草野原々公式ブログ

SF作家 草野原々のブログ

プロフィール

Profile

草野原々(くさの げんげん)

日本のSF作家。現在、札幌市在住。ときどき横浜市にもいる。

1990年 広島県東広島市生まれ。北海道大学理学院博士課程在籍。

日本SF作家クラブ所属。

 

連絡先

Twitter @The_Gen_Gen

ブログ http://the-yog-yog.hatenablog.com/

カクヨム https://kakuyomu.jp/users/The_Yog_Yog

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theyogsototh★gmail.com

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これまでの活動

小説

・「最後にして最初のアイドル」:早川書房オリジナル電子書籍、2016年11月配信

 『伊藤計劃トリビュート 2』早川書房編集部編、ハヤカワ文庫JA、2017年1月発行 収録

エッセイ等

・「草野原々インタビュウ」 - 『S-Fマガジン』2016年12月号 収録

・「Oh ! マイアイドル」 - 『小説すばる』2017年2月号 寄稿

・「『けものフレンズ』はなぜSFとして「すっごーい!」のか」 - 『S-Fマガジン』cakes版(Web上)2017年2月17日 寄稿

・「塾員クロスロード」 - 『三田評論』2017年5月号 寄稿

講演等

・「けものフレンズはSFなのです なのです」- 『はるこん』2017年4月23日

その他の賃金が発生しない活動

・存在する(継続中)

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション4~6/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015)】

セクション4では、形而上学的に偶然だが法則的に必然である法則の例として、微細構造定数αとそれに基づくクーロンの法則が挙げられます。

セクション5では、ある法則は形而上学的に偶然だが、別の法則は形而上学的に必然であると論じられます。形而上学的に必然の法則の一つとして、パウリの排除原理(PEP)が挙げられます。

セクション6はまとめです。

セクション1のエントリはこちら

the-yog-yog.hatenablog.com

セクション2~3のエントリはこちら

the-yog-yog.hatenablog.com

 

 

Ⅳ 偶然的法則


 ハイブリッド見解のために、形而上学的に偶然だが法則的に必然である法則を挙げよう。少なくともある根源的物理定数は時間に依存して変化するかもしれない。たとえば、微細構造定数αは電子と陽子の質量比によるが、クェーサーの観測からαは変化しているとわかっている。
 微細構造定数は無次元定数だということを補足しておこう。電磁定数とプランク定数光速度の組み合わせから微細構造定数ができる。無次元定数の変化は、定数間の関係が変化していることを示唆する。αの変化は電磁定数の変動により説明されることが主流だが、光速度の変動が提案されることもある。
 αが実際に時間により変動しているということは、形而上学的可能世界のなかで定数が変動しうるという一見したところの証拠となる。このことは、微細構造定数を使用するすべての法則(クーロンの法則を含む)において、別様でありえた可能性を与える。
 だが、αの時間変動があるからといって、可能世界において法則が変動するといえるのだろうか? もしかしたら、αは特定の幅の中に納まるという法則があるかもしれない。αの変動は形而上学的に必然な別の法則の結果かもしれない。Marc Langeはαの変動は法則が一時的であることを示すのではなく、時間依存的な永久的法則を示すとして、反事実条件での法則の不変性があるとした。しかし、そこにはαの値を決めるのは独立した制限ではなく、形而上学的に必然な法則であるとするアドホックなコミットメントが必要だ。
 Langeはまた、個別の法則が形而上学的可能世界のなかで変動することができるという一般的な想定は問題含みであるとした。法則群とは法則性に由来して構成されるシステムであるとするのだ。法則性とは反事実条件的な仮定のもとでも抵抗力を全体としてもっている下位法則的(sub-nomic)な安定性のことだ。システムであるため、ひとつに統合されている。Langeのこの指摘は、著者が特定の法則よりも特定の定数にフォーカスする理由である。αを変更するということは、ひとつの法則のみならずシステム全体に普及するからだ。このアイディアでは、可能世界ごとにオルタナティブなシステムが存在するという想定を導く。Langeによると、「自然的必然性の様々なグレード」がある(EllisやBirdは強い必然性のみであるとする)。この論文では、グレードを認めるにしても、自然的必然性と形而上学的必然性という区別があるとして進める。
 
 ここまでの議論で、もしも、法則lが時間依存的に変化しているのであれば、少なくとも、lが形而上学的に偶然である一見自明の証拠となることを見てきた。しかし、形而上学的偶然性を保証することはない。lが時間依存的に変化するということが形而上学的に必然かもしれないからだ。だが、時間依存変化現象は、他の可能世界では変化率が著しく違うのではないかという想定を与える。
 時間依存的な法則はそもそも法則ではないという意見もあるかもしれないがそれは違う。もしすべての法則が時間依存的だと判明したとしても、法則性は保ち続けられるだろう。
 少なくとも、他の可能世界の法則は、現実世界の法則の時間依存性に敏感であり、ゆえに他の可能世界でも現実世界と同じ法則を持っていると明らかに言うことはできないくらいのことは論証できた。
 
 ここまでの議論をもとに、本質主義者に対しては次のような質問ができる。「なぜ、電荷粒子のふるまいを支配している法則の形而上学的必然性について説明するのに、粒子の本質が必要なんですか?」「たとえ、本質主義者の説明が基本的に正しくても、関連する別の本質が、法則により特徴づけられているものの必然性を担うことはあるんじゃありませんこと?」「さらには、たとえ根源的自然種を特徴付けているもっと『特権的』な法則があったとしても、我々が観測しているような規則性は単なる形而上学的偶然なのではないかというヒューム主義的発想を禁止するものがなくってよ」

 それらの質問に対して、本質主義者がする乱暴な返答は「特権的でない偶然法則は、もっと根源的で必然的である法則に根拠付けられるのだ」というものだ。しかしながら、微細構造定数は根源的な法則であるクーロンの法則にかかわっている。αの変動をもっと根源的な法則から説明するのは新しい物理学が必要であり、難しいことだ。

 このセクションの議論は、「すべての法則は形而上学的に必然」だとする立場への反論になるものだった。潜在的な解決策として、同じ定数群を与えるような境界条件を必然的法則とすることだ。しかし、この解決策は法則の形而上学的必然性を導くことはできない。同じ定数群を持っているのにもかかわらず、その値が劇的に変わり、世界の間で法則(それらの法則は自然種を特徴付ける)が違うということがありえるからだ。

 

Ⅴ 必然的な法則

 

 ここまでは、すべての法則が根源的な自然種を特徴付けるものではないということを見てきた。この見解は、根源的自然種を特徴付ける法則もあるという立場と両立するものだ。このセクションでは、ある法則は根源的自然種を特徴付けるものであり、それは形而上学的必然性の地位を持っていると論ずる。
 
 このセクションで論ずる命題は以下のものである。
(COND-MET):もし真正なる自然種があれば、その自然種のみを特徴付けるような法則は形而上学的に必然である。また、そのような法則のみが形而上学的に必然な法則である。
 この命題はハイブリッド見解の存在論的基礎になるものだ。

 ケーススタディとして、PEP(パウリの排除原理)とフェルミオンを見てみよう。フェルミオンが同じ時刻に同じ量子状態にならないというのは、PEPにより特徴付けられている本性(のひとつ)の振る舞いである。PEPによる様相制限、たとえばスピンの値が半整数であるということはフェルミオンの本質である。なぜならば、そこが違うとフェルミオンではなくボゾンになってしまうからだ。フェルミオンとボゾンは真正なる自然種の候補となるだろう。
 PEPは形而上学的に必然的な法則の候補の一つとなる。たとえ、PEPが必然的でなくとも、物質の結合や安定性を特徴付けるPEPに似たような法則は必然的であろう。もしも、いかなる結合的な振る舞いもすることがない宇宙が形而上学的可能であれば、それは反例となりうる。しかし、判例になりうる宇宙はフェルミオンを含んでなければならない。(たとえば真空しかない宇宙はPEPに制限されるようなものを含まないので反例にならない)。一見、反例となりうるような宇宙における「フェルミオン」は実はフェルミオンではなく、ボゾンとして振舞うであろう。結合的振る舞いのない宇宙はフェルミオンのない宇宙なのだ。ゆえに、反例を持ち出すことはできない。
 もちろん、ここでの議論は反quidditismを前提としたものだ。性質の同一性というものは裸ではないとする。
 もしも、形而上学的可能宇宙のなかで、PEPの類似物に制限されていないフェルミオン*があったとしよう。quidditistはフェルミオンフェルミオン*の同一性をはかるツールがあるとする。しかし、この議論ではquidditistのほうに論証責任があるだろう。
 フェルミオンの事例はquiddismへの反証となるかもしれないが、ここでは深く突っ込まない。

 

 Ⅵ結論

 

 ハイブリッド見解の強みは、単一の事例では反駁できないことだ。ある法則は形而上学的に必然で、ある法則は形而上学的に偶然だという立場は、科学的・傾向的本質主義とヒューム主義のどちらにも部分的に賛成している。新たな事例が出てきたら、ある法則についての見解を改めることができる。
 想定される反論に、ハイブリッド見解が正しいとしても形而上学的に偶然の法則はそもそも法則といわないというものがある。もし望むのならば、偶然の法則を何か別の言葉を使って呼べば良いだろう。おそらく必然の法則を「強い」法則、偶然の法則を「弱い」法則と呼ぶのも良いだろう。著者としては「ハード」と「ソフト」のほうの区分のほうが良い。
 ハイブリッド見解は、法則は自然種の本性や本質から生まれると説明する点で科学的・傾向的本質主義者のほうに近い。ヒューム主義者や法則的必然性主義者は形而上学的に必然の法則の様相的力を説明することは困難だろう。PEPは少なくとも、形而上学的な様相制限を与えるということが示されている。

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション2~3/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015)】

物理法則の力はなにを根拠にしているのでしょうか? セクション2では、本質主義者の「因果力を与える本性」が物理法則の根拠になっているということを説明し、それは強すぎる主張だとします。

セクション3では、根源的自然種の例化というアイディアを検討し、クーロンの法則にはその説明が適用できないのを見た後、法則を形而上学的必然のものと形而上学的偶然のものにわけるという方法を提唱します。

セクション1はこちら

the-yog-yog.hatenablog.com

Ⅱ 見かけ上の法則の様相的力


 法則と単なる規則性を区別する見かけ上の様相的力について、本質主義者たちは因果力を与える本性をもって説明する。
たとえば、粒子の本性により、電荷粒子が互いに引き付き合う規則性がすべての形而上学的可能世界をまたいで成立することを説明する。

しかし、「可能世界をまたいだ規則性を根源的粒子で説明すること」は「可能世界をまたいで法則が同一であること」という主張と切り離すことができる。
なぜならば、我々は「特定の規則性が形而上学的可能世界をまたいであること(例えば電荷は引き付き合ったり反発したりするということ)」には同意できるにしても、「電荷を支配する法則が同じ世界で同一に保持されること」には追加のコミットメントが必要となるからだ。
たとえば、電磁気的相互作用の結合量が同じ世界において変動するかもしれない。

ここで、パウリの排除原理(PEP)のケースを見てみよう。二つのフェルミオンが同じ時点で同じ量子状態をとることはできないというものだ。PEPは物質の振る舞いを規定する。塩素とナトリウムがイオン結合して、塩化ナトリウムとなる際に、PEPは重要な役割を果たす。二つのイオンが接近する際に、PEPは両者の電子が同じ量子状態になることを防ぐ。こうして、イオンが過剰に接近することを防ぎ、安定した塩化ナトリウムができるのだ。
 PEPはすべての物質の振る舞いにおいて中心的な規則性を現している。分子や原子が作られる能力を基礎付けるものだ。だが、実際に我々がイオン結合を考える際にはもっと高階の法則に言及する。その一つがクーロンの法則だ。クーロンの法則とPEPでは後者のほうがより普遍的な法則だとされる。
 BirdはPEPについて、それは量子力学に内包される説明であり、(Birdが法則の必要条件とするところの)根源に「近い」関係性について述べることはないとする。しかし、著者が見るところでは、たとえ量子力学により説明することができたとしても、PEPは根源に「近い」関係性を言及する理由がある。それは根源的自然種が法則の様相的力の中心にあるということだ。

 

Ⅲ 法則と種

根源的自然種が法則の様相的力の中心にあるという提案はE. J. Loweによるものだ。Loweの考えるところによると、カテゴリカリズムを捨てれば、法則の様相的力について十分な説明をすることができる。電子の力や傾向性などなどの斉一性は、同一の根源的自然種の特定の例化という事実により説明される。Loweは自然種の本性(nature)により法則は説明されるべきだとする。電子の本性の一つとして負の電荷を持つという例化が挙げられる。同じように、フェルミオンの本性の一つは、PEPが述べているように同時に同じ量子状態をとれないということだ。
 このような分析により、「黄金の山は存在しない」と「ウラニウムの山は存在しない」の違いを区別することができる。後者はウラニウムの本性に言及しているため、法則を構成しているが、前者は法則ではない。
 しかし、Loweの分析はクーロンの法則には適用できない。なぜならば、その法則はいかなる根源的自然種の特徴づけもしていないからだ。クーロンの法則はすべての物質的対象をスコープに入れているのだ。
 Loweはクーロンの法則は自然種である「物質的なものmaterial body」について言及していると反論するかもしれないが、それを認めたとしても、保存則などのもっと普遍的な法則が存在する。物理システム全体が自然種だという立場を取らない限り反論はできない。
 しかし、単純な解決策がある。自然種を特徴付ける法則と特徴付けない法則という区分が、形而上学的に必然な法則と偶然な法則という区分に対応しているとするのだ。この策はLoweの立場と両立しない。なぜならば、Loweは自然種を特徴付けるような形而上学的に偶然的な法則が存在する余地を残しているからだ。

 なぜ、法則を二種類に分ける必要があるのか。それは、法則的な(物理的な・自然的な)様相と形而上学的な様相の区別があるからだ。形而上学的に必然な法則は自然種を特徴付けるものだが、それに当てはまらないクーロンの法則など、自然の規則性を表現する法則もある。
 クーロンの法則を形而上学的に必然だとすると、どのような問題が出てくるのだろうか? Birdはクーロンの法則は形而上学的に必然だとしている。彼はこう言う「クーロンの法則による電磁結合は塩が水に溶けることを十分にする。塩が水に溶けることに失敗する可能世界とは、クーロンの法則が働いていない世界であるのだが、塩の生成自体にクーロンの法則が関わる。ゆえに、クーロンの法則が働いていない世界では、塩はそもそも存在できないのだ。塩が水に溶けないような世界において、塩が存在しないということはありえないだろう」
 一方、Beebeは次のようにクーロンの法則が形而上学的に偶然であることを論証する「Birdの論証は、他の世界が秩序だって働いているという想定に立っている。クーロンの法則が偽の世界のなかには、塩を作り出すような固有の法則が真である世界もあるのだ」(ゆえに、クーロンの法則は塩が水に溶けるという傾向性を特徴づけはしない)

 ハイブリッド見解では、必ずしも根源的自然種があるということにコミットしなければいけなわけではない。自然種の代わりに「算出可能な指標」を使うこともできる。科学においては、根源的な「算出可能な指標」は質量や電荷といった形で認められているが、根源的な自然種は認められているとは限らない。しかしながら、この論文では根源的自然種を使って説明しよう。のちにそのコミットメントを正当化する。
 ハイブリッド見解では、法則においての見かけ上の様相的力は次のように説明される:ある法則は自然種を特徴付けているため形而上学的に必然であり、他の法則はヒューム主義者が提唱しているように形而上学的に偶然であり法則的規則性である。後者は「ソフト」な様相的力を持ち、前者は「ハード」な様相的力を持つ。

 まとめると、法則と規則性については以下の三つに分類されるだろう。
①根源的自然種を特徴付ける形而上学的に必然な法則
②法則的に必然だが、形而上学的に偶然な法則。自然種を特徴づけはしないが、自然的性質を特徴付ける。
③単なる偶然。形而上学的にも法則的にも偶然的な規則性。(法則とはいえない)

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション1/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015】

法則は偶然的なのでしょうか、それとも必然的なのでしょうか?

この論文の著者は、ある法則は必然的であり、別の法則は偶然的だとしています。

このエントリでは、セクション1の先行研究の紹介と、著者の主張のみです。セクション2からはのちに新しいエントリを投稿します。

 

philpapers.org

 

 

 

法則の様相的状態については三つの主な立場がある。

ヒューム的スーパーヴィーニエンス(Lewisが提唱):法則は完全に偶然的であり、単なる規則性であり、事実にスーパーヴィーン(付随)しているだけだ。
法則的必然性アプローチ(Armstrongが提唱):法則は形而上学的に必然ではないが、単なる規則性とは区別できる。偶然性のスペクトラムを導入する。『ソフトな』種類の法則的様相を前提とする。
科学的/傾向的本質主義アプローチ(Ellis, Birdが提唱):法則は形而上学的に必然的であり、物の本質的性質に関係している。『ハードな』種類の法則的様相を前提とする。

他には、Mumfordの法則なし性アプローチ、Loweの本質主義者アプローチ、Maudlinの法則についての原初主義などがある。
いずれにしても、様相的力(Modal Force)をどう扱うかで立場が変わってくる。
様相的力についての問い:単なる規則性から本当の法則を区別するような見かけ上の様相的力を説明することはできるか?
哲学者たちは、様相的力の説明をどの程度したら十分なのかは一致していない。しかし、この論文では、それぞれ一致していなくても良いとする。なぜならば、様々な種類の法則があるからでる。

法則的必然性アプローチとヒューム主義は、両者とも、『ハードな』種類の様相的力を拒否するという点において同じ側にいる。以下で両者の類似性について見ていこう。
ヒューム主義においては、性質についての見解は『定言主義/カテゴリカリズム/categoricalism』あるいは『カテゴリカル一元論/定言的一元論』と呼ばれているもので、「すべての根源的性質は傾向的ではなく、カテゴリカルだ」というものだ。根源的性質とは、本質的な因果力やいかなる本質的性質も持たない。つまり、性質には内在する様相が欠けているのだ。
カテゴリカルな立場においては、法則はカテゴリカル性質に関しての偶然的規則性である。
ヒューム主義と法則的必然性アプローチは両者ともカテゴリカルな立場である。科学的/傾向的本質主義アプローチはこの二つと対立する。著者は、後者のほうを自らのスタート地点とする。

著者のアイディアとは、ある法則は偶然的であり、ある法則は形而上学的に必然的であるとする「混合的立場」である。これをハイブリット見解と呼ぼう。
先行研究で著者に最も近いのはHendry and Rowbottom(2009)である。彼らの見解はある種の(温和な)傾向的本質主義である。それは反quidditismを特徴とする。quidditismとは、性質の同一性は原初的であり、同一性を失うことなく質量や電荷など傾向的特徴を交換することが可能であるという立場だ。同一性を保証する「このもの性haecceity」は傾向的特徴にかかわりなくあるとする。
Hendry and Rowbottomは、「このもの性」の代わりに、同一性の基準に「曖昧な傾向的プロフィール」を使う。塩が水に入ると溶けるという傾向性は、様々な条件が必要になるが、その条件は曖昧である。それらの条件を総合して「曖昧な傾向的プロフィール」とする。しかし、個別の傾向性自身を使わずに、特定できないプロフィールを使うのはquidditismになる恐れがある。

著者はHendry and Rowbottomに完全に賛成しているわけではないが、重要なつながりがある。Hendry and Rowbottomの説を「温和な」タイプの傾向的本質主義、Ellisの説を「厳格な」タイプとすれば、著者は「弱い」タイプの傾向的本質主義である。
「温和」タイプは、性質の同一性は傾向的プロフィールもしくは因果的役割で決定されるとするが、性質の傾向的プロフィールのなかで「穏健な」間世界的変動を認める。
「温和」タイプと「弱い」タイプの重要な違いは、前者が傾向的プロフィールの変動を取るに足らないものとして説明なく放っておくのに対して、後者が変動を起こすものについて説明を試みることだ。

著者の立場は、自然種についての根源主義だ(本当の自然種と根源的存在論的カテゴリーを前提とする)。これはLoweやEllisもとっている立場だ。しかし、著者のバージョンには相違点がある。主な違いは以下の二つである。
①:ある法則は偶然的で、別の法則は必然的である。
②:根源的自然種の特徴についての法則は必然的であり、非根源的自然種の特徴についての法則は偶然的である。

セクション2では、①が擁護される理由を示す。セクション3では、Loweの本質主義的アプローチへの批判と、法則と自然種のつながりが示され、Loweの説明の問題点から②が導き出されることを確認する。セクション4と5では、光物理学での法則には偶然的なものと必然的なものが混在していることを示す。

 

 

【論文まとめ】IITはラッセル的汎心論と両立するか?/“Is IIT compatible with Russellian panpsychism?"【 Hedda Hassel Mørch(2016)】

mindsonline.philosophyofbrains.com

 

 

 

アブストラクト

 

 意識の統合情報理論(IIT)はある種の汎心論を含んだ経験的仮説である。この論文では、IITはラッセル的汎心論と親和的であり、ラッセル的汎心論の弱点である組み合わせ問題を解決できる可能性があるが、現在のバージョンのIITとラッセル的汎心論は整合的ではないところがある。整合性をもたらすために、IITに対する二種類の修正がありうる。一つはIITの排外仮定を修正するものであり、もうひとつは粗い粒化原理(coarse-graining principle)を修正するものだ。

 

○汎心論とは?


 汎心論とはすべての物理的なものは次の三つのうちどれかだと主張する立場だ。
 ①意識
 ②意識的なパーツにより作られたもの
 ③意識を作り出す部分

 

ラッセル的汎心論


 近年の心の哲学で受け入れられている汎心論のバージョンはラッセル的汎心論である。これは物理主義と二元論の問題点を避ける立場であるからだ。物理主義の問題とは、認識論的ギャップの問題であり、二元論の問題とは、心的因果の問題だ。
 ラッセルは物理学が扱うのは関係的あるいは構造的性質のみだとした。どのように物理的なものが他のものと関係しあうかであり、ものそのものが何であるのかという問題は扱わない。ラッセル的汎心論では、関係性には内的性質(instrisic properties)が必要だ。さらに、現象的性質は内的性質であるとする。

 

○物理主義と二元論の困難とラッセル的汎心論の有利な点


 物理主義では、現象的性質は物理的性質と同一だとする。問題は、現象的性質なしの物理的性質は想定可能だということだ。
 二元論では、現象的性質と物理的性質は別だとする。問題は、物理的世界は物理的性質のみに閉ざされていると想定した場合、心的因果が物理的世界に向かって働くことはないという結論になってしまうことだ。
 ラッセル的汎心論では、物理的性質は現象的性質(内的性質)により構成されるとする。もし、内的性質のあるものが存在するのであれば、その構造である物理的性質も存在するので、ギャップの問題はない。物理主義の問題点を回避できる。
 ラッセル的汎心論では、現象的性質が物理的構造を実現するため、物理的性質の因果的有効性は内的性質なしにはありえない。ゆえに、心的因果の問題はない。二元論の問題点を回避できる。

 

○構成的汎心論と創発的汎心論、およびその問題点


 構成的汎心論では、複雑な意識は単純な意識により構成されると考える。つまり、複雑な意識とは単純な意識が時空的に関係した姿と同一である。この立場は『組み合わせ問題』に直面する。ミクロな意識をどのように組み合わせればマクロな意識が構成されるのだろうか?ミクロ意識があっても、そこからマクロ意識があるということを導き出せない。
 創発的汎心論では、ミクロ意識の集合体とマクロ意識は別のものだとする。むしろ、ミクロ意識集合体により因果的にマクロ意識が生み出されるのだ。この立場は心的因果の問題に似た問題に直面する。ミクロ意識が物理的構造を決定するのならば、マクロ意識は因果的に余分な部分となってしまうのだ。

 

○IIT


 IITは意識の経験的相関を見出そうとする理論だ。すべての意識システムは統合情報Φの最大値であり、意識とはそれのみであるとする。この相関関係は、自己の内観から得られた現象学的公理からアプリオリで導出される。
 IITは小脳などの脳の部分にはなぜ意識がないか、や深い眠りについたときにどうして意識が消えるのかということを説明することができる。

 

○IITと組み合わせ問題


 IITは組み合わせ問題を解決できる。意識とΦの相関関係は現象学的公理からアプリオリで導出できるためだ。アプリオリなつながりは認識的ギャップをなくす。
 その解決の仕方には、いくつかの立場がある。

 

○現象的結束の立場


『現象的結束の立場(the phenomenal bonding view)』では、some physical relations はそのrelataの内的性質に還元不可能な内的本性を持っているとする。内観により、いくつかの物理的relataの本性にアクセスできるが、物理的relationsの内的本性にはアクセスできない。現象的結束立場によると、もし我々が脳内の粒子のむすびつきに関して内的本性を知ったならば、マクロ意識の存在はミクロ意識の関係性から導き出せると結論付けることができる。
 現象的結束の立場において最大の問題は、どんな物理的関係性が現象的結束関係性に対応するかを選び出すことだ。Goffは空間的関連性は現象的結束関係性だとする。そうだとすると、空間的関係性のあるすべての物理的性質は意識があることが導き出される。これを普遍主義(universalism)というが、ほとんどの汎心論者は普遍主義を拒否して意識をあるシステムだけに制限している。
 IITは現象的結束立場のようなことはありえるとする。IITが正しければ、現象的結束関係はある種の因果関係(オーバーラッピングする他のシステムよりもΦが高い要素の因果関係)となる。これは普遍主義を含まずに、アドホックな連接もない、自然な物理的関係性である。

 

○融合の立場


『融合の立場(the fusion view)』は創発的汎心論で組み合わせ問題に解答しようという立場だ。この立場によると、マクロ意識の創発共時的ではなく、通時的に起こる。創発したマクロ意識が、それを引き起こしたミクロ意識の集合体を引き継いで存在するようになるのだ。これにより、物理的性質を実現する候補は一つとなる。
 Seagerは量子的絡み合いやブラックホールのフォーメーションなどが物理的融合の例だとしている。要素は個別性を失い、『大きな単一』となる。しかし、脳内にそれに値するものは見つからない。
 IITはそれ自体は融合の立場である。それは排外(Exclusion)の仮定によるものだ。システムのなかで最大値のΦを示す部分のみが意識を持ち、下位レベルのミクロ意識は失われるとする。IITは情報の統合性という基準により融合の同一性基準を与えている。それは経験的に取り扱えるもので、物理学的仮説に対して改訂的ではない(脳内の量子的絡み合いを仮定するような無理はしていない)。

 

○粗い粒化問題(the coarse-graining problem)


 粗い粒化問題とは、IITが意識の時空的粒子を選び取る方法に起因する問題だ。IITでは脳というシステムはニューロンなどの荒い空間的粒子を部分として構成しているとする。また、ミリ秒単位の荒い時間的粒子を基準としている。
 粒子以下の構造は経験の質にとって関係がないとすると、ミクロ構造が炭素でもシリコンでも意識の性質には変化がないということになる。
 このことは、ラッセル的汎心論と矛盾する。ラッセル的汎心論では、物理的構造が現象的性質に付随(スーパーヴィーン)するとしている(少なくとも法則的に付随する)。しかし、IITでは付随は成立しない。
 次のように考えればIITとラッセル的汎心論の対立が解消されるかもしれない:炭素ニューロン脳とシリコンニューロン脳はマクロ現象的性質は同一であるが、ミクロ現象的性質は別であるのだ。同一のマクロ現象的性質は同一のマクロ物理的構造を実現あるいは法則的決定するが、ニューロンなどのミクロ単位での別々の経験が別々のミクロ物理的構造を実現するのだ。
 しかし、この考えは、排外の仮定により棄却される。マクロ意識よりも下位レベルのニューロンはミクロ意識を持つことはできない。

 

○Exclusionを放棄する


 排外仮定の放棄は脳内に無数の意識があることを意味し、『多数者の問題』を引き起こす。また、普遍主義を導く。これはまずい。
 さらに、IITの経験的問題を引き起こす。夢のない眠りでもΦはゼロにならないが、なぜ意識は消えるのかという問題に対して、脳内のサブシステムのΦよりも脳内全体のΦが低くなったからだと回答できる。Exclusionの下では、サブシステムの意識により脳全体の意識が排外されると説明できる。

 

○粗い粒化を放棄する


 粗い粒化を放棄して、もっと細かい粒化にしてはどうだろう。しかし、問題が起こる。第一に、我々の経験は脳内のミクロ物理的構造を反映していない。哲学においてこの問題は『粒の問題』といわれている。経験の粒は脳内のミクロ物理的粒を反映していないのだ。 
 第二に、経験的問題が起こる。Φはニューロンよりも小さい単位でもゼロにならないため、脳内の分子や原子が意識を持ってしまうこととなる。これは多数者の問題を引き起こす。

 

○Exclusionを修正する


 次のようにExclusionを修正すれば粗い粒化問題を解決できる。
 ①同じ時空的粒のなかでは意識はオーバーラップしない。
 ②下位レベルのシステムよりもΦが高いシステムでのみ意識は粒として存在する。
 これは、脳内の意識は、もっとも肌理の細かいミクロ物理的粒における意識とオーバーラップしているということだ。肌理の細かい部分が違う二つの脳(炭素脳とシリコン脳)はその部分においては別種の質を持った意識を経験しており、その違いはミクロ物理的構造と法則的スーパーヴィーンしている。
 この解決法は、Exclusionの放棄よりも役に立つ。例えば、眠りにおける意識の喪失を否定しない。脳レベルでの粒の意識は、下位レベルがより高いΦを持つと消える。また、能が考えられる限りで最も高いΦを持つシステムだとすれば、銀河や宇宙が意識を持つとする普遍主義も棄却できる。
 この修正案は、構成的ラッセル的汎心論のみに適用できる。創発的汎心論のように、ミクロ現象的性質とマクロ現象的性質が別物なのであれば、ミクロ現象的性質がマクロ現象的性質を因果的に排除するはずだ。
 しかしながら、粗い粒の現象的性質が細かい粒の現象的性質により構成されると考えても別の問題が生じる。緑を見るという経験ができる最小の部分を考えよう。その部分は主体にとって、完全に均一である。もしもこの均一な緑の部分がもっと小さな粒におけるミクロ現象的性質により構成されているとすると、主体の経験は均一で部分がないにもかかわらず複合体であるということになる。
 多くのラッセル的汎心論者は、現象的性質について見せかけと実際の区別は存在しないということを動機にしている。もしそうであれば、ある経験が均一でかつ複合体であるというのは道理に合わない。

 

○粗い粒化を修正する


 粒の問題:脳内のミクロ物理的構造に対応するマクロ意識の構造が少なすぎる。
 パレット問題:物理学において根源的粒子の数は制限されているが、それに対してマクロ意識が持つ質は多すぎる。
 この二つの問題は相補的に解決できる。失われたミクロ物理的構造のいくらかは余分なマクロ意識の質にエンコードされていると考えるのだ。ミクロ物理的構造が潜在的に可能なマクロ現象的な質に対応しているとするのだ。
 この考えは、IITの粗い粒化原理を修正する。Φ最大値の粒よりも下位の情報は経験の質にとって重要であり、構造にとっては重要ではない。つまり、ミクロ物理的レベルで別々のものが同じマクロ現象的構造を実現することはあるが、同じマクロ現象的質は実現できない。
 ここには、どのようにミクロ物理的構造が経験的質にエンコードされるのか?という謎がある。

 

○結論


 この論文では、粗い粒問題を解決し、IITとラッセル的汎心論を両立させる二つの方法を提案した。一つはExclusion仮定の修正であり、もう一つは粗い粒化原理の修正である。この二つの修正案は、ラッセル的汎心論の組み合わせ問題を解決しうる。心的組み合わせの原理は現象学的公理もしくは相関的主張のみからアプリオリに演繹可能である(現象的結束の立場または融合の立場いずれにしても)
 Exclusionの修正は現象的質は必然的に見かけとしてあるという立場と緊張関係にあり、粗い粒化原理の修正は質と構造の間のミステリーな関係性を前提とする。

【論文まとめ】「汎心論と汎原心論/Panpsychism and Panprotopsychism」【David J. Chalmers(2016)】

心の哲学の代表的論者、デイヴィッド・チャーマーズの論文です。汎心論と汎原心論、ラッセル的一元論、汎質論についての議論がまとめられています。

www.oxfordscholarship.com

 

チャーマーズは『意識する心』と『意識の諸相』が翻訳されています。

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【論文まとめ】「『コウモリであるということはどのようなことか?』統合情報理論からの回答/“What is it like to be a bat?”—a pathway to the answer from the integrated information theory【Naotsugu Tsuchiya(2017)】

今回は神経科学者・土屋尚嗣さんの論文をお送りいたします。

onlinelibrary.wiley.com

 

 

論文の背景

 トマス・ネーゲルという哲学者は1974年に「コウモリであるということはどのようなことか?」という記事を書いた。コウモリは超音波で周囲の環境を知覚しているのだが、それはいったいどのような体験なのだろうか?この問題に答えるには、脳の状態と経験とを結びつけるような法則を与える理論が必要だ。
 もちろん、コウモリの意識について直接テストをすることはできないが、それを言うならば宇宙の起源や生命の進化についても直接テストをすることはできない。しかし、間接的な証拠から理論をテストすることはできる。意識についても同じ方法がとれる。経験的に有望な理論を直接テストできない問題に当てはめるのだ。ここでは意識の統合情報理論(IIT)を使う。
 この問題を解決する理論は脳活動のみを見て他者の経験状態を予測できるものでなくてはならない。どんな種類の経験かを脳活動のみから予測できれば理想的だ。
 さらに、動物の意識について予測できるものでなくてはならない。

 候補となる理論はいくつかある、それらの多くは「意識と脳のパズル」を解き明かしていない。意識のない夢のない眠りのなかでも人間脳は活発に活動している。そのため、単純に脳活動が多ければ意識となるとする理論は間違いだ。
 また、脳活動の『複雑性』を意識の必要条件または十分条件とする理論がある。しかし、大脳皮質の視床システムより四倍複雑な小脳が欠けていたとしても意識に影響を与えない。
 ニューロンの活動同期理論やグローバルな情報の有効性理論、再帰的フィードバック活動理論などはニューロンの短期間の活動や異なる脳部分でのコミュニケーションの促進といったものに意識の木曽を置いてきたが、それらは夢のない眠りでも起こっていることだ。また、別々の感覚の現象的差異を説明することはできない。脳のなかで同じようなメカニズムが起こっているのに、視覚と聴覚はどうして違うのか? について答えられる理論でないとダメだ。

 この問題を取り扱える理論として統合情報理論がある。統合情報理論現象学からはじまる。現象を観察して、意識には次の五つの根本的な性質があることがわかるだろう。それらを公理とするのだ。
①存在:意識は内在的に存在し、その経験は疑い得ない。
②構成:いかなる経験も様々な様態(視野、音など)から構成されており、各様態には様々なアスペクトがある(視覚的動き、表面、対象、色など)
③情報:意識は情報的であり、ある一つの経験は他の経験を排除した上で成り立つ。
④統合:経験の部分は、全体として一つに結びついている。異なったアスペクトバラバラではなく、結合した全体として統合される。
⑤排除:意識は有限の時空上のつぶであり、他の意識とはオーバーラップしない。

 統合情報理論は、この公理のもとで意識を発生させるメカニズムを探し出す。そのとき、重要になるのが統合情報Φである。
 例えば、上にあるランプと下にあるランプが結合されているところを考えよう。ランプはオンかオフの状態しか取らない。このとき、ありえる可能性は以下の四種類である。
上オン、下オン
上オン、下オフ
上オフ、下オン
上オフ、下オフ
 ランプは単位時間後に相方の状態をコピーする。現在状態が上:オン、下:オフであれば、その前の過去状態は上:オフ、下:オンである。もし現在状態が不明であれば過去状態も不確実となる。不確実性の程度をエントロピー(H)とする。エントロピーはシステムの可能なバリエーションを量化したものであり、log2(可能な状態数)で与えられる。
ここではlog2(4)=2 である。
 現在の状態を知った後のエントロピーは条件付エントロピー(H*)と呼ばれる。ここではH*=log2(1)=0
『情報』の概念は不確実性を減少させるものとして定義できる。数学的には相互情報Iと呼ばれ、H-H*として定義できる。ここではH-H*=2
 統合情報Φは全体システム由来の情報量Iから部分システム由来の情報量I*を引いたものである。Φ=I-I*。上の例では、もし二つのランプが分離されれば、各々のランプは現在状態を知ったとしても過去状態を知ることはできないためI*=0、ゆえに、Φ=2。Φはもしも全体システムが部分にカットされたらどのくらい情報が失われるのかを示す。
 Φはまた、システムの全体だけではなく、いかなるサブセットにおいても計算することが可能である。

 加えて、最小情報分割(MIP)と排外原理がある。
 MIPとはI*(部分システム由来の情報量)を計算するときにシステムをカットする最も適切な方法である。
 たとえば、先ほどのランプの例で、上がオン・下がオフの組と、上がオフ・下がオンの組が左右に並んでいたとする。 
 このとき、MIPは左右にカットすることである。そのとき、全体のφは0ということになる(残りの部分システムのφは減らないので)。間違って上下にカットすれば、全体のφは0より多くなる(残りの部分システムのφが大きく減るため)。
 MIPは排外原理と関係する。排外原理によれば、φが最大値をとるサブセットシステムが排外的な現象的性質を持つ。φが最大値をとるサブセットを『複合体complex』と呼ぶ。
 たとえば、互いに固く結びついたABCというシステムがあるとする。どの結びつきをカットしてもφの値を大きく下げる。ここで、Cと非常に弱く結びついているDという部分があるとしよう。ABCとDをカットしてもABCのφはほぼ変わらない、ゆえにこのとき全体システムABCDのφはほぼゼロである。複合体の外にある神経相互作用はいかなるものであろと非意識的なプロセスとなる(たとえば、脳の外にある網膜が独自の意識を持つことはない)
 IITによれば、感覚様態はその感覚に関わるニューロンの活動のみならず、他のニューロンとの相互作用によって生まれる。視覚は視覚ニューロンだけではなく、聴覚ニューロンなど複合体の他の領域との相互作用により生まれる。しかし、複合体の外での相互作用は非意識的プロセスとなる。

 

著者の主張
 IITを使って『コウモリであるということはどのようなことか』を経験的に理解することができる。

 

なぜそういえるのか?
 著者はIITを使って、簡単な課題をしている人間の脳活動パターンと言語による報告がIITの予想に即していることを示した。
 だが、コウモリに適用するためには非報告パラダイムが必要である。非報告パラダイムとは指示の上での意識操作や、身体シグナル(眼球運動など)を通じた意識内容の推定などを主軸とするデータ収集方法である。非報告パラダイムが必要なのは、報告行為と固く結びついている脳領域と意識の領域が別々であるとされているからだ。
 非報告パラダイムは動物に対して絶大な威力を発揮する。一度パラダイムを確立すれば、経験内容と統合情報パターンを比較することができる。だが、その比較方法はどのようなものなのか? 数学的な形式化ができる。カテゴリー理論を使うのだ。

 カテゴリー理論とは集合論のフレキシブルなバージョンである。これを使うと、異なる理論の間での定理の翻訳が可能となる(代数学幾何学のあいだ、論理学と量子力学の間など)。カテゴリー理論は対象間の『関係性』を抽出する理論だ。これをもって、正確な『類似性』を計ることができる。意識の異なるカテゴリー間(様態間、動物種間、数学的構造間)での比較ができるようになる。
 
 もしも、コウモリがエコロケーションしているときの統合情報が人間の視覚体験に近ければコウモリは超音波で『見て』いることになり、もし聴覚体験に近ければ『聴いて』いることになり、もし統合情報が非常に少なければ小脳のように非意識的な情報処理をしていることとなる。