中核とした、「アイデアの奔流とめまい」によって特徴づけられる、派生的意味でのワイドスクリーンバロックとしては合致するといえそうです。

さらには、中島かずきさんの言う「作劇術としてのワイドスクリーンバロック」として、大きくあてはまりそうです。

そしてなにより、『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』は、ワイドスクリーンバロックの母体となったニューウェーブ運動の精神と共鳴しているでしょう。ニューウェーブ運動の提唱者である、J・G・バラード(1930~2009)はエッセイ「内宇宙への道はどちらか?」で、追及するべきなのは外宇宙ではなく内宇宙であるとしました(原文手元にないので引用できません。すいません……)。登場人物の精神を詩的映像でひたすら描いていく『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』はまさにここにあてはまるものといえるでしょう(バラードは時系列を破壊する作品や砂漠の描写をよく書いていた点も似ています)。

 

 

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おまけ:ワイドスクリーンバロックを感じた最近のアニメ作品


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正解するカド」:上位次元人とのファーストコンタクトという近年のアニメでは珍しいテーマを扱っているSFアニメ。中盤からの脱線的超展開と、終盤にかけての規模の拡大および強引すぎる身も蓋もない終わらせ方は、ヴァン=ヴォークト的な古典的ワイドスクリーンバロックを彷彿とさせる。


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「ゲキドル」:『劇場版レヴュースタァライト』と平行して見るべき作品。奇しくも『劇場版』と同じ2021年に放送された。こちらも、演劇をテーマとしているが、レヴュスタとはまた違う視野から描いている。

エピソードが進展するにつれて指数関数的なスケールの拡大を経て、最終話ではとんでもないところにつれてかれる、まさに「めまい」を起こすワイドスクリーンバロック

フルタイム作家としての目標設定

 

要約:草野原々の具体的目標は「年間三冊をコンスタントに刊行」(補助的具体的目標は「ハヤカワSFコンテスト出身作家で一番多作になる」)。抽象的目標は「多創多想多層多奏」である。


わたしは大学院を自主退学(退院)し、フルタイム作家となった。
この文章は、作家としての目標を宣言したものだ。
やはり、作家としては、目標があったほうがいろいろと頑張れると考えたのだ。
そして、その目標を公開して、広く共有したほうが、目標達成に近づくと判断した。
これを読んだみなさんは、ぜひとも草野原々の目標達成に協力してほしい。(もちろん、草野原々の目標達成を阻止しようとしてもよい。好きなほうを選んでくれ)

では、どのような目標を設定するのが効果的だろうか?
とりあえず、達成したかどうか検証できる具体的目標と、それを支える理念である抽象的目標の二段構えにするのが、効果的だろうと思われる。

 

 

 

具体的目標

具体的目標は、「一年間に三冊のペースでコンスタントに作品を刊行する」というものだ。

「刊行冊数」を目標にするのは、それが予測・計測しやすく、達成しやすい目標であるからだ。

「読者数」「評価数」「重版数」「賞獲得数」「印税額」などの他の具体的目標は、どのように行動すればよいのかの指針をあまり与えてくれない。時の運に左右され、事前に予測するのは困難である。これらの数値はあまり考えないほうがよいだろう。
また、「執筆総文字数」「総ページ数」などは数えるのがめんどうであるため目標基準に向いていないと判断した。

「刊行冊数」を目標とすることは、「作品の質」よりも「量」を重視するということであるが、これには理由がある。
まず、「質」を高めるにはどうすればよいのやらサッパリ見当がつかない。対して、「量」を増やす方法はある程度はわかる。目標である以上は、ある程度の指針を与えてくれるものがよい。
また、刊行冊数を増やすことで、ある程度の質を確保することは可能ではないかと考えた。コンスタントに作品を刊行するためには、編集部のチェックを通らなければならない。この関門によりある一定の質が確保されることだろう。数多くの作品を書くにつれてよりよい作品が書けるようになるという可能性もないわけでない。
そして、下手な小説には下手な小説なりの「魅力」や「味」があるという可能性も残っている。もし、ヘナチョコ小説をたくさん書いたとして、そこにある種の面白さが宿るという事例がまったく考えられないとまではいえないだろう。下手なうちにたくさん書いておけば、そのようなヘナチョコ面白い小説がたくさんできるかもしれない。
ゆえに、「刊行冊数」を具体的目標とするのだ。

「量」を目標とする以上、「大作」は諦めなければいけないのではないか? という疑念があるかもしれない。「多作」と「大作」の間にはある程度トレードオフがあるだろう。とりあえず、あと3〜5年は多作志向として活動して、その期間を「修行期間」として、それから徐々に「大作志向」にシフトしていこうと計画している。
「一年間に三冊のペース」という数値にするのは、それがギリギリ達成可能な範囲であるからだ。
わたしの執筆スピードから考えて、おそらくそれくらいが妥当な範囲である……ということは前提として、そもそも、本を出すためには出版社で企画が通らねばならないのだ。企画通過の頻度やスピードを考えて、いまのところそれくらいが上限であろう。

この具体的目標を達成するための下位目標をどう設定すればよいだろうか?
具体的な日々の執筆目標は未来のわたしに任せるにして、ここではあいまいに考えてみよう。
まずは、気分的な問題だ。スランプに落ちるのを避けよう。自身を省みて、けっこうスランプに落ちやすいという事実がある。
どうすればスランプを避けることができるのか? これまた難しい問題だが、自分にプレッシャーをかけすぎるのはいけないだろう。スランプは「書くのが怖い」状態のことが多くあり、これは過大なプレッシャーがかかることから起きる現象かもしれない。

事前に書くものを規定しすぎると「書けなく」なってしまうかもしれない。まったく全然これっぽっちも面白くない大愚作・超駄作でも、刊行することができるかもしれない。「傑作を書く」「売れるものを書く」「特定のジャンルを書く」など事前に規定し続けるのは危険かもしれない。
「とりあえず書いてみる」という方法も有益だろう。文章を書いていたら、なんだかわからないけれど「波に乗れる」ときもあるのだ。

刊行した作品にこだわりすぎるのも、目標達成に効果的ではない。もしも評判が悪くても(良くても)、それは過去のものとして、未来に書くものとは関係ないとするほうがよいのかもしれない。

もちろん、スランプになるならスランプになってもよいのかもしれない。スランプというプロセスを経て、なにかものすごいものが出てくるということもあるのだ。

つぎに、スケジューリングや編集者とのコネクションなどの外部的な問題がある。
具体的スケジュールを設定しておくのは大事だ。締め切りがないと、構想段階で延々と考えてしまい執筆に手がつけられなくなり、ついにはよくわからなくなるという事例がある。具体的なスケジュールを設定せずとも、編集者との会話で「こういうものがやりたい」と伝えることも効果的だろう。一方で、編集者とのコミュニケーションがうまくいっているのかどうか不安になることもあるのだが、それを解決する効果的な方法がない以上、編集者を信じるしかない。

 

その他の具体的目標

「年間三冊刊行」という目標は、草野原々の内で完結したものだったが、もっと外とつながる形の具体的目標として
「ハヤカワSFコンテストデビュー作家で一番多作になる」
というものがある。

ライヴァルを設定することで、草野原々をより鼓舞させるという方法論だ。

現在(二〇二一年四月)のデータでいえば、ハヤカワSFコンテストでデビューした作家のうち、草野原々は刊行冊数四冊で刊行冊数ランキングでは二位である。一位は十冊の柴田勝家殿なので、殿を先輩ライヴァルと位置づけてその背中を追いかけて、ゆくゆくはハヤカワSFコンテスト出身作家のモデルケースとなるという方向性を示す目標だ。

内的に完結した目標では燃え尽きてしまう可能性もあることから、こちらの目標も逐次意識しながらモティベーションを高めるのも、効果があるだろう。

だが、この目標はかなり難易度は高い(大幅なリードがある上に、勝家殿は筆がはやいのだ)、あくまで補助的な目標として取り扱った方が良いだろう。

 

抽象的目標

 具体的目標を支えるための、理念的な抽象的目標を考えるのは役に立つだろう。
 原々は、抽象的目標を「多創多想多層多奏」というモットーにすると決めたのであった。
 
 「多創」とは、作品をたくさん作る(量)のと同時に、いろいろな種類の作品を作ること(多様さ)である。
 「多想」とは、小説のなかで描くアイディアをたくさん思いつくことである。
 「多層」とは、アイディアを単一の小説内で完結させずに、時間的経過により発展・展開させることである。地層のように、アイディアにもいくつもの「層」を作る。
 「多奏」とは、小説のなかで、複数のアイディアをかみ合わせ、ハーモニーあるいは不協和音を奏でることである。特に長編の場合、単独のアイディアで駆動するのではなく、絶対に交差しないと思われていた複数のアイディアが出会い、思わぬ音が奏でられたらうれしい。
 
 「年間三冊以上をコンスタントに刊行」という具体的目標を達成することは、「多創多想多層多奏」という抽象的目標を達成する役に立つ。
 その理由として
 ①単純に出力を多くすること、また様々なジャンルを書こうと考えること(「多創」)で、トライ&エラーの回数を増加させ、アイディア空間のなかの検索回数と範囲を多く・大きくした結果、思いつくアイディアは多くなり(「多想」)、すでに使ったアイディアをさらに吟味することで発展させ(「多層」)、アイディアの組み合わせ数も多くなる(「多奏」)。
 ②年間三冊を刊行するためには、複数の出版社を渡り歩く必要がある。それぞれ違った編集者と相互作用することになり、環境の違いは異なったアイディアを生み出す。
 ③場数を踏むことで、「書くことの怖さ」が少なくなり、スランプに陥るのを回避できるようになる。その結果、たくさんのものを書くようになる。
 ④たくさんの作品が出るということは、わたしを見つけてくれる人が多くなるということだ。結果、与えられるチャンスが増加し、さらにたくさんの作品を書くことができる。正のフィードバックが働く。
 
 ということで、「年間三冊をコンスタントに刊行」と「多創多想多層多奏」を目標にして、フルタイム作家をやっていこうと思う。
 やがては、小説だけではなく、映像作品や演劇脚本、漫画原作、ゲームシナリオなど多媒体で活動したい(活動するであろう)。
 みなさん応援してね!
 
 

谷村省吾「一物理学者が見た哲学」の第二章を読んで、哲学的ゾンビ論法についてまとめてみた。

これまでのあらすじ


物理学者の谷村省吾先生が「一物理学者が見た哲学」という文章を公開していた。

http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html

谷村先生は『〈現在〉という謎』という本で、哲学者と対話したのだが、その対話はすれ違いに終わってしまったことを書いた文章だ。

 

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

 

 


その内容は色々であるが、わたしは、そのなかでの二章。二章のなかでも、「ゾンビ論法」の件に注目した。


谷村先生はこう書いていた。

しかし、私は繰り返し 述べているとおり、物理的に同一状態にあるものは、どのような観点から見ても同一状 態であると私は信じているので、現象ゾンビが現実に存在する可能性はゼロだと思うし、 現象ゾンビを想像して何か有意義なことがわかるとは 1 ミリグラムも思わない。

 


「意識状態は物理系の物理的状態である」とする現代物理学説は、青 山氏の概念分析では、論点先取の誤りということになるのであろうが、そういうことは クオリアが物理系の物理的状態ではない何ものかであることの片鱗でもよいから証拠 を示してから言ってほしいと物理学者たる私は思う。


これらすれ違いは、「意識は既存の物理学体系から大きく逸脱しない範囲で説明可能である」とする「物理主義」を否定する「ゾンビ論法(思考可能性論法とも)」が共有されていないという、比較的簡単な問題があると思った次第である。


そこで、わたしは、勉強を兼ねて、「ゾンビ論法」をまとめようと決意したのだった。

このエントリーでは、ゾンビ論法(思考可能性論法)を非常に簡素にまとめる。

 

ゾンビ論法

ゾンビ論法(専門的には思考可能性論法というほうが多いけどゾンビのほうがキャッチーなのでこっちの名前を使う)は哲学者のデイヴィッド・チャーマーズさんが物理主義に異議を唱えるために考え出した思考実験だ。

以下の参考文献として

Zombies (Stanford Encyclopedia of Philosophy)


「ゾンビ論法」は以下のような議論を行う。


0、物理主義の定義
ジャクソンの定義「この世界の物理的な複製はこの世界の複製ですよ」
チャーマーズの定義「この世界の性質はすべて、ミクロ物理的な性質に論理的に付随しますよ」


1、哲学的ゾンビは思考可能である
次のような存在を「哲学的ゾンビ」と定義する。
まったく同じ物理的状態にある二人の人間がいるとする。一方は意識経験(クオリア)を有しているが、もう一方は意識経験(クオリア)を有していない。後者を「哲学的ゾンビ」とする。
こいつは「思考可能」である。


「思考可能」とはどういうことであろうか? 
「Aが思考可能なのは次のとき、また次のときのみである:非Aということをア・プリオリに知ることができない」ということらしい。
では「ア・プリオリ」とはどういうことなのか? 「ア・プリオリ」とは「経験なしでわかる」ということらしい。たとえば、「独身者は結婚していない」という文は、「独身者」の意味がわかれば調査をする必要なく真だとわかる。ゆえに、「独身者は結婚している」ということを思考することは不可能である。
哲学的ゾンビは存在しない」ということは、ア・プリオリには知ることができない。ゆえに、哲学的ゾンビの存在は思考可能である。


2、思考可能性は可能性を含む:
世界についての思考可能性からは、世界のあり方の可能性(形而上学的可能性)が帰結する。
言い換えれば、ある状況が思考可能ならば、可能である。


3、1と2よりゾンビの存在は可能である。
注意点として、この節で行っていることは、「この世界に哲学的ゾンビがいるかもしれない!」という主張ではない。
「この世界と物理的に瓜二つだけど意識経験だけないゾンビ世界の存在は、(内部矛盾によって)論理的に排除されることがない」というものである。


4、ゾンビの存在が可能であれば、物理主義は偽である。


この議論で言いたいことは要するに
「物理的な事実から意識経験についての事実は論理的には出てこないよ。だから、物理的事実によって世界のすべてが決まるという物理主義は偽だよ」


注意点として、物理主義を否定するからといって、即座に霊魂の実在を支持するなどの「実体二元論」には行かないことだ(ゾンビ論法を支持する哲学者でも、実体二元論を支持する人はかなり少ないと思われる)。たとえば、この論法の提唱者のデイヴィッド・チャーマーズは「世界の構成要素には物理的性質と意識経験的性質(現象的性質)がある」という「性質二元論(中性的一元論)」を唱えている。
チャーマーズは現在の物理学を根底から覆そうとしているのではなく、意識経験の存在を物理学の基礎的な概念と考えて、新しく「精神物理法則」を考えようという、広い意味での自然主義の立場に立っている。

 

意識する心―脳と精神の根本理論を求めて

意識する心―脳と精神の根本理論を求めて

 

 


チャーマーズの立場を支持する科学者として、脳神経学者の渡辺 正峰先生がいる。
(この本に書いてあった)

 

 


また、ジュリオ・トノーニという科学者が唱えている「意識の統合情報理論」はチャルマーズと立場を同じくしているという指摘もある。

 

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

 

 
物理主義者の反論


反論A:哲学的ゾンビの存在を思考することはできない。(1を攻撃する)


ダニエル・デネットは「哲学的ゾンビが思考可能だって言うけど、実際は十分なイメージをしてないじゃん」とか「哲学的ゾンビという概念はよくよく考えると矛盾してるよ」と言っているらしい。


反論B:思考可能だからといって、可能であるわけではない(②を攻撃する)


「経験的探求の結果、意識経験は必然的に物理的であることがわかる」とする反論。
クリプキという哲学者の「アポステリオリで必然的に真」という概念を使っている反論らしい。
「ア・ポステリオリ」とは「経験的に」という意味。
たとえば、「水はH2Oだ」という命題はア・プリオリに真ではないが、経験的探求の結果、真だということがわかった。
水がH2Oだとわかったため、「水はXYZ(という化学式で表される水にそっくりな液体)である」という命題は必然的に偽であることになる(すなわち、そういう可能性はなくなる)
なぜならば、「この地球にそっくりで海や川にはXYZが流れている」という世界があることは可能であるが、その世界にあるXYZは水ではないからだ。
同じように、意識経験が何らかの物理的なものだと、経験的に判明すると、「ゾンビが存在する」という命題は必然的に偽であることになる(すなわち、ゾンビの可能性はなくなる)


この反論に対して、チャーマーズは「二次元意味論」というものを使って再反論しているらしい。
短くまとめると
『水』っていう語は「無色透明で海や川を流れて飲めるなどなどの液体」という意味と「H2O」という意味の2つがあるじゃんけ、「H2OはXYZ」という命題は思考不可能でかつ(形而上学的に)不可能な状況だけど、「無色透明で(略)液体はXYZである」という命題は思考可能でかつ可能な状況だよ!
というものらしい。


 

「もうこれ以上存在しない方が良い:存在し続けることの害」【Sullivan-Bissett&McGregor(2012)】

Ema Sullivan-Bissett & Rafe Mcgregor, better no longer to be - PhilPapers

 

ベネターは存在してしまうことは常に害であるとした。この論文では、もしベネターの「快楽と苦痛の欠落についての非対称性論法」と「貧しいクォリティ・オブ・ライフ論法」を受け入れるとすると、反出生主義(anti-natalism)と親自殺主義(pro-mortalism)が導き出されるとする。

ベネター自身は親-自殺主義には立っていない(存在することは害だが、存在し続けることは害とはいえないという立場)が、それは間違いだとする。

 ベネターの反-出生主義が正しいかということ自体はこの論文では触れない。

 第1節で反出生主義は「存在し始めること」だけでなく「存在すること」自体も害と見なすべきということ、第2節でベネターが「死自体が害である」ことを示すのに失敗していること、第3節で「存在し続けることの利益」で親自殺主義を反駁することは非合理性があることを示す。

 

1、反-出生主義と親-自殺主義

ベネターの反-出生主義の論法は二つある。

第1の論法が「快楽と苦痛においての、存在と欠落についての非対称性」論法である。

その論法の基本は、苦痛の非在は善いが、快楽の非在は悪いとはいえないというものだ。

このことから、世界に存在しないことより、存在することの方が悪いということが導き出せる。もし世界に存在してしまったら、苦痛も快楽もある。快楽があることは善だが、苦痛があることは悪だ。一方、世界に存在しなければ苦痛も快楽もない。苦痛がないことが善で、快楽がないことは悪ではないため、存在しないほうが善いことになる。

 

この論法は、一見すると、親-自殺主義にも使えそうだ。行為者が存在しなくなると、その結果、苦痛は消える(善)。一方で、快楽も消える(悪ではない)。ゆえに、存在しなくなるということは善いことであり、親-自殺主義が導き出される。

しかし、ベネター自身は反-出生主義は親-自殺主義を含意しないと言う。

ベネターは親-自殺主義に反対する親-生命(pro-life)論法を出している。

それは次のようなものだ「存在者は存在し続けることに利益を持つことができる。生命の価値ある存続を止めるような害は、それらの利益を無効にする」

 

ザッデウス・メッツ(Thaddeus Metz)はベネターの議論を補足して、「存在することの害」の一部分は「存在が終わること(死)」であるとする。

 

では、死はなぜ害になるのだろうか?

最初に考えられるのは、死は道具的に害であるということだ(死そのものが悪いわけではなく、他の善をなくしてしまうことにより悪い)

しかし、それだと若いうちの死は年取ってからよりもより悪いという結論になる(若いうちの死のほうが失くしてしまう可能的利益が多いため)。これはベネターの立場と合わない。

ベネターは「死はそれを望む者にとっても悪い」と発言している。これは、彼が死を単に道具的だけではなく、内在的にも悪いとしているのだろう。

もし死が内在的に悪いとすると、行為者の死は追加的な害となる。

 

ベネターの論法は、「存在すること」が害なのではなく、「存在し始めること」が害であるとする。

だが、彼はクォリティ・オブ・ライフの自己判断が過剰に楽観的となっているということについても、反-出生主義の根拠にする。

その根拠の検討はここでしないが、そのような彼の主張から、「存在をはじめること」のみならず「存在すること」自体が害であるとしたほうが整合的である。

 

ベネターは以下のような四つの主張をしている。

①いかなる生も始めるに値しない。

②人間が絶滅することは善いことである。

③他の条件が同じならば、感覚を持つ生命が長く生きることは、よりその苦痛が大きい。

④これまで、我々の生はとても悪いのだと述べてきた。その苦痛を広げないように試みるべき理由がある(それには存在の害も入る)。

これらの主張から、ベネターは存在自体も害としているといえる。

(もしも、あるものに対して、いかなる状況でも始めるべきではなく、その継続が苦痛を増やし、廃絶が求められるならば、その存在自体と存在をはじめることが両方とも害的であるのだ。)

 

このことをわかりやすくするために、タバコのアナロジーを行ってみよう。

①*:誰においてもタバコは始めるべきではない。

②*:タバコのグローバルな廃絶を求める。

③*:タバコを吸う量と害は比例する。

④*:他者がタバコを吸うことを防ぐ義務がある。

これらの主張の理由は、「タバコをはじめること」のみならず「タバコを吸うこと」自体が害であるからだろう。

ベネターの反-出生主義においては、存在をはじめることのみならず、存在すること自体が害であるといえるのだ。

おそらく、ベネターは「死そのものが害であるため、このアナロジーは成り立たない」と反論するだろう。タバコのアナロジーでは「タバコをやめること」自体が害ではないので、そうするとアナロジーは崩壊する。

しかし、続いての節で、「死そのものが害」という証明は失敗していると論証する。

 

2、反-死(anti-death)論法

 

この節では、死そのものが害ではないとするエピクロスの論法を説明する。

エピクロスは、死そのものは経験されることがないため、それは害とならないとした。「我々が在るとき、死は未だ来ていない。死が来たとき、我々はいない」

もしも、エピクロスの説を受け入れれば、死そのものは害ではない。もしも、死そのものが害ではないならば、ベネターの非対称性論法から親-自殺主義が導き出せる。

 

ベネター自身は、三つの点でエピクロス説に反対している。

第一の点は、直観を引き合いに出すことだ。もしもエピクロス説を受け入れれば、日常生活においてあまりにも多くのことを諦めなければいけない。「殺人犯は殺人によって被害者を害する」「死者の願いに対して敬意を払わなければいけない」「他の条件が同じならば、長い生の方が短い生より善い」などの立場は死そのものが害ではないとすると、諦めなければいけない。それは反直観的である。

もっとも、ベネターは直観を基にする論法が決定的なものだと考えてはいない。

しかし、ベネター版の反-出生主義と、エピクロス説は後者のほうがラディカルに反直観的だとする。「存在することは害だ」よりも「殺人者は被害者に害を与えていない」のほうが人々に受け入れられにくいだろう。

この点ではベネターは正しいかもしれないが、全体としてはおかしな論法だ。ベネターは直観論法が決定的ではないとしているのに、エピクロス説のほうが反直観的だと退けるのは解せない。

さらに、なぜ人々がエピクロス説を受け入れないかについて(エピクロス説の否定ではないやり方で)説明することができる。

デイヴィッド・スーツ(David Suits)は「より深刻な傷のほうがより大きな害があるとする。そのような心理的傾向を死にまで広げていった結果、死を最も大きな(回復不能の)傷と解釈して、それに巨大な害を当てはめてしまうのだ」としている。

 

ベネターがエピクロス説に反対する第二の点は、予防原則である。もしエピクロス説が間違っていて、人々がそれに従って行動し、自身や他者を殺したとすると、それは深刻な害となる。一方で、もしベネターの反-出生主義が間違っていて、人々がそれに従ったとしても、害を受ける者はいない。

しかし、この反論は二つの点で間違っている。一つに、もし反-出生主義の非対称性論法が間違っていたとすると、誰も害を受けないという結論にはならない。生まれなかった子供から快楽が剥奪されることは害となるのだ。ベネターは暗黙に自身の説が正しいとしてしまっている。

もう一つに、予防原則に訴えるのも、直観に依拠した論法である。

 

ベネターの第三の反論は、反-出生主義にエピクロス説を入れても、親-自殺主義は導かれないというものだ。なぜならば、もしも、死が死んだ人に害をなさないのであれば、死が死者にとって良いことをなすということはないからだ。そこから、死が何らかのものを回避させる働きはないということも言える。

ベネターが何を言っているのか理解するため、次のようなジョンの例を出そう。ジョンはいままさにトンデモなく恐ろしい拷問にさらされようとしている。ここで、ジョンが自殺すれば拷問の苦しみから避けられるという意見がある。しかし、(ベネター解釈での)エピクロス説では、死は良いことをもたらさない。ゆえに、死んでも拷問の苦しみから逃れるわけではない。

この論法はおかしい。ベネターはエピクロス説を誤読している。

反-出生主義+エピクロス説の親-自殺主義のポイントは、自殺で苦しみから逃れることによって望ましいとされる者は誰もいないということなのだ。反-出生主義において、存在を始めさせられないことによって、苦しみから逃れる者はいない、だけど、それは「生殖を中止すべきではない」ということにはつながらない。同じように、たとえある人が自殺によって苦しみから逃れられなくとも、自殺すべきではないということにはならない。「苦痛の欠如は善い、たとえ、その善さを誰も享受してなくとも」なのだ。

 

上の三つの反論では、ベネターはエピクロス説に反駁できない。

ベネターはなんとかして、死そのものが害であると立証しなければいけない。彼はある論法のヒントを挙げた。次の節では、それをもっと精密化してみる。

 

3、親-生命(pro-life)論法

 

ベネターは未来の生(「生を始めさせるか」)と現在の生(「生を続けるか」)には別のレベルにおいての判断が要請されるとしている。なぜならば、「始めるか」と「続けるか」を判断するための質の閾値は違うからだ。前者は高く、後者は低くすべきだ。

その理由として、利益(interest)が挙げられる。存在する者は存在し続けることに対して利益を持つことができる。生が存続する価値がないという主張は、その利益を毀損する。

彼は、深刻な障害の例を挙げる。胚の段階で深刻な障害が見つかれば中絶することは正しいかもしれないが、30歳で事故にあって同じような障害を受けた人が死ぬべきというのは正しくない。胚は道徳的に関連する利益を持っていないが、意識の発達とともに利益を持つのである。ベネターは、道徳的に関連した感覚のなかで存在者は、存在し続けることに対してとても強い利益を持つとする。この利益により、害を減らそうと望む道徳的行為者は、自殺にコミットしないのである。

ベネターは利益は意識の発達とともに、道徳に関連するようなものとなるとしている。その証拠を挙げていないが、それはマイナーな問題だ。

大きな問題が別にある。ベネター自身が「生への非合理的な愛」があると言っていることだ。クオリティ・オブ・ライフの自己測定は不可避的に過大評価されるという現象(ポリアンナ効果)がある。もしも、多くの人々がポリアンナ効果に陥っているとすれば、存在し続けることの利益が合理的な推定なのか怪しくなる。

タバコのアナロジーで説明しよう。ある人がタバコを30年続けていたとする。そして、科学的な知識などから、健康に悪く害が利益を上回り、止めるべきだと思うが、まだ吸い続けたいという欲求に従ってしまう。この状態は非合理的であり、止めるべきだ。たとえ、そいつがおそらく禁煙しないであろうとしても、それでも、合理的にいえば禁煙すべきだろう。

同じように、知識(ベネターの論法、ポリアンナ効果の研究)から、存在し続けることの利益よりも害が上回ると理性的に判断したとき、たとえ、存在し続けたいという欲求があったとしても、その欲求は合理的ではなく、道徳的に関連しているものではない。

ゆえに、つねに自殺にコミットするのが合理的ということになる。

 

ベネターのいくつかの文章からは、同じような結論が見られる。

彼はこう書いている「この利益(存在し続けること)は貧しいクォリティ・オブ・ライフにいつも打破されるわけではない。死はいつもベネフィットにはならない。しかし、存在し始めることの真剣な害を考えるとすると、この想定は合理的なのだろうか?ここで言えることは、死がベネフィットになるほどクォリティ・オブ・ライフが低いというのはいつもではないということだ。はたして、そんなに低いのはどのくらいなのかという問いは開かれている」

ここで、「存在し続けることは(いつもではないが)大半は深刻な害となる」という結論が含意される。

ベネターは70億人いる人間のほとんどは自殺した方が合理的だという結論を拒否するだろうが、反-出生主義を真剣に読めば、否定することはできない。

 

ここで、規範において道徳性よりも合理性のほうが引き合いに出されている。これは、伝統的な道徳と理由(reason)のカップリングによる。道徳の認知主義的理論において、道徳の基盤には合理性がある。合理的存在にとって、欲求による行為よりも合理性による行為のほうをするべきという規範だ。

ベネターの反-出生主義が正しければ、(少なくとも)弱いバージョンの親-自殺主義が正しいことになりそうだ。

反-出生主義:出産は(いつも)悪い。

親-自殺主義:自殺することは(たいていは)合理的だ。

 

4、結論

 

この論文では、最初にエピクロス説によりベネターの反-死論法が無効にされることを確認した(もし存在が害で、死が害ではないならば、親-自殺主義が導かれる)

エピクロス説に対するベネターの三つの反論は成功していない。彼は死自体が害であることを論証できていない。

ベネターの「存在し続けることへの利益」を使った親-生命論法は非合理的でないということを示すことができていない。「存在し続けることが合理的だ」と「存在し始めることは害だ」という意見は緊張関係にある。

ゆえに、ベネターの立場は親-自殺主義を含む。

もしも存在し始めることが善くないのであれば、もうこれ以上存在しないほうが善いのである。

 

【論文まとめ】現代物理学における空間創発:根源性や実在の階層、創発などが不要な理由【Le Bihan(2018】

Baptiste Le Bihan, Space Emergence in Contemporary Physics: Why We Do Not Need Fundamentality, Layers of Reality and Emergence - PhilArchive

 

「空間(時空)は根源的には存在していない」物理理論をそう解釈する説が賑わっている。この説は「時空は存在しない」もしくは「時空は派生的である」という二つの読み方がある。

著者はその読み方の二つともが存在論的にコストが大きく、代わりに、「時空は非時空的なもの(entities)から構成されている」という物理理論の解釈が妥当であるとする。そうすると、時空の実在性について否定する必要はなくなる。

 

 

 

  • 1、現代物理学における空間と時空の復権

「時空は根底的に存在していない」という主張は、量子論と量子重力理論から出ている。しかしながら、時空は存在しないという立場は哲学的にはかなりラディカルだ(ライプニッツでも、時空を関係性と同一視する)。このように、時空について我々が真であるとしているのは偽であるという立場を消去主義とする。

一方、時空(or空間)の派生主義では、自然には二つの階層があり、空間レベルはより根源的な非空間レベル構造体から派生していると見る。

 

この二つの立場と対比して、著者が採用する立場はメレオロジー的な束説(mereological bundle theory)である。時空(or空間)は極大構造(宇宙全体)の適切な部分を集めた束であるという立場だ。

 

創発」という用語は哲学と物理学では異なって使われる、哲学での「創発」はこれまでになかったものや性質や力能が生み出されるという意味であり、還元主義に反対する。

一方で、物理学においては創発は還元主義と両立するとされる。

ここでは、物理学においての「創発」を採用することにする。

 

 

「空間が存在しない」とする物理理論は、波動関数実在論とループ量子重力理論がある。

波動関数実在論では、3次元空間はもっと根源的な3N次元空間により構成されるとする。Nとは根源的物理粒子の数である。

このアプローチでは、波動関数は単なる数学的ツールではなく、特定の物理システムの性質を描写したものであるとする。波動関数は通常の空間とは別のエグゾティックな空間にあるものなのだ。

波動関数実在論では、量子力学の非局所性を「高次元でおける同じ位置を共有しているからだ」と説明する。

波動関数実在論では、時間については否定せず、マクロな状況と同じであるとする。

 

ループ量子重力理論では、時空は実在の根源的レベルではなく、「スピンネットワーク」(ノードとノード間の関係性)といわれるものが根源にある。3次元のスピンネットワークを動的にすると、「スピンフォーム」という4次元システムが手に入る。この「スピンフォーム」によって一般相対論の成功を説明することができる。

さらに、相対論的時空はもっと根源的なスピンフォームから派生した一つの構造と考えることができる。

 

これらの理論を見るに、二つの問題がある。

問題①:構成された時空の形而上学的な地位はどんなものだろうか?

問題②:なぜ特定の空間が構成されて、他の空間ではなかったのか?

  • 3、空間なし?

時空の消去主義においては、時空は実在の構成要素ではない。

派生主義においては、実在の階層というものが導入されるが、消去主義はそれにコミットメントしない。

しかし、消去主義者は、時間と空間の一般的特徴(トポロジカル・メトリカルな側面)をも否定しなければいけない。現象学的な時空の背後に非空間的・非時間的関係性を持って来なければいけない。このような試みは物理学者から明確に出されていない。

 

  • 4、派生的空間

 

時空の派生主義においては、時空は派生的に実在しているものであり、根源的ではないとされる。

派生主義は日常経験や一般相対論の成功を説明する(それらは派生的な実在についての理論である)

派生主義は「時空は存在し、時空は根源的ではない」と主張する。つまり、時空は派生的存在だが、根源的存在ではないということだ。

しかし、派生主義は次のような問題がある:「自然的世界には根源的構造と派生的時空という二つの階層があることになる」

二つの階層の関係はなんだろう? 一つの解釈は基礎付け関係であるというものだ。しかし、著者は基礎付け関係は説明のための関係であり、心的に独立していないため、ここではビルディング関係という存在論的な関係を採用したほうがいいと言う。

二つの存在論的階層を要求する派生主義は、存在論的コストが高くなる。階層を否定して、それは描写の粗さだというと、消去主義になってしまう。

存在論的コストは致命的な問題ではないが、もしもそのコストを払わずに同じ説明能力を持つ説があれば、そちらに鞍替えした方が良いだろう。

 

 

著者が唱えるメレオロジー説によれば、「派生的構造」とは「非空間的ビルディングブロックのメレオロジー的和」である。(メレオロジーってのが良くわからないが、ここでは、「集めれば一つのものになる」ぐらいの感覚でいいのかな?)

「根源的構造と派生的構造」の区別に代わっては、著者の立場では「極大的構造と部分的構造」を導入する。

空間は部分的構造である。

さらに説明のために、二つの主張をする。

主張①:この説において、空間的関係の和が空間になることはありえる。ゆえに、空間は関係的か実体的か、空間的関係の集合なのかそれとも実体をプラスしなければいけないのかという論争には立ち入らない(どちらとも両立する)。

主張②:空間的ビルディングブロック(空間的関係)はもっと細かく見ると非空間的ビルディングブロックにより作られている。

 

 

著者の説は、パウルという哲学者が唱えた「物質的対象の束説」という哲学的立場を参照して組み上げられたものだ。

「物質的対象の束説」:物質的対象は性質の束であり、その性質を例化する実体はない。性質は「束関係」によりまとめられている。この関係は「メレオロジー的構成」と同一のものだ。

性質は物質的対象の「論理的部分」である。

「論理的」とは、部分と全体の関係が単に実在において成立しているというだけではなく、カテゴリーにおいて成立しているということだ。

ある形而上学的カテゴリー(たとえば性質)が別の形而上学的カテゴリー(たとえば対象)を構成するということだ。

 

パウルの説に則り、「空間のメレオロジー的束説」を考えてみよう。3次元空間や4次元時空は別の形而上学的カテゴリーの論理的部分だと解釈することができる。

「空間」は「メレオロジー的原子のカテゴリーをまたいだメレオロジー的和」(ボトムアップ的表現)または「極大構造の適切な部分、だけど別のカテゴリー」(トップダウン的表現)だということができる。

「カテゴリーをまたいだ構成」には二つの機能がある。

機能①:空間的(時空間的)関係を構成する。

機能②:空間的関係のつながりを構成することで全体としての局所性を持つ空間システムを構成する。

 

ループ重力理論の一般相対論的な時空(出来事や点との間の関係性に局所的な秩序があるように構成されたシステム)を例にしよう。メレオロジー説によれば、秩序的な関係性とは、「極大構造の適切な部分のメレオロジー的和」と数的に同一である。

 

著者のメレオロジー説は、パウルのものと以下の違いがある。

①構成されたものが必然的に対象となるわけではない。

②メレオロジー的な素子(simples)が性質じゃないといけないわけではない。

③性質例化はparthood(「部分であること」という関係的質)ではない。

④「部分は全体よりも根源的」ではない。

 

①:パウルはメレオロジー的原子から構成されるものは対象としているが、著者は時空的関係性も構成されうるとしている。

②:空間のビルディングブロック(スピンネットワーク、エネルギー、3N関係性など)は特定の物理学的カテゴリーに属する。そのようなカテゴリーが形而上学的にはどのようなものなのかは、今後の探求に開かれている。

著者は物理学者が見つけるようなメレオロジー的に根源にあるものが全部同じカテゴリーに属するとは思えないとする。

③:パウルは自然的例化(natural instaniation)がparthoodであるという主張をしている。つまり、自然的対象が自然的性質を例化するのは、その性質が適切な部分である場合のとき、またそのときのみであるという主張だ。著者はこれに反対する。たとえば、性質と関係が「他の現実にあるものとつながっている」という事実のみによって例化するとする説は可能である。※ここはぜんぜんわからなかった…

④:もっとも重要な差異である。パウルは部分は全体よりも存在論的に優先されるという階層的な立場を採っている。しかし、メレオロジー的束説自体はどちらが存在論的に優先されるかという問題には中立的である。著者の説は、このことにより、派生説よりも存在論的コストが少なくてすむ。

 

著者の説は、説明されない原始的理論概念が必要となるが、どのような説においてもそのようなコストは必要になってくる。

 

  • 7、結論

レオロジー説は消去主義と創発主義(派生主義)の中間にあり、両者の良いところを併せ持つことができる。

虚構主義とお話 / Fictionalism and the Folk【Toon, Adam(2016)】

この論文では、心的状態(信念、欲求などの命題的態度)はその人の内的状態に言及しているわけでなく、虚構であるという「虚構主義」をとる。心的状態は虚構であるが、人々の状態や行動を説明するのに適切に役立つものである。また、心的状態は人々に対する真正の断言(genuine assertion)である。フィクションを使ってその人の状態に言及しているからだ。それはメタファーを使うときと類似している。「怒った雲が雨を降らす」というとき、怒った雲の存在に依拠しているわけではない。怒った雲がなかろうが、その主張は天気に対する真正の断言となる。
ウォルトンの言葉を使えば、心的状態とはプロップ志向的メイク・ビリーヴである。プロップ志向的メイク・ビリーヴとは、ごっこ遊びのためのプロップ(小道具)に対して注目しているメイク・ビリーヴだ。通常の小説や映画などは内容志向的メイク・ビリーヴである。内容志向的メイク・ビリーヴはプロップではなく、内容を注目の的とする。(『風の谷のナウシカ』は視聴者をセル画の方法に注目させるものではなく、ストーリーの内容に注目させるものだ)。一方、「クロトン半島はイタリアブーツのつま先だ」というようなメタファーは、プロップであるクロトン半島に注目させるためのものだ。
また、この論文においての虚構主義は、我々の心的状態の理解を一変させようとする革命的虚構主義ではなく、普通の人々は実は実在する状態としての心的状態にコミットしていないとする解釈的虚構主義だ。

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行動主義との対比

行動主義は内的状態に対して一切コミットしていない。一方、虚構主義は信念・欲求などにはコミットしないが、それが表象するような内的状態にはコミットする。
ある状態に重ね合わせるべきフィクションは無数に存在する。このことが、行動主義の一般化の障害になっているのかもしれない。

道具主義との対比

道具主義とは、信念や欲求は、志向的システム理論において、行動をよりよく予測するための措定物だという立場だ。
道具主義への批判として、「ブロックヘッドの思考実験」というものがある。志向的システム理論に完全に合致するような行動をインプットされた機械仕掛けのブロックは直観的に思考者だとは見なされないが、道具主義はその直観が説明できないというものだ。
虚構主義はこの思考実験に対して説明を与えることができる。機械仕掛けの頭に対しては思考者であるというフィクションを与えることが適切にできないからである。
ダニエル・デネットは心的状態は「重心」のような、存在しないが適切な理解なのだとしている。また、デネットは心的状態のパターンは志向的姿勢により選び出され、それらは実在世界の対象における特徴なのだともしている。
デネットの説明は虚構主義によりよりよく理解できる。「雲が怒っている」というとき、怒った雲は存在しないが、世界の特徴を捉えている。同じように心的状態も、実在しないが、世界の特徴を捉えている。だが、複雑なメタファーはそうであるように、共通する物理的特徴がないならば、フィークサイコロジーのゲームに参加していない者は心的状態を選び出すのは難しいかもしれない。

接頭詞虚構主義との対比

接頭詞虚構主義とは、心的状態とはフォークサイコロジーという特定の理論の内容に変換できるという主張だ。対して、この論文で提唱されているのはフリ虚構主義といえる。フリ虚構主義では、子供がままごと遊びをするときのように、特定の理論やルール、テキストなどを必要としない。
接頭詞虚構主義の問題は3つある。
①フォークサイコロジーが現実世界とは別の可能世界(たとえば、フロイトが無意識について発表しなかった世界)で、現実世界と完全に同じ状態にいる人には、別の心的状態を付与しなければいけなくなる。

②普通の人々が関心を持っているのはフォークサイコロジーについての内容ではない。

③現象的に、心的状態について話しているとき、フォークサイコロジーによるお話について話しているわけではない。

フリ虚構主義は、心的状態とはフィークサイコロジーによるお話ではなく、人々の実際の状態について言及するためのフリだとする。ゆえに、フォークサイコロジーが別の世界でも現実世界と同じような心的状態が付与される。また、フォークサイコロジーではなく実際の人々に対しての関心が説明できる。心的状態について語るとき、それを通して実際の状態について語っている。

他の分野の接頭詞虚構主義と対比しても、心の接頭詞虚構主義は不利だ。
可能世界についての接頭辞虚構主義は“ルイスの『世界の複数性について』によると”を接頭辞とするが、心的状態について接頭辞虚構主義はそのようなテキストは存在しない。
一方、フリ虚構主義が求めるのは人々の行動をベースとしたルールに則った心的状態の付与のみであり、そこにはテキストはいらない。

消去主義との対比

消去主義とは、フォークサイコロジーは誤った理論であり、そこから導き出させる心的状態とは、フロギストンやエーテルのように消去すべきものだという立場だ。
虚構主義は、たとえ心的状態が存在しなくとも、それについて言及し続けることができるという面で、直観的に消去主義よりも秀でている。メタファーは存在しなくとも、認知的に有効な効果を生み出すからだ。

課題

課題①現象学的問題:我々が心的状態に言及するとき、それはメイク・ビリーヴのようには感じられない。
解釈的虚構主義ならば、フリを通して人々の行動についての真正の言及をしているためこの課題は回避される。

課題②メイク・ビリーヴには同一性条件に問題がある(ある心的状態と別の心的状態が同じかという質問に答えられない)
これは答えなくとも良い「愚かな問い」である。メタファー「犬のように素早い身のこなし」の犬の種類は確定しなくともよい。「怒った雲が雨を降らす」の雲が先日の雲と同一かという問題はどうでもよい。
数学的対象の実在論を批判する「オラクル論法」を応用して説明することもできる。もし、全知の者から「数学的対象は存在しない」というお告げがくだされたとしても、我々は「1+1=2」という発話を止めたりしない。つまり、もともと数学的対象の実在は必要なかったのだ。同じように、もしも「信念や欲求などは存在しない!」ということがわかったとしても、心的状態についての言及は続く。つまり、心的状態の実在は必要ない(ゆえにその同一性は問題とならない)

課題③心的状態がフィクションならば、因果を持たないはずだが、我々は心的状態を使って因果的説明をしている。これは矛盾だ。
「怒った雲が雨を降らす」において、怒った雲は存在しない、しかしこの発話においては真正の因果的説明が行われている。「怒った雲」というフィクションを使って実際の状態Sに言及しているからだ。同じように、たとえ心的状態が存在しなくとも、それを使った発話は因果的説明を果たしうる。

課題④心的虚構主義は不整合だ。「メイク・ビリーヴ」や「フリ」などの概念はそもそもがフォークサイコロジーに依拠している。フォークサイコロジーが正しくないという立場は矛盾している。
これは最も難しい課題である。未来の神経科学においては、フォークサイコロジーを使わずにメイク・ビリーヴについての説明ができるかもしれないが、現在はフォークサイコロジーの他に選択肢はない。