水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

プロフィール

Profile

草野原々(くさの げんげん)

日本のSF作家。現在、札幌市在住。ときどき横浜市にもいる。

1990年 広島県東広島市生まれ。北海道大学理学院博士課程在籍。

日本SF作家クラブ所属。

 

連絡先

Twitter @The_Gen_Gen

ブログ http://the-yog-yog.hatenablog.com/

カクヨム https://kakuyomu.jp/users/The_Yog_Yog

お仕事のご依頼は

theyogsototh★gmail.com

まで(★を@に変えてください)。

 

これまでの活動

受賞歴

・「最後にして最初のアイドル」にて第4回ハヤカワSFコンテスト特別賞第48回星雲賞日本短編部門第16回センス・オブ・ジェンダー賞〈未来にはばたけアイドル賞〉を受賞。

第27回暗黒星雲賞ゲスト部門受賞

  

小説

・「最後にして最初のアイドル」:早川書房オリジナル電子書籍、2016年11月配信

 

最後にして最初のアイドル【短篇版】

最後にして最初のアイドル【短篇版】

 

 

 『伊藤計劃トリビュート 2』早川書房編集部編、ハヤカワ文庫JA、2017年1月発行 収録

 

伊藤計劃トリビュート2 (ハヤカワ文庫JA)

伊藤計劃トリビュート2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

・「エヴォリューションがーるず」: 早川書房オリジナル電子書籍、2017年7月31日配信

 

エヴォリューションがーるず

エヴォリューションがーるず

 

 

・『最後にして最初のアイドル』 ハヤカワ文庫JA、2018年1月

 

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

エッセイ等

・「草野原々インタビュウ」 - 『S-Fマガジン』2016年12月号 収録

・「Oh ! マイアイドル」 - 『小説すばる』2017年2月号 寄稿

・「『けものフレンズ』はなぜSFとして「すっごーい!」のか」 - 『S-Fマガジン』cakes版(Web上)2017年2月17日 寄稿

・「塾員クロスロード」 - 『三田評論』2017年5月号 寄稿

・「『最後にして最初のアイドル』星雲賞受賞記念インタビュウ」 - 『S-Fマガジン』cakes版(Web上)2017年7月22日 寄稿

・「SF映画総解説 ホーリー・マウンテン」- 『S-Fマガジン』2017年10月号収録

・「書評| 久木田水生、神崎宣次、佐々木拓 著 『ロボットからの倫理学入門』」 - 『応用倫理』第10号(北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター、2017年11月30日)

・「『ブラック★ロックシューター』から読み解く情動の哲学と人生の価値」- 『ユリイカ2018年3月臨時増刊号 総特集=岡田麿里』(青土社、2018年2月26日)

 

 

講演等

・「けものフレンズはSFなのです なのです」- 『はるこん』2017年4月23日

・「げんげんの『ラブライブ!トーク」 - 『ドンブラコンLL』2017年8月27日

その他の賃金が発生しない活動

・存在する(継続中)

虚構主義とお話 / Fictionalism and the Folk【Toon, Adam(2016)】

この論文では、心的状態(信念、欲求などの命題的態度)はその人の内的状態に言及しているわけでなく、虚構であるという「虚構主義」をとる。心的状態は虚構であるが、人々の状態や行動を説明するのに適切に役立つものである。また、心的状態は人々に対する真正の断言(genuine assertion)である。フィクションを使ってその人の状態に言及しているからだ。それはメタファーを使うときと類似している。「怒った雲が雨を降らす」というとき、怒った雲の存在に依拠しているわけではない。怒った雲がなかろうが、その主張は天気に対する真正の断言となる。
ウォルトンの言葉を使えば、心的状態とはプロップ志向的メイク・ビリーヴである。プロップ志向的メイク・ビリーヴとは、ごっこ遊びのためのプロップ(小道具)に対して注目しているメイク・ビリーヴだ。通常の小説や映画などは内容志向的メイク・ビリーヴである。内容志向的メイク・ビリーヴはプロップではなく、内容を注目の的とする。(『風の谷のナウシカ』は視聴者をセル画の方法に注目させるものではなく、ストーリーの内容に注目させるものだ)。一方、「クロトン半島はイタリアブーツのつま先だ」というようなメタファーは、プロップであるクロトン半島に注目させるためのものだ。
また、この論文においての虚構主義は、我々の心的状態の理解を一変させようとする革命的虚構主義ではなく、普通の人々は実は実在する状態としての心的状態にコミットしていないとする解釈的虚構主義だ。

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行動主義との対比

行動主義は内的状態に対して一切コミットしていない。一方、虚構主義は信念・欲求などにはコミットしないが、それが表象するような内的状態にはコミットする。
ある状態に重ね合わせるべきフィクションは無数に存在する。このことが、行動主義の一般化の障害になっているのかもしれない。

道具主義との対比

道具主義とは、信念や欲求は、志向的システム理論において、行動をよりよく予測するための措定物だという立場だ。
道具主義への批判として、「ブロックヘッドの思考実験」というものがある。志向的システム理論に完全に合致するような行動をインプットされた機械仕掛けのブロックは直観的に思考者だとは見なされないが、道具主義はその直観が説明できないというものだ。
虚構主義はこの思考実験に対して説明を与えることができる。機械仕掛けの頭に対しては思考者であるというフィクションを与えることが適切にできないからである。
ダニエル・デネットは心的状態は「重心」のような、存在しないが適切な理解なのだとしている。また、デネットは心的状態のパターンは志向的姿勢により選び出され、それらは実在世界の対象における特徴なのだともしている。
デネットの説明は虚構主義によりよりよく理解できる。「雲が怒っている」というとき、怒った雲は存在しないが、世界の特徴を捉えている。同じように心的状態も、実在しないが、世界の特徴を捉えている。だが、複雑なメタファーはそうであるように、共通する物理的特徴がないならば、フィークサイコロジーのゲームに参加していない者は心的状態を選び出すのは難しいかもしれない。

接頭詞虚構主義との対比

接頭詞虚構主義とは、心的状態とはフォークサイコロジーという特定の理論の内容に変換できるという主張だ。対して、この論文で提唱されているのはフリ虚構主義といえる。フリ虚構主義では、子供がままごと遊びをするときのように、特定の理論やルール、テキストなどを必要としない。
接頭詞虚構主義の問題は3つある。
①フォークサイコロジーが現実世界とは別の可能世界(たとえば、フロイトが無意識について発表しなかった世界)で、現実世界と完全に同じ状態にいる人には、別の心的状態を付与しなければいけなくなる。

②普通の人々が関心を持っているのはフォークサイコロジーについての内容ではない。

③現象的に、心的状態について話しているとき、フォークサイコロジーによるお話について話しているわけではない。

フリ虚構主義は、心的状態とはフィークサイコロジーによるお話ではなく、人々の実際の状態について言及するためのフリだとする。ゆえに、フォークサイコロジーが別の世界でも現実世界と同じような心的状態が付与される。また、フォークサイコロジーではなく実際の人々に対しての関心が説明できる。心的状態について語るとき、それを通して実際の状態について語っている。

他の分野の接頭詞虚構主義と対比しても、心の接頭詞虚構主義は不利だ。
可能世界についての接頭辞虚構主義は“ルイスの『世界の複数性について』によると”を接頭辞とするが、心的状態について接頭辞虚構主義はそのようなテキストは存在しない。
一方、フリ虚構主義が求めるのは人々の行動をベースとしたルールに則った心的状態の付与のみであり、そこにはテキストはいらない。

消去主義との対比

消去主義とは、フォークサイコロジーは誤った理論であり、そこから導き出させる心的状態とは、フロギストンやエーテルのように消去すべきものだという立場だ。
虚構主義は、たとえ心的状態が存在しなくとも、それについて言及し続けることができるという面で、直観的に消去主義よりも秀でている。メタファーは存在しなくとも、認知的に有効な効果を生み出すからだ。

課題

課題①現象学的問題:我々が心的状態に言及するとき、それはメイク・ビリーヴのようには感じられない。
解釈的虚構主義ならば、フリを通して人々の行動についての真正の言及をしているためこの課題は回避される。

課題②メイク・ビリーヴには同一性条件に問題がある(ある心的状態と別の心的状態が同じかという質問に答えられない)
これは答えなくとも良い「愚かな問い」である。メタファー「犬のように素早い身のこなし」の犬の種類は確定しなくともよい。「怒った雲が雨を降らす」の雲が先日の雲と同一かという問題はどうでもよい。
数学的対象の実在論を批判する「オラクル論法」を応用して説明することもできる。もし、全知の者から「数学的対象は存在しない」というお告げがくだされたとしても、我々は「1+1=2」という発話を止めたりしない。つまり、もともと数学的対象の実在は必要なかったのだ。同じように、もしも「信念や欲求などは存在しない!」ということがわかったとしても、心的状態についての言及は続く。つまり、心的状態の実在は必要ない(ゆえにその同一性は問題とならない)

課題③心的状態がフィクションならば、因果を持たないはずだが、我々は心的状態を使って因果的説明をしている。これは矛盾だ。
「怒った雲が雨を降らす」において、怒った雲は存在しない、しかしこの発話においては真正の因果的説明が行われている。「怒った雲」というフィクションを使って実際の状態Sに言及しているからだ。同じように、たとえ心的状態が存在しなくとも、それを使った発話は因果的説明を果たしうる。

課題④心的虚構主義は不整合だ。「メイク・ビリーヴ」や「フリ」などの概念はそもそもがフォークサイコロジーに依拠している。フォークサイコロジーが正しくないという立場は矛盾している。
これは最も難しい課題である。未来の神経科学においては、フォークサイコロジーを使わずにメイク・ビリーヴについての説明ができるかもしれないが、現在はフォークサイコロジーの他に選択肢はない。

 

「フィクショナルキャラクターについての抽象的人工物理論を擁護する。なぜ、Sainsburyのカテゴリーミステイク反論は間違っているのか。/Abstract Artifact Theory about Fictional Characters Defended — Why Sainsbury’s Category-Mistake Objection is Mistaken」【Zvolenszky(2013)】

抽象的人工物説では、フィクショナルキャラクターは法や結婚と同じような抽象的な人工物である。Sainsburyは「抽象的人工物説が正しいのなら、作者や読者はキャラクターについてのカテゴリーを根源的に間違っていることになるが、それはおかしい」という「カテゴリーミステイク反論」を投げかけた。この論文では、カテゴリーミステイク反論が可能世界についての議論で強すぎる効果を持ってしまうこと。また、可能世界についての代用主義を利用することで、キャラクターについてのカテゴリーミステイクなしの理解ができることを述べる。

philpapers.org

抽象的人工物説:キャラクターは「結婚」と同じような抽象的人工物として実在する
Sainsburyの反論:作者や読者は、キャラクターを抽象的人工物として扱っていない。ゆえに人工物説においては作者や読者がキャラクターについて深刻なカテゴリーミステイクをしていることになる。

 

 

抽象的対象とは?

定義①具体的存在者のように時空上の位置を持っていない。定義②因果的力能を欠いている。
具体的対象:カップ、ビッグベン、J・K・ローリング
抽象的対象:数、集合、命題、性質→これらの抽象的対象が時点tにおいて存在することはtにおいてのいかなる心的活動からも独立している

別のタイプの抽象的対象:「抽象的人工物」(ex.チェスの試合)は時間的特徴を持っている。
「サッカーの試合」「チェスの入城」「結婚」「総理大臣」「アルファベット」「名前」「音楽作品」「小説作品」などはこのタイプの抽象的対象
フィクショナル・キャラクターについての抽象的人工物説:キャラクターもこのタイプの抽象的対象

 

フィクショナルキャラクターについての非現実主義

フィクショナル・キャラクターについての非現実主義:キャラクターは可能的対象である。
 現実世界と同じような可能世界を認める場合(可能世界についての実在論)→現実世界と因果的に隔絶された無数の可能世界があるとする。キャラクターは可能世界の具体的対象として在る。
 現実世界と同じような可能世界を認めない場合(可能世界についての代用主義)→可能世界とは、世界を表象する命題のうち整合的な極大の集合だとする。キャラクターは命題の集合として抽象的に在る。
 代用主義はキャラクターについての抽象的対象説に吸収される。

カテゴリーミステイク反論

Sainsburyのカテゴリーミステイク反論:作者や読者はハリー・ポッターに「人である」という性質が例化(exemplify)しているとするが、抽象的人工物説が正しいのであれば、それらの性質は例化していない(エンコードしているだけである)。ゆえに、人工物説が正しいのであれば、作者や読者は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。
※具体的対象は性質を例化する。エンコードはしない。抽象的対象は性質をエンコードする。(JKローリングはイギリス人であるという性質を例化するが、エンコードしない。ハリー・ポッターはイギリス人であるという性質をエンコードするが、例化しない)

 

著者の主張

著者の論法:カテゴリーミステイク反論は形而上学の議論のなかであまりにも強すぎる効力を持ってしまう。
可能世界についての代用主義においては、可能的個物は抽象的対象だ。しかし、「髪をブルーに染めることもできたな」と思うとき、心の中でその対象は具体的性質を持っている。カテゴリーミステイク反論が効果的ならば、日常的な見方は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。ゆえに、代用主義は間違いだということになる。
では、可能世界についての実在論はどうかというと、これもカテゴリーミステイク反論にさらされる。もしも、「あなたは無数の可能世界が具体的にあると思っていますか?」と聞かれたら「否!!」と答えるだろう。ゆえに、日常的な見方は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。ゆえに、可能世界についての実在論は間違いだということになる。
よって、カテゴリーミステイク反論が有効であれば、可能世界について非実在論のみが残されることになる。
しかし、代用主義を独立して支持する議論がある。
私が靴下1を編んだとしよう、同じ糸巻きと編糸で、別の靴下2を編むことができたかもしれないが、編まなかった。代用主義によれば、靴下2は抽象的である(さまざまな性質をエンコードしている命題の集合である)。それらの命題は現実に存在するが、命題たちが表象しているシナリオは現実化していない。
ここで「ハリー・ポッター」に出てくるフィクショナルな靴下を考える。ハリーがしもべ妖精ドビーを解放するときに使った靴下だ。これを「ドビーソックス」と呼ぼう。代用主義においては、ドビーソックスを命題の集合とすることができる。ここで、それらの命題がドビーソックスと靴下2で全く同一だとしよう。違いは、ドビーソックス集合は「JKローリングにより創造された」という性質を例化しているが、靴下2集合は「私により創造された」という性質をエンコードしているという点だ。
このように、代用主義においては、可能的な対象とフィクショナルな対象を同列に扱うことができるのだ。代用主義はカテゴリーミステイクなしに人工物説を含意できる。

この論法に対する心配は3つある。

心配①:靴下2には代用主義における可能世界にあり、それは時間を欠いている。一方、ドビーソックスは人工物であり、時間の中にある存在だ。代用主義はそんなもの認めていいのか?
    回答①この違いを除いては、靴下2とドビーソックスは大変良く類似しているので、両者とも抽象物として扱うのが妥当。回答②オペラや小説など抽象的人工物の候補は大量にあり、抽象的人工物の否定論者は代案を出さねばならない。回答③オペラや小説などにおいては、プラトン的抽象物説よりも抽象的人工物説のほうが妥当。

心配②:キャラクターは表象のための装置ではなく、エンコードされている性質だ。一方、性質の集合は表象のための装置として使うことができるため、両者は同じものではありえない。
    この心配には簡単に返答できる。代用主義者が可能世界を命題集合と捉えるのに抵抗がないのと同じように、抽象的人工物説もキャラクターを命題集合とすることに抵抗がない。「靴下2は形やサイズをエンコードし、抽象物であることを例化する」をより正確に言うと「"靴下2"の命題集合が靴下2を表象し、靴下2は形やサイズをエンコードし、抽象物であることを例化する」である。同じように「ドビーソックスはフワフワであることをエンコードし、抽象物であることやJKローリングに作られたということを例化する」をより正確に言うと「"ドビーソックス"命題集合はドビーソックスを表象し、ドビーソックスはフワフワであることをエンコードし、抽象物であることやJKローリングに作られたということを例化する」だ。

心配③:複数の抽象的対象は質的に同じものなのか?ハリーポッターの次の巻で出てくるドビーソックスは前の巻のドビーソックスと同じものなのか?
    この心配はもっと馴染み深い抽象的対象を考えることにより解決する。ハンガリー憲法は作られた後には同一性を保持する。「ナウい」などの新語も同じように同一性を保持する。もしも法律や音楽作品などの存在を認めるのであれば、キャラクターについての存在も認めなければならないだろう。

 

ストーリーはどのような存在者か?【高田敦史(2017)】

ストーリーとは出来事であり、物語が示す命題(内容)ではない。ストーリーはキャラクターと同じような存在者である。物語性(物語の特徴)を担っているのは、出来事としてのストーリーである。ストーリーが出来事であることを念頭に置けば、作品間でストーリーを移植することや、ストーリーの同一性が曖昧なことが良く理解できる。

 

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物語:ストーリーを語る表象

物語の(典型的)特徴:比較的少数の人や物に関わり、因果的結びついた(統一性のある)個別的な出来事や事実についての記述(フィクションであるかは関係ない)
物語性には程度がある:物語の特徴をたくさん持つ表象は物語性が高く、少ない表象は物語性が低い(カリーが提唱)
この論文の問題意識:物語性の担い手はどのような存在者か?

ストーリーの命題説:ストーリーとは「物語によれば真であること」である。(つまり、物語が提示する内容)
ストーリーの出来事説:ストーリーとは「物語が話題にしている出来事」である。(つまり、物語の外部に存在する出来事)
上の二つはいったいどこが違うの?:命題説においての内容は抽象的であり、時空的位置を持たないが、出来事説においての出来事は具体的であり時空上に位置を持つ。
ノンフィクションの場合、両者の違いは明白:二つの歴史書が些細な記述で食い違っていても、「同じ出来事を扱っている」とはいえるが「同じ内容である」とはいえない。
フィクションの場合、両者の違いは微妙:架空の出来事は時空上に位置を持たないため
それでも、両者の違いはある:物語が話題にしている出来事はフィクション世界内の存在者だが、物語が語る内容は現実世界の存在者である。

この論文での「出来事」:①特定の時空間に位置づけられる具体者。②複数の異なる記述により一つの出来事を指示することができる。③ある出来事が複数の出来事により構成される場合がある。(デイヴィッドソンによるもの)

虚構的真理:「このフィクションにおいて」というものが発言の頭についている限りにおいて真なる事柄
フィクショナルオペレーター:「このフィクションにおいて」
虚構性(fictionality):作品の内容だけではなく、鑑賞者の態度や行為にも適用される広い意味での虚構的真理(ウォルトンが提唱)
ウォルトンのメイクビリーフ理論:何かが虚構的であることとは、ごっこ遊びのゲームのなかで想像すべき事柄であるということだ(虚構的存在に対する鑑賞者の態度や行為はすべて想像上のフリである)
メイクビリーフ的態度:ごっこ遊びのなかでなされる想像

 

この論文の立場:ノンフィクション物語のストーリーは出来事であり、フィクション物語のストーリーは虚構的出来事である。
虚構的出来事:現実には存在しない、もしくは現実において(法や契約のような)抽象的な文化的人工物である。
この論文の立場への反論:虚構的出来事は出来事と呼べるような存在者ではないため、ストーリーが統一的な存在者でなくなる。
反論への応答:フィクションのストーリーはそもそもストーリーとはいえない。ホームズが人でないのと同じだ。

問題意識ふたたび:ストーリーは物語性の担い手となれるか?
命題説では、ストーリーは物語性の担い手にはなれない:ストーリーは物語のテキストから独立することができないから
出来事説では、ストーリーが物語性の担い手になれる可能性がある:ストーリーは物語のテキストと独立に特徴を持つことができるから

物語性の担い手は(部分的に)ストーリーであること(ストーリー構成説)の根拠。
物語の特徴づけは実際にはストーリーの特徴づけである:因果関係などは出来事が持つ性質であるので。この出来事が持つ性質を「経緯」と呼ぶ。

ストーリーは出来事であることの根拠
ストーリーは移植することができる:ストーリーは異なる作品やメディアに移植することができるが、命題説を取った場合、内容が変化しているため同じストーリーを移植することができなくなる。
移植についての三つの説明:混合説による説明・改良型命題説による説明・出来事説による説明
混合説による説明:ストーリーは物語により語られた出来事を含むが、それ自体は出来事ではない(抽象的存在者であり、時空的位置をもたない)
混合説の問題点:ストーリーに何が含まれているか決定する方法がない(物語とストーリーの関係性がはっきりしないので)

改良型命題説による説明:「ストーリーの移植にあたって求められるのは、厳密な同一性ではなく、緩やかな類似性である」
改良型命題説への反論:演出を変えて悲劇を喜劇にしたとするなど、同じストーリーだが類似性はない場合がある。

出来事説による説明:ストーリーは特定の複合的出来事(経緯)なので、それは様々な記述により特定できる。ストーリーの移植は、キャラクターの移植と同じように考えられる。

キャラクターの移植反実在論実在論どちらでも形而上学的問題はない
反実在論においてのキャラクターの移植:キャラクターは存在せず、ごっこ遊びにより存在するフリをしている。移植とはごっこ遊びゲームの拡大である。
実在論においてのキャラクターの移植:キャラクターは法や契約などといった抽象的文化的人工物である。移植とは、創作物としてのキャラクターに対する新たな想像であり、移植作品におけるキャラクターは現実においても原作キャラクターと同一である。

ストーリー移植とキャラクター移植の類似性:どちらも単なる偶然的類似だけでなく、元の作品を適切に知っていなくてはならない。また、重要な部分が保持されていなくてはいけない。

ストーリーの同一性基準のあいまいさの説明:出来事説においては、ストーリー同一性基準が曖昧であることが説明できる。キャラクターの同一性と同じように、ストーリーに対しても鑑賞者の相対的判断で同一性基準が分かれる。

行為における合理性と因果【山田友幸(2013)】

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ある理由が行為を合理化するのはどのようなときか?:人が一定の種類に対するある種の賛成的態度を持ち(欲求)、自分のする行為がその種のものだと知っている(信念)場合(デイヴィッドソンの立場、ホーガンとウッドワードがさらに条件を足しているが省略)
行為の因果説:上のように定義される主要な理由は行為の原因である。

因果説に対するサールの反論:欲求と信念により因果的に決定される行為は合理的ではなく、不合理的である。
三つのギャップ:サールが提唱した理由と行為の間のギャップ。
合理的意志決定における理由と決定の間のギャップ:選択の余地がないときは合理的意志決定とはいえないが、因果的決定に自由はない。
意思決定と行為の実行の間のギャップ:意思決定をしたとしても、その行為を実行しないことがあるが、事前の決定が因果的決定なのであればそんなことは起こらないはずだ。
時間のかかる行為の開始と完遂までの継続のギャップ:行為を決定したとしても、その行為を継続して完遂するためには自発性が必要であるが、因果的決定にはそれがない。

サールの志向性理論:意図的行為において、事前意図(prior intention)と行為内意図(intention-in-action)が区別される。
行為内意図は事前意図や行為の理由により因果的に決定はされない。(ただし、行為内意図は身体行動を因果的に決定する)
サールに対しての反論:これらのことは直観的には正しいが、自由意思が幻想であることも考えられる。

自由意思論争:自由意思が存在するという信念と宇宙が物理法則により決定される閉じたシステムであるという前提が矛盾するのをどう解決するかという論争。

理由の熟慮と意思決定の間の関係:もしもこの関係が決定論的であれば、自由意思はないという立場をサールはとる。では、どのような関係が成り立つのか?二つの仮説がある。
仮説①:物理的な脳状態の変化は因果的に決定されているが、それにより引き起こされる理由の熟慮と意思決定の関係は決定的ではない。
    →もしそうであれば、合理的な意思決定は物理世界に影響を及ぼさないということになるが、なぜそのようなシステムが進化してきたのかという問題が生じうる。
仮説②心理的なレベルのギャップに対応して、物理的なレベルでもギャップがある。サールはこちらを支持する。

仮説②は神経生物学の説明を矛盾するのではないか?:サール「そんなことはない」
仮説②と矛盾すると思われる神経生物学の実験:リベットの実験(行為内意図に意識的に気づく350ミリ秒前に脳では準備電位が発生している)
リベットの実験は自由意思と矛盾しない:刺激に意図的に気づく前に行為がはじまっていようとも、その行為は事前意図に依存する(たとえば、野球選手の身体運動は前意識的であるがそれらは練習により生み出される)
物理的ギャップはどこにあるか?:脳システム全体の意欲的な部位において生じていることと、その次に生じることの間

だが、そもそもなぜ、因果的に不十分な条件の説明(サールにおいての「理由」)が説明として受け入れられるのか?:理由の説明とは、「なぜあなたがそれをしたのか」という問いに対するものであり、「それ以外のことが生じるのは因果的に不可能」ということを要求していないから。
サールが提唱する自我の概念:知覚の束に還元されない。欲求と信念が与えられ、推論の上で行為する。それらの意志決定は理由に基づいているが、決定はされていない。自我は責任の位置する場所(the locus of responsibility)である。自我の選択は自らがこれから行うことに関わる選択である(時間のなかで時間に関して推論する存在)。これらは脳の神経生物学的システムの特徴だ。
「先行する因果的十分条件に基づくのでなしに、因果的に進行するメカニズム」が必要になる。このメカニズムの可能性は真剣に検討するべきである。

理由の内在主義と外在主義【鴻 浩介(2016)】

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動機理由と規範理由:二種類の行為の理由。
動機理由:行為者を行為へと動機づける理由。「~である」命題
規範理由:行為を支持し、客観的に正当化する理由。「~すべき」命題


理由の内在主義:規範理由についての説。考慮事項Aがある行為の理由であるならば、行為者はAにより行為へと動機づけられることが可能でなければならない。
内在主義の一般形:ある存在者R、行為者A、行為タイプTについて、Rが「AにとってTをなすべき理由」ならば、ある自明でない条件Cが整えられれば、AはRによってTすることへと動機づけられるだろう。
Rには何が入る?:心的状態の内容となる存在者
条件Cとは?:たとえば、正しい知識を持っていたならば、などのRによる動機づけが生じる条件。この条件を限定すれば内在主義全体はより広範囲に合う説となり、逆にCが広範囲にわたると内在主義が広範囲に適合するのかは怪しくなる。
動機的力の要請:内在主義の根拠。規範的力は動機的力を含意する。

 

徹底的な外在主義:理由は動機的力を持ってない。主張者にはパーフィットなどがいる。
では規範的理由とは何?:道徳的真理であり、それは信念に働きかける力を持っていない。
理由の根源主義(primitivism):理由とはそれ以上説明できない概念であるという立場、外在主義と親和性が高い。

 

内在主義の根拠①:理由は推論において考慮事項となる、ゆえに行為の理由は実践的推論において利用される。実践的推論は動機付けプロセスであるため、理由は動機的力を持つ。
内在主義の根拠②:「認識的アクセス不能な事実は行為の理由になりえない」ということを説明できる(Cの設定により)
内在主義の根拠③:実際に理由に動機づけられるかとは別に、理由によって動機づけられるべきということは広く認められる。「べし」が「できる」を含意するならば内在主義が帰結する。

 

内在主義の諸理論:Cをどのようなものにするかにより分岐する。

熟慮的内在主義:Cとは「行為者が自身の主観的動機群を前提としたうえで、理想的な熟慮を行うこと」である。提唱者はウィリアムズ
主観的動機群:行為者を動機づける心的状態。欲求・評価の傾向性・情動的反応のパターンなど
理想的な熟慮とは?:相互に矛盾しないなどの形式的な制限(内容で制限しているわけではない)

熟慮的内在主義の問題:主観的動機群に共感的動機が欠けるためにいじめを行う人物に対しては、いじめをやめる理由はないことになる。道徳的相対主義をとれば回避できる問題。
理由の数に関しての過少生成:熟慮的内在主義は理由の存在を不当に制限しているという批判。

内在主義の返答①:事実を正しく認識するということは、それだけでいじめを止める理由となるため、正しく熟慮すればいじめは止めるはずだ。
内在主義の返答②:行為者である限り必ず有している特権的動機が存在する(この論文では詳しく書かれていない)
内在主義の返答③:Cに形式的な合理性だけではなく、実質的合理性を条項に加える。「理由は合理的な人物を動機づけねばならない」ため、非合理的人物がいかに熟慮を重ねても動機づけられないことが、行為の理由ではないことにはつながらない。

 

著者が言う熟慮的内在主義のメリット:「合理的説得」をよく説明できる。行為者に正しい熟慮をうながすことが合理的説得である。

著者の主張:共感的動機に欠ける人物は、いじめを止める理由がない。
錯誤論:いじめをする人物にいじめをやめる理由がないことと、わたしたちにいじめを止めさせる理由があることは両立するが、両立しないように錯誤してしまう。

理由の哲学 メモ②

参考文献

ci.nii.ac.jp

知覚に関する三つの立場:センスデータ説、志向説、選言説

センスデータ説:知覚において主体が気づいているのは、実在物ではなくセンスデータである。
幻覚論法:センスデータ説を支持する論法。実在物はないのに主体にとってあるものが存在している見えることがある。主体が気づいている何かが存在するならば、それは実在物ではなくセンスデータである。もし知覚と幻覚が同じ心的状態であれば、知覚においても主体が気づいている何かはセンスデータである。

志向説:主体にとってあるものが存在するように見えるというところから、あるものが存在するということは導出できない。知覚と幻覚はそれぞれ現実を志向するものという面で同一だが、前者の志向内容は現実に一致し、後者は一致していない。

選言説:知覚と幻覚は全く異なった種類の心的状態である。知覚は部分的に実在物に構成されているが、幻覚はそうではない。

 

行為の理由に関する三つの立場

心理主義:行為の理由は心的状態であるという立場。センスデータ説と同じ形式の論法で正当化される(行為を説明する理由は成立している何かであり、行為者の信念が偽のときも行為の理由がある、両者の理由が同種だとすると、両者に共通する理由としては心的状態以外にはない)

心理主義:行為を説明するのは目的や事実であり、行為者の心的状態ではないという立場。
ダンシーによる反心理主義の擁護:行為の理由説明文は事実でなくともよい。行為者の信念が偽の場合でも非実在的な信念の対象が理由となる。
規範制約:「行為を説明する理由は、その行為を正当化しうるものでなくてはならない」というテーゼ。反心理主義の核心。心的状態を理由とすることはこのテーゼを満たさない。
目的・事態・事実:反心理主義において行為の理由の候補。志向説と被せて考えるならば、行為の理由は行為者が志向した先にあるもの=目的となる。

選言説:行為の理由は行為者の信念が真であるか偽であるかに応じて変化する。信念が真のときはその対象が理由となるが、偽のときは心的状態が理由となる。
選言説の問題点①:行為者の信念が偽の場合、規範制約に違反する。
選言説の問題点②:行為の理由は信念の真偽に依存しないという原理(共通項原理)に違反する。