水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

プロフィール

Profile

草野原々(くさの げんげん)

日本のSF作家。未訳SFインフルエンサー。現在、横浜市在住。

1990年 北海道室蘭市生まれ、広島県東広島市育ち。

日本SF作家クラブ所属。

 

連絡先

https://twitter.com/The_Gen_Gen

マストドン 草野原々/GenGen Kusano (@GenGen@fedibird.com) - Fedibird

カクヨム https://kakuyomu.jp/users/The_Yog_Yog

OFUSE  草野原々 | OFUSE (オフセ)

お仕事のご依頼は

theyogsototh★gmail.com

まで(★を@に変えてください)。

 

これまでの活動

受賞歴

・「最後にして最初のアイドル」にて第4回ハヤカワSFコンテスト特別賞第48回星雲賞日本短編部門第16回センス・オブ・ジェンダー賞〈未来にはばたけアイドル賞〉を受賞。

・「暗黒声優」にて第50回星雲賞日本短編部門を受賞。

第27回暗黒星雲賞ゲスト部門受賞

・短編集『最後にして最初のアイドル』にて第39回日本SF大賞最終候補作

  

小説

単行本

『最後にして最初のアイドル』(2018年1月 ハヤカワ文庫JA
 「最後にして最初のアイドル」(2016年11月 早川書房電子書籍】 / 再録:『伊藤計劃トリビュート2』2017年1月 ハヤカワ文庫JA
 「エヴォリューションがーるず」(2017年7月 早川書房電子書籍】)
 「暗黒声優」(書き下ろし)

 

 

『これは学園ラブコメです。』(2019年4月 ガガガ文庫

 

 


『大進化どうぶつデスゲーム』(2019年4月 ハヤカワ文庫JA) - 冒頭部のみ『S-Fマガジン』2019年4月号に先行掲載された。

 

 


『大絶滅恐竜タイムウォーズ』(2019年12月 ハヤカワ文庫JA

 

 


雑誌掲載短編作品


「【自己紹介】はじめまして、バーチャルCTuber 真銀アヤです。」(『小説すばる』2018年10月号 掲載)


「幽世知能」(初出:『S-Fマガジン』2019年2月号 / 再録:『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』2019年6月 ハヤカワ文庫JA

 

 


「理由農作錬金術師アイティ」(『三田文学』2019年春季号 掲載)

「札幌 vs. 那覇」(『文芸ラジオ』第5号(京都造形芸術大学東北芸術工科大学出版局藝術学舎発行、2019年7月)掲載)

「いつでも、どこでも、永遠に。」(『NOVA 2019年秋号』2019年8月 河出文庫 収録)

 

 


「断φ圧縮」(『Sci-Fire 2019』2019年11月 / 『ベストSF2020』大森望編 2020年7月 竹書房文庫 収録)

 

「また春が来る」(『S-Fマガジン』2020年8月号 掲載)

 

 


「三原則の盲点」(『小説すばる』2020年11月号 掲載)
「世界の真理を表す五枚のスライドとその解説、および注釈」(『異常論文』樋口恭介編 2021年10月 ハヤカワ文庫JA 収録)

 

 


「非-魔法少女」(『魔法少女まどか☆マギカ 10th Anniversary Book』第1巻 - 第3巻連載)

 

「かえるのからだのかたち」(日本SF作家クラブ編『2084年のSF』2022年5月、ハヤカワ文庫JA収録)

 

 

「カレー・コンピューティング計画」(『S-Fマガジン』2023年10月号収録)

 

 

エッセイ・論文等

・「草野原々インタビュウ」 - 『S-Fマガジン』2016年12月号 収録

・「Oh ! マイアイドル」 - 『小説すばる』2017年2月号 寄稿

・「『けものフレンズ』はなぜSFとして「すっごーい!」のか」 - 『S-Fマガジン』cakes版(Web上)2017年2月17日 寄稿

・「塾員クロスロード」 - 『三田評論』2017年5月号 寄稿

・「『最後にして最初のアイドル』星雲賞受賞記念インタビュウ」 - 『S-Fマガジン』cakes版(Web上)2017年7月22日 寄稿

・「SF映画総解説 ホーリー・マウンテン」- 『S-Fマガジン』2017年10月号収録

・「書評| 久木田水生、神崎宣次、佐々木拓 著 『ロボットからの倫理学入門』」 - 『応用倫理』第10号(北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター、2017年11月30日)

・「『ブラック★ロックシューター』から読み解く情動の哲学と人生の価値」- 『ユリイカ2018年3月臨時増刊号 総特集=岡田麿里』(青土社、2018年2月26日)

 

 

・「研究ノート:ソーシャル・ロボットへのフィクション論的アプローチ 社会的存在者としてのロボットはフィクションか?」-『応用倫理』13号(北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター、2022年6月30日)

eprints.lib.hokudai.ac.jp

その他の賃金が発生しない活動

・存在する(継続中)

AIの知能と目的――ボストロムの『直交仮説』を検討する

AIの知能と目的――ボストロムの『直交仮説』を検討する

  • AIの知能と目的――ボストロムの『直交仮説』を検討する
    • 0. はじめに
    • 1. ボストロムの直交仮説
    • 2. カント主義からの直交仮説への反論ルート
    • 3. 道徳的実在論からの直交仮説への反論ルート
    • 4. 自然科学的知見からの直交仮説への反論ルート
    • 参考文献

 

0. はじめに


AI倫理のテーマとして、われわれ人間はAIを道徳的被行為者とするのだろうか(するべきか)という問題と、われわれはAIを道徳的行為者として道徳的コミュニティの一員にするのか(するべきか)という問題が議論されている。しかし、本論では、それとは微妙に位相の異なる第三の問題を議論する。すなわち、AIは人間を道徳的被行為者とするのか?という問題である。
このような問題を論ずることは、無意味な空論なのだろうか?そうであるか否かは、AI技術の発展の速度に依存する。現在のところ実在するAIは、限定的な環境下で専門的なタスクを処理する「弱いAI」である。一方、無制限な環境下で汎用的なタスクに対応できる知能を持つ「強いAI、汎用的人工知能/Artificial General Intelligence/AGI」が比較的短い期間(今後百年以内)に生まれると主張する科学者や哲学者も数多くいる。さらに、いったん、AGIが誕生すると、再帰的に自らを自己改良することで、知能が爆発的に高まり、人類の制御を離れていくという『技術的特異点』シナリオの想定は広くいきわたっている。このような想定をする代表的論者に、 ホーキングやイーロン・マスクレイ・カーツワイルそして今回取り上げるニック・ボストロムなどがいる。もしも、この想定が正しければ、AIが人間に対して倫理的配慮をしてくれるのかという問題は、遠未来(数百年後)の倫理的課題ではなく、近未来(数十年以内)から中未来(百年以内)に生ずる喫緊の課題となるだろう。
この問題は、高度な知能を持つ行為者は倫理的目的をも持つだろうかという形でフレーミングすることができる。第一節では、行為者の知能と目的は相互に無関係だとするボストロムの「直交仮説」を紹介し、第二節以降でその反論を考える。第二節ではカント主義、第三節では道徳的実在論、第四節では自然科学の知見を使った反論を取り扱う。

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スティーヴン・バクスター最新作"Creation Node"日本語最速レビュー!:まさかのバクスター版『魔法少女まどか☆マギカ』だった!?

イギリスのSF作家スティーヴン・バクスターの最新作『Creation Node』を読みました。壮大なファースト・コンタクトSFであり、また、従来のSFを批判的に検証するメタ・ファースト・コンタクトSFでもありました。

 

 


さらに、タイトルにも書いているようにアニメ『魔法少女まどかマギカ』と共通する展開もあって、非常に興味深かったです。

バクスターを洋書で読んでいる人は、日本でそれほどいないと思うため、記録しておきます。現代日本SF作家のなかで頭角を現すために、バクスターの最新作を読んでいることをアピールしたいと思います。今年の九月に発売されたばかりなので、日本語圏では最速レビューだと思われます。願わくば、これを機に未訳SFをどんどん紹介して、「未訳SFインフルエンサー」になりたいです。


【あらすじ】

(注意:完全にネタバレです!)


舞台は西暦2255年(二十三世紀中盤)。人類は前世紀に起こった気候変動による大災害から、なんとか回復しつつあるところだった。
人類の勢力は主に三つに分かれていた。一つ目は保全派(コンサーバー)」という党であり、気候危機を教訓に、可能な限り再生可能資源を使い、非可逆的な変化を起こすことを禁止する。二つ目は「ルナ・コンソーシアム」という月を中心とした企業グループであり、産業革命的に太陽系の資源を使い人類を拡大させるという思想を持っている。両者のあいだにいるのが、プラグマティックに雑多なグループが集まった「地球政府」だ。
この時代、すでに太陽系の惑星間を移動できるほどの技術はあるが、宇宙船の主要な動力源はウランを利用した核分裂であり、ヘリウム3を利用した核融合推進はまだ実験段階である。だが、未来を見越して、地球と月のあいだに、ヘリウム3と窒素の輸出入をめぐる貿易摩擦が起き始めていた。
そんななか、仮説的に存在が推論されている第九惑星へ向かって、太陽系外縁部であるオールトの雲に調査船「シャドウ」が飛行していた。保全派が作った「シャドウ」は核分裂推進ではなく、太陽風推進を使ったものだ。
主人公のサルマは、「シャドウ」のなかで生まれた二十歳の女性だ。彼女の母親は乗組員であったが、航行の途中でがんにより死亡し、代理として母親の胚から、人工授精によりサルマが生まれた。
「シャドウ」が第九惑星へと近づくと、それは惑星ではなくマイクロ・ブラックホールであることがわかった。この種のブラックホール超新星爆発ではなく、ビッグバン直後でのみ生成されるはずのものであり、宇宙と同じくらい古いはずだ。
サルマはブラックホールから放射されるホーキング放射が規則的であることに気づく。謎の知性が人類へコンタクトしているのだと考えたサルマは、返信を送る。その瞬間、ブラックホールが膨らみ、変化して固形の惑星へと変容していく。
その惑星の質量は地球十個分であり、その直径は地球の三倍強である。その結果、表面重力はほぼ1Gとなっていた。また、表面温度も地球平均と同じ摂氏15度であった。

サルマが地表に降りると、容器に入ったエイリアンを発見する。ヒューマノイドであり、羽根に覆われて外見は鳥人のようだ。しかも、地球と同じような大気を呼吸しているらしい。エイリアンは酸素が不足して気絶し、宇宙船へと回収される。
その事件と同時に、銀河系中央にある異常が確認される。巨大な爆発であるクェーサーが発生し、その余波は太陽系全体を熱し始めたのだ。しかも、クェーサーは指数関数的に強力になっており、あと千年ほどで地球は金星と同じような暴走温暖化を起こすと推定された。

一方、第九惑星軌道上の宇宙船「シャドウ」では、乗組員たちがエイリアンと会話しようとするが、なかなかできなかった。そもそも、そのエイリアンは転送されてきたのではなく、容器のなかで「生まれた」ばかりなのではないか? という説も出される。
エイリアンは「フェザーズ」と名づけられる。彼女の使う言語は人類よりも複雑な情報量があるらしいが、解析できない。しかし、サルマはフェザーズと交流し、姉妹のようになる。
フェザーズの羽根は紫外線やガンマ線など、地球環境よりも強い光線を吸収し、再利用するようにできているらしい。なんらかの共生生物なのかもしれなかった。その機能から、彼女の母星は恒星に近い惑星であったのではと推論される。
疑問なのが、「なぜフェザーズはヒューマノイドなのか?」ということだった。生物の形態は地球上であっても多種多様だ。いままでに百兆種の生命種が存在した。一方で、天の川銀河には最大限見積もっても、生命が住める惑星は400億個程度しかない。知的生命はみんなヒューマノイドになるという、ありそうのない前提がない限り、フェザーズは超銀河団クラス(一億光年レベル)以上に地球と遠い距離から来たこととなる。
さらに、フェザーズのDNAタイプは地球生命のものと類似していることがわかる。これはもっとおかしなことだ。地球生命のDNA構造は、アミノ酸による偶然の組み合わせが生みだしたものであり、その他の実現性のある組み合わせは無数にある。原理的にタンパク質構造の組み合わせは10の39乗通りあるはずだ。一方で、この宇宙には10の22乗個の恒星しかない。

その謎に対処するために「啓示仮説」が提唱される。フェザーズ自身はこのコンタクトに主体的に関わっておらず、むしろ、フェザーズ自体がメッセージの内容であるという説だ。フェザーズを送ることで、謎のコンタクターは「多元宇宙が実在する」ことを示しているのではないか。

それから四年後の2259年。一隻の宇宙船が土星に到着しようとしていた。それはヘリウム3核融合推進を搭載した地球政府の実験船「クロノス」であり、土星でヘリウム3を補充したのちに、いままで30年かかっていた第九惑星への道のりをわずか一年で踏破する計画であった。
だが、そこに突如、ルナ・コンソーシアム建造の宇宙船「アクィラ」が現れる。「クロノス」は自慢の核融合推進で逃げきろうとするが、両者の思惑が不幸な形でかみ合ってしまい、接触事故を起こしてしまう。
事故で多数の乗組員が死亡したが、「クロノス」は「アクィラ」を振り切って、第九惑星へと舵を切る。

地球政府の大統領科学顧問エリザベスを含む「クロノス」の乗組員たちは「シャドウ」乗組員たちと合流し、第九惑星に降り立つ。そこでさらなる通信に返信すると、ポータルが現れた。
ポータルを通った一行は、重力が軽くなっていることを感じる。別の惑星へと転送されたようだ。
その惑星には、岩とがれきばかりの大地が広がっていた。さらに、空を見ると、巨大な光が、まるで嵐のように渦巻いていた。活動的なクェーサーだ。さらに、空に浮かぶ星々はとてつもなく巨大で明るい。
調査の結果、奇妙なことが判明する。この惑星はコアとマントルが冷え切り、完全に地質活動が止まった状態だ。おそらく、地球よりも十倍も二十倍も古い惑星で、生まれてから一千億年ほどは経っているだろう。
だが、宇宙を観測すると、まったく違う事実が示される。大量の明るい超巨大恒星が示すものは、この宇宙自体が非常に若いということだ。ビッグバンにより直接生成された水素とヘリウムが高密度で空間に分散している状態でしか、このような現象は起きないはずだからだ。この宇宙自体が、生まれてからせいぜい、数百万年しか経っていないはずだった。さらには、クェーサーは銀河が成立していないと発生しないが、最初の星々が誕生したときには銀河は存在しなかったはずだ。空と大地で、過去・現在・未来という両立し得ない三つののランドスケープが合体しているのだ。

また、それらの若い恒星のスペクトラムを分析したところ、緑色を帯びていることがわかった。緑色の恒星など、これまで知られていない。いったい、どういうことだろうか?

一行はさらに探索を続けると、フェザーズと同じ種族らしき生物の骨が、いたるところに転がっていることがわかる。まるで、かつてここで大量虐殺が起こったようであった。
戸惑うサルマたちの前に、「テルミナス」と名乗る存在が接触してくる。それは宙に浮く輝く銀色の球体という姿をまとっていた。「テルミナス」はローマ神話における「境界の神、バウンダリーの守護者」の名だ。
テルミナスはサルマたちに「あなたがたの避けられない宇宙の絶滅から、救ってあげよう」と提案する。

テルミナスの自己紹介によれば、それは多元宇宙を渡り歩く能力を持っており、あまたの宇宙に干渉をし、生命・知性・複雑性を増大させるためのプロジェクトを遂行しているらしい。
多元宇宙は無限に広大だが、物理法則のもとで生命が発生する確率はとてつもなく低く、人類がいる宇宙には地球にしか生命は存在しない。また、時間的にも生命が存在できる期間はわずかだ。一兆年後には恒星の形成は止まり、エネルギーと物質は拡散し始める。百兆年後には、最後の恒星が死に絶え、宇宙は光なき広大な暗闇となる。残った冷たい星の残骸も、10の36乗年ほどで陽子崩壊を起こし蒸発する。そして最後にはブラックホールすらもホーキング放射で蒸発し、宇宙はなにもない空間だけとなる。だが、その空間内でも量子的不確定性は続き、ランダムな情報が現れ、消えていく。
テルミナス自体が出現したのは、そうした孤絶宇宙だ。宇宙が熱死したはるかはるかあと、ランダムな情報が幾度も現れては消えていき。ついに、途方もないまったくの偶然により、知性を創発する情報が組み合わさったのだ。量子的不確定性の純然たる偶然でできた知性体『ボルツマン脳』こそテルミナスの正体だった。ランダム情報のちらつきによる知性体!

テルミナスは熱死に至る宇宙の運命を変えることができると言う。絶滅の運命を変更された宇宙がさっき空に見たものだという。つまり、緑色をした初期巨大恒星で満たされた、一見、非常に若い宇宙だ。テルミナスはそれを「無限に古く、また新しい宇宙」と称する。
この宇宙は、無限の生命に満ちあふれた宇宙であった。恒星の緑色は、恒星軌道上に建造された無数の球体からなるダイソン雲から漏れた光だったのだ。恒星規模の温室集団が作られ、そこで光合成が行われていたのだ。
またこの宇宙は、無限に広いだけでなく、無限の過去と未来を持っていた。無限に膨張し続けるが、空間から新しい原子が生成され、新しい星が無限の期間に誕生し続けるのだ。単一の「ビッグバン」ではなく、いつまでも続く無数の「リトルバン」で連続的に創造され続ける世界、それが「無限に古く、また新しい宇宙」の正体であった。(フレッド・ホイルの定常宇宙説で提唱された宇宙だ)

この宇宙は、空虚で孤独な我々の宇宙とは違い、無限の生命と無限の知性、無限の豊穣さで満たされていた。どんな生命体、どんな知性でも、宇宙のどこかには実在しているのだ。どんな想像をしても、それは宇宙のどこかには実際にあるのだ。ありとあらゆる可能性で満たされている宇宙なのであった。
その宇宙の鍵となるのが、天空を彩る巨大クェーサーであった。それが「クリエーション・ノード(創造の結び目)」なのだ。『結び目』は、多元宇宙の起源である高次元基体からのエネルギー漏出を可能とするものだ。この「クリエーション・ノード」により、有限宇宙は無限宇宙に改造される。限りある宇宙から開かれた宇宙への永劫創造だ。
複数の宇宙をつなぐブリッジを確立するには、両側からの情報の通信が必要だった。そのために、テルミナスは第九惑星のホーキング放射によりサルマたちと通信を確立し、宇宙をつないだ。そして、銀河核のクェーサー化は「クリエーション・ノード」創造への準備であった。

テルミナスは「あなたたちに永遠をあげよう」と言って、契約を持ちかけてくる。天の川銀河の核は「クリエーション・ノード」になりつつあるが、さらに進めて宇宙の銀河の核たちをノードに変換するか、それとも止めるかという選択を強いてくる。

だが、そこでサルマたちはフェザーズの文明はどうなったのかをテルミナスに聞く。すると、悲劇的な事実が明らかになる。フェザーズの文明たちは、クリエーションノードを作る過程で惑星全土が焼け焦げ、滅亡してしまったのだ。
テルミナスは、人類の住む宇宙は若いのでもっとうまくいくと主張する。しかし、サルマたちはテルミナスとの契約を拒絶し、与えられようとした永遠の宇宙を投げ捨てる。その答えを聞き、テルミナスは「もしもきみたちやきみたちの子孫が心変わりしたならば、いつまでも待ち続ける」と言って消え去る。

科学顧問のエリザベスはテルミナスに希望を伝え、太陽系に戻っていったが、サルマたちはフェザーズの惑星の荒野に残る。残った人々は生活のための準備を整え、さらなる目標に向かって進む。フェザーズの人生を豊かなものにするという目標だ。クリエーション・ノードがあるこの宇宙では、フェザーズの文明は過去を失ったが、未来は無限に開けているのだ。
サルマたちは、クリエーション・ノードの光エネルギーを利用しながら、岩石から酸素や水を抽出し大気を復活させようとする。そして、過去の地層を掘り起こし、生態系の遺伝子を手に入れ、この惑星の生物圏の復活を目指すのだった。
永遠の未来へ向けて。


【感想】

バクスターは日本では超巨大規模ハードSFスペースオペラの〈ジーリー〉シリーズが有名です。そのこともあって、彼は「物理学を使った気宇壮大なSF」を書く作家と評価されています。確かにそれは正しいのですが、彼の作風はそれだけではありません。バクスターは壮大な宇宙規模の災害や破滅、争い、喪失、孤独、絶望、苦しみなどネガティブなことを真っ正面から描く実存的な作家でもあるのです。

たとえば、デビュー長編である『天の筏』では、重力定数が大きな宇宙に迷い込んだ人類の子孫が、迫りくる不可避の世界崩壊から脱出する話です。

天の筏 (ハヤカワ文庫SF)

ジーリー〉シリーズは数百万年におよぶ人類と「ジーリー」との戦争が描かれ、最後には暗黒物質生命体により星々が死んでいきます。

プランク・ゼロ (ハヤカワ文庫 SF ハ 9-8 ジーリー・クロニクル 1)

『Evolution』では白亜紀の哺乳類から現在の人類、はるかな未来の火星のロボットまでの生と絶滅を延々と描きます。

Evolution (GOLLANCZ S.F.) (English Edition)

『Flood』では謎の海面上昇により地球すべてが海に沈みます。『Proxima』では未来のない外宇宙植民地での苦悩を描きます。『World Engine Destroyer/Creator』では、太陽系崩壊の危機を探るためにいくつもの平行宇宙を渡り歩いたすえに崩壊は避けられないことがわかります。

Flood (English Edition)

Proxima (English Edition)

World Engines: Destroyer: A post climate change high concept science fiction odyssey (English Edition)

『Galaxias』では突如として太陽が消失し、地球が寒冷化していきます。本作の前に書かれた『Thousands Earth』では、虚無に呑みこまれることが確定している平面世界が出てきます。

Galaxias (English Edition)

The Thousand Earths (English Edition)

バクスターはまた、ファースト・コンタクトというテーマをよく扱ってきましたが、そこでたびたび持ち出されるのが『フェルミパラドックス』という思考実験です。「もしも、宇宙に知的生命体がいるならば、すでに接触が起こってもおかしくないはずなのだが、なぜコンタクトはまだなのだろうか?」というもので、その疑問に対して、バクスターは過去の作品でさまざまな回答を出してきました。

たとえば、『Manifold:Time』では、この宇宙において人類は最初で最後の知的生命体であるとしました。逆に、『Manifold:Space』では、この宇宙は生命と知性に満ちあふれているが、定期的に起こる宇宙規模の大災害により一掃されるためコンタクトが行われないという設定でした。『Thousands Earth』では、宇宙には知性で満ちあふれているが、我々が気づかないだけであるという解答が描かれました。

Manifold: Time (English Edition)

Manifold: Space (English Edition)

本作でも、バクスターがいままで追求してきたテーマがさらに突き詰められています。この作品のプロットは、王道のファースト・コンタクトSFでありますが、SFがこれまで描いてきたファースト・コンタクトSFを批判的に検証するメタ・ファースト・コンタクトSFでもあるのです。

ファーストコンタクトSFは、大きく分けてふたつの潮流があるでしょう。ひとつはイージーなコンタクトで、異星人がなにを考えているかや、どんな情報を発しているかが比較的簡単にわかります。もうひとつはハードなコンタクトで、異星人がなにを考えているのか、そもそも『考えて』いるのかすらあやふやで、ましてや、意味のある通信などできません。前者は『三体』や『プロジェクト・ヘイル・メアリー』、後者は『ソラリス』や『ストーカー』、『ブラインドサイト』などがあてはまります。
バクスターの全体的な作風としては、イージーとハードの中間くらいでしょうか。代表作『ジーリー』シリーズにおいては、宇宙には様々な知性体がひしめいており、一応の意思疎通ができる知性体も存在しますが、宇宙における最大勢力をほこるジーリーという文明は謎につつまれています。

イージーなコンタクトを描く一昔前のSFは、よくヒューマノイド・タイプの宇宙人が登場します。まるで、知性を持つ存在は人型でなければいけないという暗黙の前提があるようです。バクスターはその暗黙の了解を批判的に検証し、確率論を使って、いかにヒューマノイド・タイプの異星人がありえないかを論証します。ヒューマノイド・タイプがコンタクトしてきたということは、それだけで超銀河団規模以上の遠方からやって来たと推論できるのです! 人類に似ている宇宙人がコンタクトしてくるということは、多元宇宙を持ち出さなければいけない。逆にいえば、多元宇宙を持ち出せば、古典的なヒューマノイド・タイプ宇宙人が登場しても合理的である。このように、いままで「お約束」だとされてきたところに、確率論を使い批判的に検証し、さらに最大限にその議論に沿うように新しい設定を導入する。このところは、読んでいて非常に感動しました。

確率論に基づく地球外知的生命体の議論は、バクスターの作風である『荒涼とした宇宙』にも通じるところがあります。この宇宙において、生命は地球にしか存在せず、人類は空間的に孤独であり、宇宙には意味のない茫漠とした広がりだけが果てしなくあるだけなのです。しかも、空間だけでなく時間においても我々は『孤独』なのです。生命が住めるのは宇宙のある期間にすぎません。この宇宙の行きつくところは決まっており、星も原子もブラックホールでさえも消え去った本当になにもない広がりだけが未来に待っているのです。このビジョンは、まさに、バクスターがこれまで描いてきた『大災害/ディザスター』の最たるものでしょう。この宇宙そのものがディザスターなのです。
一方で、我々の宇宙と対比される形で、豊穣な宇宙が描かれます。それが、フレッド・ホイルが提唱した定常宇宙です。空間方向だけでなく、過去方向にも未来方向にも無限に続く宇宙であり、無限の昔から生命に満ちあふれています。すべての恒星は植物を示唆する緑色に染まり、ありとあらゆる種類の生命が存在し、起こりうる可能性はすべからず実現しているのです。まさに、究極のユートピアといえるでしょう。

本作はある種のユートピアSFとも読めます。我々の宇宙という極限的ディストピアに対比される、定常宇宙という極限的ユートピアが描かれます。定常宇宙を創ったのは、その豊穣さとは真逆の絶対的に孤独な知性体、ボルツマン脳です。宇宙の陽子崩壊後という「ポスト・アポカリプス」を経て、『偶然』で構築された知性がユートピア宇宙を創るのです。このふたつの宇宙の対比が非常に美しいと感じました。概念的なシンメトリーが描かれており、一種の抽象絵画のように美を読者に感じさせるポイントでしょう。
ボルツマン脳であるテルミナスは、ユートピアを与えるためにサルマたちに『契約』を迫ります。この筋書きは、民話から、『ファウスト』、『魔法少女まどかマギカ』に至るまでの悪魔の取引のストーリー類型となっています。類型通り、この取引には裏があり、定常宇宙を創る過程でフェザーズたちは絶滅したことがわかります。メフィストフェレスキュゥべえに比べると、テルミナスはやや良心的で、正直にリスクを告白します。「宇宙を作り変えるのはたいへんに難しい事業でして……」という言い訳すらしてきます。このシーンは、隔絶した超知性というテルミナスの印象を覆すもので、わたしの好みからはやや外れていました。

しかし、『魔法少女まどかマギカ』における、キュゥべぇの台詞「君たち人類がいつか宇宙を相続するとき、荒れ果てた宇宙では嬉しくないだろう? だから僕らは、君たちのためにも、宇宙のためにも、魔法少女の力を利用しているんだよ」を思い出し、スティーヴン・バクスターと「魔法少女まどかマギカ」というおそらくまったく関係のない両者が同じ問題意識と発想でストーリーを創ったことに驚きを感じました。(バクスターまどマギを見ていた可能性はゼロではないですが)

物語のエンディングで、サルマたちはテルミナスの宇宙改造を拒否し、故郷に戻ることもせず、フェザーズの惑星で生態系と文明を復活させるべく作業を開始します。ここは、『人類の繁栄』といういままでSFにおいてよくあったハッピーエンドとはまた別のアプローチを切り開いており、興味深く読んだポイントでした。とくに規模が大きなSFにおいて、エンディングをどうするかという問題は悩ましいところであります。個人的なハッピーエンドを迎えたところで、宇宙の大きさに比べれば意味がないと感じてしまうのです。そこで編み出されたのが「人類が発展し繁栄していく」というある程度規模の大きなハッピーエンドですが、それもまた宇宙の命運の前では無意味でありますし、そもそも人類全体に感情移入をしている前提が必要になります。本作のエンディングは、『自らの宇宙の永遠を拒否し、かわりに、永遠が創られる過程で滅びてしまった惑星を復活させる』というもので、人類賛歌とは別の開けた希望のある終わり方でした。

ここまで賞賛しまくりましたが、本作には欠点があります。登場人物が主体的に物語に関わる点があまりにも少ないということです。主人公のサルマをはじめ「シャドウ」乗組員たちがやったことといえば、第九惑星のホーキング放射通信に返信したことと、最後のテルミナスとの契約を拒否したことだけです。あとはすべて科学と地球外知的生命体の確率論についての議論を延々と行っているのみなのです。むしろ、地球政府の「クロノス」やルナ・コンソーシアムの「アクィラ」の乗組員たちのほうが行為/アクションをしています。土星で両宇宙船が衝突するシーンは迫力満点です。しかし、「クロノス」や「アクィラ」は物語の本筋にあまり関わることがないため、どうにもチグハグな印象をいだいてしまいます。

そのような欠点はありますが、わたし自身、SFを読むときに登場人物にそれほど関心を払うことはないため、気にはなりませんでした。
本作は、いままでのSFが無視してきた地球外知的生命体の確率論についての議論や、宇宙のビジョン、印象的な風景描写などが満載です(あらすじには書きませんでしたが、土星のヘリウム3採取宇宙エレベーターの描写などもすばらしかったです)。バクスターお得意の壮大な実存的知的冒険エンタメの本領が発揮されているSFといえるでしょう。

 

【さいごに】


魔法少女まどかマギカといえば……。
わたしが執筆したスピンオフ小説「非-魔法少女」があります!

ええ!? それは読まなければ!!

まだ読んでいない人はいますぐ、『魔法少女まどか☆マギカ 10th Anniversary Book』全三巻を買いましょう!!!!

 

 

 

 

自作小説の感想をAIに要約・分析させ、リライトを提案させてみた。

自作小説の感想を読むのはけっこう精神力がいる。否定的評価が多い感想を読む際には、それなりの覚悟で臨まなければいけない。さもなければ、長い期間にわたり、メンタルダメージが尾を引くこともある。

だが、AIに感想集を入力し、その圧縮された情報を読むのは、比較的気楽にできる。強い言葉が緩和されるというのもあるが、肉体と人格を持っていないAIに言われても気にならないという点もある(そもそもいまの大規模言語モデルは長期記憶を持っていない)。

AIによってまとめられた指摘ならば、その言葉から適切な距離をとることができ、却って、指摘に従う気になるかもしれない。そう考えて、自作小説の感想をまとめさせてみた。

扱う作品は『大進化どうぶつデスゲーム』

 

読書メーターのページの感想を入力情報として利用。

AIモデルはClaude-2-100-kという、10万トークンのインプットが可能なものを使った。回数制限があるが、以下のサイトで、無料で使用できる。

Poe - Fast, Helpful AI Chat

AIによってまとめられた感想

この小説の感想をまとめますと:

  • 登場人物が18人もいて多すぎるという意見が多いです。名前とキャラクターの区別がつきにくいという指摘が複数ありました。
  • 百合要素については賛否両論あります。百合をメインにした作品だと期待した人もいれば、SFやサバイバル要素の方がメインだと感じた人もいます。
  • SF的な設定は評価する一方、ストーリー展開は平凡だった、あるいは設定とストーリーのバランスが悪かった、という意見が目立ちます。
  • グロテスクな描写に否定的な意見と、それがこの作者の特徴だと評価する意見の両方がありました。
  • 古生物の設定に関する知識の注入は高く評価する一方、キャラクターやドラマの描写はもっと掘り下げてほしいという要望が多数ありました。
  • 続編があることを前提とした上で、次作でもっとキャラクターを掘り下げてほしいという期待感がうかがえます。

以上のように、賛否両論はあるものの、壮大な設定と個性的な作者の特徴を評価する意見が多く、続編に期待する声が目立ちました。

ストーリー展開についての感想をまとめると以下のようになります。

  • 設定としては壮大だが、ストーリー展開は平凡だったという指摘が多数ありました。
  • ストーリーのテンポが速く、登場人物たちの心情の変化が追い切れないという意見がありました。
  • クライマックスがあっさりしていて盛り上がりに欠ける、と感じた人が多かったようです。
  • デスゲームというタイトルに反して、サバイバル要素が薄く、犠牲者も少なかったと感じた人がいました。
  • 伏線が回収されないまま終わったことに対する疑問の声がありました。
  • 設定とストーリーのバランスが取れておらず、設定を生かし切れていないという指摘がありました。
  • ラストが予想通りの展開だったために拍子抜けしたという意見が複数ありました。
  • 続編を前提とした急な終わり方であることへの不満が見られました。
  • キャラクターや人間ドラマの描写不足をストーリーの欠点と感じる意見が多数ありました。

という要約だった。

たしかに、18人のキャラクターを出すのは野心的過ぎたかもしれない。当時の思考を推測するに、おそらく、単純に18人を出せば組み合わせ爆発が起こり、多様なカップリングができるため、百合ファンは楽しめるだろうという想定であったのだろう。だが、組み合わせ爆発に着目した感想はあまりなかったようだ。

さらに、感想をもとにして、どのようなリライトが可能なのかAIに提案させてみた。

 

『大進化どうぶつデスゲーム』についての読者の感想を踏まえ、以下のようなリライトが考えられます。

  • 登場人物が18人も出てきて覚えきれないという指摘に対しては、登場人物を減らす、あるいは少数の主要人物に焦点を絞ることで改善できる。

  • 百合要素については、百合を前面に押し出すのか、サブ的に扱うのか方針を明確にする。

  • SFやサバイバル要素をメインに描写するなら、人間ドラマよりもそちらにページを割くこと。逆に人間ドラマ重視なら、SF的設定はminimizeにする。

  • ストーリー展開が平凡だと感じられるなら、予想外の展開を用意する、テンポを上げる等の改善が考えられる。

  • グロテスクな描写を控えめにすることで、より幅広い層に受け入れられる可能性がある。

  • 古生物の設定より、キャラクターや人間ドラマを掘り下げることを優先する。

このように、読者の反応に応じて、登場人物、テーマのバランス、描写のトーン調整等を行うことで、より多くの読者に訴求できるリライトが可能だと考えられます。

基本として「作品の方針は明確にしよう」という指摘だ。百合を主要にするかサブ要素にするか、SFにするか人間ドラマにするかをきっちりと明確にして、読者に伝える努力をしたほうが、読者が求めるものと作品内容のマッチングが起こりやすくなるだろう。

また、感想をもとに、AI自身に『大進化どうぶつデスゲーム』のあらすじをリライトするように頼んでみたら、こんなものが返ってきた。

読者の感想を踏まえ、最大限に読者を満足させるためには、『大進化どうぶつデスゲーム』のあらすじを以下のように修正するのが良いと考えます。

  • まず、登場人物数を減らし、主人公のミカと幾人かの主要人物に焦点を絞ります。ミカと親友の早紀を中心とした友情を描き、他の主要人物との関係も丁寧に描写します。百合描写は控えめにし、友情と冒険をメインに描きます。
  • 舞台は800万年前の地球から、ミカたちの通う学園がある現代に変更します。学園に謎の生物が現れ、ミカたちは学園や街を守るために戦うことになります。謎の生物とのバトルシーンを盛り込み、アクションとスリルを高めます。
  • ストーリー展開は予想外の謎と展開を用意し、読者を飽きさせません。同時に、登場人物たちの人間ドラマや友情、成長を丁寧に描写します。ラストはハッピーエンドを目指し、読者を感動させる内容とします。

このように、読者の要望に合わせ、キャラクター、舞台、ストーリー展開を調整することで、より多くの読者に支持される作品に仕上げることができると考えます。

なるほど、元の作品では、800万年前の北アメリカにタイムスリップして旅をするのであるが、今考えるとその旅の目的地や地形の設定が具体的ではなかったという反省点がある。それよりも、読者が想像しやすい現代日本の学園や街での攻防戦をやったほうが読者の興味をひけたのかもしれない。

近い将来、作品自体を読者の感想にあわせてリライトすることもできるようになるだろう。たとえば、「ちょっとキャラが多すぎるなぁ」と読者が要望すれば、AIが自動的に不必要なキャラをいなかったことにしたり、「もっとSF要素が欲しいなぁ」と要望すれば、自動的に新しいSF設定がついていたり、「もっと予想外の事件があったらいいなぁ」と要望すれば、自動的にどんでん返しが入ったりするだろう。

 

【2023/11/10更新】

一夜明けて、Claude2の回数が回復したので、さらに具体的にリライトについて聞いてみた。

「ストーリー展開ににおける予想外の謎と展開」をどのようにするのかがわからなかったので、具体的に考えてと聞くと、このような答えが返ってきた。

 

ストーリー展開における予想外の謎と展開の具体例を提案いたします。

学園に現れた謎の生物の正体が、実はミカのクラスメイトの一人であることが判明する。そのクラスメイトはなぜ生物に変身したのか。

謎の生物は時間跳躍能力があり、過去や未来を行き来していた。ミカたちもタイムトラベルして、謎の解明に挑む。

謎の生物は宇宙人が地球侵略のために作り出した兵器だった。宇宙人との決戦がミカたちを待っている。

ミカの幼馴染で親友だったはずの早紀が、実は謎の生物と接触し、ミカたちの敵となっていた。早紀を取り戻す方法はあるのか。

学園の裏には秘密組織が存在し、謎の生物を利用して世界征服を企んでいた。ミカたちはその陰謀に立ち向かう。

このように、親友の裏切り、時間跳躍、宇宙人、秘密組織の陰謀といった予想外の設定を導入することで、読者を驚かせる展開を作ることができると考えます。

 

これは驚きの展開だが、まだ設定が具体的ではない。そこをもっと詰めるように頼んでみた。すると、このような設定を考えてくれた。

 

ご指摘の通り、設定には不明確な点がありました。謎の生物について以下のように設定することを提案します。

謎の生物は、宇宙人が地球原産の生物を改造して作ったクローン生命体である。

時間跳躍能力は、宇宙人の技術でManipulator(マニピュレーター)と呼ばれる特殊な器官を移植されたことによる。

早紀は謎の生物に寄生され、操られている。本来の早紀の意思ではない。

学園の裏にある秘密組織「ギルド」は、宇宙人と接触しており、生物兵器の開発で牽制している。

宇宙人はギルドを利用して地球侵略を目論んでいるが、ギルドもまた宇宙人を騙して独自の目的を遂行しようとしている。

このように設定を明確化することで、ストーリーの整合性を保ちつつ、予想外の展開を提供できると考えます。ご意見いただければ幸いです。

 

「ギルド」と「宇宙人」の設定ですが、以下のように具体的に考えてみました。

【ギルド】

地球の富豪達で構成された秘密結社。表向きは財閥を形成している。

人類改良を目的としており、宇宙人のクローン技術を利用して超人兵士を作ろうと画策。

指導者はギルドの総帥であるレキシントン。冷酷な人物で、自らもサイボーグ化している。

兵士の制御には洗脳とドラッグを駆使。 orders(命令)に絶対服従させる。

【宇宙人】

地球侵略を企む異星人。体は半透明のクラゲ状で、劣化ウラニウムを力源にしている。

高度な科学力を持ち、タイムトラベルやクローン技術を駆使。情報解析能力も高い。

侵略の拠点は木星軌道上のマザーシップ。指導者は冷徹なファースター。

地球の生物を改造して兵器にしている。宇宙人自身の戦闘能力は低い。

このように、双方とも人類を道具として扱う怪しげな集団として設定することで、読者の戦うべき敵としての印象が強まるのではないかと考えました。

 

面白い設定だ。多少古めかしいSFである印象はあるが、これくらい振り切ったほうがエンタメとして優秀なのかもしれない。

最後に、絶対にヒットする『大進化どうぶつデスゲーム』のプロットを作らせてみた。

 

わかりました。それでは『大進化どうぶつデスゲーム』の全体の構成を以下のように提案いたします。

 

【導入部】

平和な日常を送る女子高生・ミカと親友の早紀を中心に、学園生活を描写。
二人の仲良しぶりと、ミカの引っ込み思案な性格を描く。


【展開部】

学園に謎のクローン生命体が現れる。パニックに陥る学園で、ミカと早紀は生徒を誘導して避難を手伝う。
クローンの正体を探るミカたち。早紀が寄生されていることが発覚。
早紀を取り戻すため、ミカたちはギルドと対決。時空を超えて戦う。


【クライマックス】

時空転移で白亜紀に到達。早紀のマニピュレーターを破壊し、本来の早紀を取り戻す。
母船で宇宙人と対決。地球侵略を阻止。


【結末】

学園に平和が戻り、ミカと早紀の絆がより強固なものとなる。
二人が世界の平和のために力を合わせることを誓う。

以上のような構成で、アクションと人間ドラマをバランスよく描写し、読者を納得させられる作品になるのではないかと考えています。ご意見をいただければ幸いです。

『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』で大流行!最近話題の概念「ワイドスクリーンバロック」ってなに!?

 

現在絶賛公開中のアニメ映画『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト

 


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では、物語のキーワードとして「ワイルドスクリーンバロックというものが多用されています。

 

「ワイルドスクリーンバロック」の元ネタは、おそらくSFのサブジャンルワイドスクリーンバロックでしょう。

この記事では「ワイドスクリーンバロック」とは何かをサーベイして、はたして『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』が「ワイドスクリーンバロック」なのかを考えたいと思います。

【簡単な要約】:「ワイドスクリーンバロック」のもともとの意味は規模が大きくてハチャメチャなスペースオペラくらいの意味合いだったが、日本に輸出されたことで意味合いが変わりアイデアがすごくたくさん出てくるSFくらいの意味になった。『劇場版レヴュスタ』は前者の意味合いには当てはまらないが後者には当てはまるかもしれない。

 

ワイドスクリーンバロック」の起源

はじめて、「ワイドスクリーンバロック」(Wide-screen baroque)という言葉が使われたのは、1964年でした。

この用語の考案者は、イギリスのSF作家・SF評論家のブライアン・オールディス(1925~2017)。アメリカのSF作家、チャールズ・L・ハーネス(1915~2005)が書いた長編小説『パラドックス・メン』を称賛するために、その序文に自らの造語として書いたのでした。

 

つまり、「ワイドスクリーンバロック」とは、もともとは『パラドックス・メン』という特定の作品を言い表すために作られた用語だったのですね。 

翻訳版訳者あとがきからの孫引き引用になりますが、そのオールディスの文章は以下のようなものとなります。

こうした純粋なSFは、ワイドスクリーン・バロックとしてカテゴライズできるかもしれない。プロットは精妙で、たいてい途方もない。登場人物は名前が短く、寿命も短い。可能なことと同じくらいやすやすと不可能なことをやってのける。それらはバロックの辞書的な定義にしたがう。つまり、すばらしい文体(スタイル)よりはむしろ大胆で生き生きとした文体をそなえ、風変わりで、ときにはやり過ぎなところまで爛熟する。ワイドスクリーンを好み、宇宙旅行と、できれば時間旅行を小道具としてそなえており、舞台として、すくなくとも太陽系ひとつくらいは丸ごと使う。(『パラドックス・メン』p333より引用、中村融訳)

のちに、オールディスは著書『十億年の宴』(1973年刊行)に次のようなことを書いています。

私自身の好みは、ハーネスの『パラドックス・メン』である。この長編は、十億年の宴のクライマックスと見なしうるかもしれない。それは時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛び回る。機知に富み、深遠であると同時に軽薄なこの小説は、模倣者の大軍がとうてい模倣できないほど手ごわい代物であることを実証した。この長編のイギリス版に寄せた序文で、私はそれは《ワイド・スクリーン・バロック》と呼んだ。これとおなじカテゴリーに属する小説には、E・E・スミスA・E・ヴァン・ヴォークト、そしておそらくはアルフレッド・ベスタ―の作品が挙げられよう。(『十億年の宴』p305~306より、浅倉久志訳)

 

 オールディスが挙げた作家は以下の三人です。

E・E・スミス(1890~1965)は〈レンズマン〉シリーズ・〈スカイラーク〉シリーズで恒星規模の破壊をやすやすとこなす宇宙戦争など、これまでとは桁違いの規模のSFを作り出しました。

 

 A・E・ヴァン・ヴォークト(1912~2000)は、『非Aの世界』『非Aの傀儡』で、当時流行していた哲学思想「一般意味論」を応用したスーパーヒーローを描きました。そのヒーローは「一般意味論」を使うことによって超能力に目覚め、銀河系規模の陰謀から地球を救うために戦うことになります。

 

 アルフレッド・ベスタ―(1913~1987)は、『分解された男(破壊された男)』にて、他者の心を読むテレパス能力者が出現したことにより、犯罪が不可能になった未来社会を描きました。『虎よ、虎よ!』では、全人類がテレポーテーション能力を取得したことによって、太陽系の隅々にまで一瞬でいけるようになった未来社会を描きました。『コンピュータ・コネクション』では、宇宙のかなたから帰還して両性具有となった元宇宙飛行士の超人類を支援するために天才博士と一体化した神のごときコンピュータが出現しますが、不死のネアンデルタール人に殴られて壊されます。

 

 

 

 

 

上記の作家を見る限り、オールディスが「ワイドスクリーンバロック」という言葉で表したのは、「スペースオペラ(宇宙冒険・宇宙戦争などをテーマにしてヒーローが活躍するSFサブジャンル、物語や演出を優先してリアリティや科学的整合性を無視することが多い)」のなかのさらなる作品群であると思われます。 

事実、文学研究者のジェローム・ウィンターは"Wide-Screen Baroque Revisited"(2016)で次のように書いています。

ブライアン・オールディスは『十億年の宴』(1973年)の中で、E・E・スミスA・E・ヴァン・ヴォークトがSFというジャンルに与えた影響を論じる際に、「ワイドスクリーン・バロック」という言葉を初めて使った。オールディスのこのフレーズは、発展するサブジャンルとしてのスペース・オペラの現代的理解に深く絡みついている。言うならば、よく引用されるこのフレーズは、小説や映画のコンベンション(訳者注:ファン大会)やそこでの会話においてのスペースオペラについての議論に対する、オールディス固有の「ニューウェーブ」的介入を表しているのだ。おそらくオールディスは、ウィルソン'ボブ'タッカーが1941年頃にスペースオペラを "ギーギー鳴っている、悪臭を放つ、時代遅れの、宇宙船ほら話"と酷評したことから、スペースオペラを救い出そうとしているのかもしれない。(以下のホームページより引用、2021年6月23日閲覧、拙訳、傍線は引用者による)

Wide-Screen Baroque Revisited | UWP

ここでまだ重要な用語が出てきました。「ニュー・ウェーブ」です。

「ニュー・ウェーブ」とは、1960年代~1970年代に起こった、SF作品に文学的・実験的な要素を入れようとするSF作家・評論家の(主に英語圏で起こった)運動のことです。ワイドスクリーンバロック」という概念は、この「ニュー・ウェーブ」運動のさなかに遡及的に唱えられたものでした。そもそも、『パラドックス・メン』の初版(題名は『昨日への飛行』)は1953年に刊行されています。オールディスが序文を書いたのは、いったん絶版になったあと再刊されたものだったのです。オールディスを中心とした「ニュー・ウェーブ」運動の推進者たちが、過去に目を向けた結果「時代遅れだと思われてたスペース・オペラのなかにも、こんなすごい作品があるぞ!」と『パラドックス・メン』に代表される作品を持ち上げるために作り出されたカテゴリーが「ワイドスクリーンバロック」だったというわけです。(〈レンズマン〉シリーズの第一作刊行は1937年、『非Aの世界』の刊行は1948年、『分解された男』の刊行は1953年で、「ワイドスクリーンバロック」がはじめて唱えられた1964年から見て一昔前の作品たちでした)

 

ワイドスクリーンバロック」の日本への輸出と意味の変容

 

その後、「ワイドスクリーンバロック」という用語は日本SF界に輸出されて、さまざまな作品を言い表す言葉として使われました。その過程で、オールディスの使用法から、微妙に意味が変容していきます。

クリス・ボイス(1943~1999)の『キャッチワールド』(日本での刊行は1981年)の解説において作家・翻訳家の安田均さんはこう書いています。

(前略)登場人物はいちおうの性格づけを与えられるものの、ほとんど性格描写はされず、ただ作者の筆に操られるまま巨大なゲームの駒として動いていく。さらに、冒頭第二章、未来の日本の説明にみられるグロテスクな異国情緒(作者は日本の現状をかなり知っていて歪曲した節がある)をはじめとして、さまざまな箇所で見受けられるアクの強さ。ここまで書くと、この作品があるSFのタイプを完全に目標としていることに気がつかれるだろう。

そう、ワイドスクリーンバロックである。(『キャッチワールド』p370より引用)

この文章は「ワイドスクリーンバロック」という言葉が日本に入ってきたときの印象を記録しています。翻訳版の『十億年の宴』は1980年に刊行されたため、まさに、当時はこの言葉が日本に現れた直後でした。

さらに、安田は作者であるクリス・ボイスを紹介するとき、ある重大な示唆を行いました。

(前略)実質的に認められたのは何といっても本書であり、これで彼(引用者注:クリス・ボイス)は最近のイギリスのSFに顕著な”アイデア派””観念派”の一員として見られることになった。この派には、他に、バリントン・J・ベイリーイアン・ワトスンといったいずれも七〇年代に頭角を現した作家が属す。彼らの作品の特徴となるのは、小説のアイデア部分に異常なほどの力を注ぎ、つぎつぎにくりだされる(ときには未整理なほどの)アイデアの奔流によって、一種の”めまい”とも呼べる効果を導きだすといった点だろう。これは一方で、マイクル・コニイ、リチャード・カウパークリストファー・プリーストといった小説のスタイルに重点をおく作家群と対置されながら、現在のイギリスSFの活況を担っているといえる。(『キャッチワールド』p371-372より引用)

オールディスのもともとの文章が「舞台の規模」「プロットの精妙さ」「機知、深遠と軽薄の合流」を強調していたのに対して、『キャッチワールド』解説では、「アイデアの奔流によるめまい」が強調されています。

さらに、二つ目の引用文を読むと、クリス・ボイスはイギリスにおける「アイデア派」に属す作家とされていることがわかります。

 

 

この「アイデア派」とは、70年代のイギリスSF界で起こった作家同士の論争に起因するものでした。このことは、残っている資料があまりなかったので、わたし自身もよく知らないのですが、1976年刊行の『ファウンデーション誌』にイアン・ワトスン(1943~)とクリストファー・プリースト(1943~)が”Science Fiction: Form versus Content”というタイトルでエッセイを書いているようです。これが発端になったのかもしれません。

Title: Science Fiction: Form versus Content

また、1978年に刊行されたアンソロジー『アンティシペイション』では、クリストファー・プリーストイアン・ワトスンを紹介するときに、次のような序文を書いています。

イアン・ワトスン。わたしとワトスンはしばしばお互いをよき論敵とみなしあっているし(たとえば、この序文でわたしが書いてきたことの大半に彼は同意しないだろう)、創作のアプローチはまったく違っている。にもかかわらず、わたしは彼の作品の多くを高く評価している。(『アンティシペイション』p10より引用、安田均訳)

 

 1981年に行われたイアン・ワトスンへのインタビューでは、次のように語られています。

ラングフォード(注:インタビュアー):クリス・プリーストとあなたは、SFへのアプローチについて熱い議論を交わしてきました。私らしい粗雑な表現でまとめると、「教訓(教育)Didacticのワトソン」対「美学Aestheticのプリースト」ということになります。"どちらかが先行するのではなく、美学が十分に発揮されれば、いつでも教訓的なものを打ち負かすことができる!」と『ファウンデーション10』でクリスは言っていました。その段階の議論から5年経った今、あなたには立場がどのように見えますか?

ワトソン:確かに、当時の共同編集者である私たちは、活発な議論をするために始めました。教訓対美学の件は、根底にある政治的な偏見が隠されています。それは、リーズ大会で、SFは運動を支援すべきかどうかという議論の中表面化しました。私の親愛なる誤った友人クリスが、イギリスは占領された国(アメリカに占領された国)であり、たとえその結果、私たち全員が放射性の塵に吹き飛ばされたとしても、これを変えるために何かをしようとすることはできないし、すべきではないと宣言したのです。これは、自律的であるはずの美的スタンスの破綻です。彼がStatus Quoというバンドを好きなのもうなずけます。

ラングフォード :痛い。後期ハインラインのような教訓的な作家が単なる美学者の左に位置していることを示唆しているのではなく、哀れな老クリスに対するただの悪口であることを願っています....

Ian Watson Interview (1981)より引用、2021年6月23日閲覧、拙訳)

 

面白いことに、本来は直接関係なかったはずのワトスン対プリースト論争と、「ワイドスクリーンバロック」が、日本においては関連づけられて語られるようになったのです。

それにより、本来ワイドスクリーンバロックの母体であったはずのニューウェーブ運動と切り離されて考えられるようにもなりました(ワトスンはニューウェーブ運動に批判的でもありました)。

こうして、日本SF界においては「ワイドスクリーンバロック」の中核に「アイデアの奔流」を置く理解が広まりました。

そして、その代表作家として目されたのが、イギリスのSF作家、バリントン・J・ベイリー(1937~2008)です。

1983年に日本で翻訳版が刊行されたバリントン・J・ベイリーの『カエアンの聖衣』の解説で、SF評論家・翻訳家の大野万紀さんは次のように書いています。

(前略)科学用語や擬似科学的論理は山ほど出てくるのだが、ハードSFとは違い、よく読めば矛盾がいっぱいだ。ところが読んでいる間、こういったことはまったく気にならない。デタラメだろうがインチキだろうが、ひどくぬけぬけと語られ、しかも物語の中ではそれで当然だと思えてくるから不思議だ。

 こういう種類のSFを、ふつう〝ワイドスクリーン・バロック〝と呼ぶ。ブライアン・オールディスが『十億年の宴』で使ったことばだが、スペース・オペラの奔放さと雄大さを受け継ぎつつ、観念性と軽薄さを同時に武器とするような離れ業をみせる。ひとつひとつじっくりと味わう間もないほど、これでもかこれでもかと詰め込まれたアイデアの、めまいを起こしそうな密度の濃さ。それを柔らげるコミカルなユーモア感覚と、どこまでも広がっていく気の遠くなりそうなスケールの大きさ。無限の時間と空間。個々の人間ではなく、文明や種族のレベルで語られる観念的な物語。何重にも入り組んだプロット。めくるめくセンス・オブ・ワンダー。こういったすべてをひっくるめて、意識の拡大という、SFの重要な特質が効果を発揮するのだ。ハードSFが論理(ロジック)に重点を置き、文学的SFが文体(スタイル)に重点を置くところを、ワイドスクリーン・バロックは観念(アイデア)に重点を置くのである。そして、それこそが、最もSFらしいSFであり、SFファンが最も魅惑的だと感じる形式――そしてSFファン以外の読者にとまどいを感じさせる形式――であると断定しても、おそらく間違ってはいないだろう。(「カエアンの聖衣」解説 より引用、傍線は引用者による、2021年6月23日閲覧)

 

 

 

この解説でも、ワイドスクリーンバロックの特徴が「アイデア」にあるとされています。

このように、バリントン・J・ベイリーワイドスクリーンバロックの中核的作家とされるのは、おそらく日本SF界においての独特な見解でしょう。

たとえば、Science Fiction EncyclopediaのWidescreen Baroqueの項目には、ベイリーは載っていません。むしろ、イアン・バンクススティーヴン・バクスター、ジョン・C・ライトなどの「ニュースペースオペラ(科学的知識や説得力のあるテクノロジーに基礎を置き、遠未来を舞台にし、よりリアリティを追及したスペースオペラ。1990年代~2000年代にかけて多くの作品が書かれる)」に分類される作家たちが入っています。(日本SF作家の大原まり子さんも掲載されています)

Themes : Widescreen Baroque : SFE : Science Fiction Encyclopedia

(2021年6月23日閲覧)

 

 

 

 

 

 

 

 ※ベイリーの小説は、現在では電子版もあり、かなり手に入りやすくなっています。(以下電子版がある作品)

 

 

 

 

 

 

日本SFにおいての「ワイドスクリーンバロック」の影響

 

バリントン・J・ベイリーを中核作家に置き、「アイデアの奔流」「アイデアによるめまい」を特徴にするという、日本SF界にて独特の把握をされた「派生的ワイドスクリーンバロック」は、やがて、独自の影響力を持ち始めます。

そのような「ワイドスクリーンバロック」にもっとも大きな影響を受けた一人として、劇作家・脚本家の中島かずきさんが挙げられるでしょう。

新訳版の『カエアンの聖衣』の解説にて、中島さんは次のように書いています。

それまでモヤモヤとしていたやりたいことが、ワイドスクリーン・バロックに出会って「これだよ、おれのやりたいのはこういうことなんだ」とイメージできたのだ。中核になるアイデアを軸に、まわりに付帯的なアイデアをちりばめためまいがするような大法螺話。舞台なのでなかなか宇宙的なスケールまではいけないが、自分なりにワイドスクリーン・バロック的手法で書いていこう。SFとしての定義は違うのはわかっているが、作劇術としてのワイドスクリーン・バロック。それをやっていこう。(『カエアンの聖衣〔新訳版〕』、電子版より引用)

こうして、作られたのが、アニメ「天元突破グレンラガン」(2007)と「キルラキル」(2013)でした(「キルラキル」は『カエアンの聖衣』の直接的影響があります)。

天元突破グレンラガン』で、今石洋之監督の「ドリルをテーマに26話のアニメがやりたい」という無茶ぶりに「ドリル=螺旋力」と読み替えて、一人の男の成長と、生命の進化と宇宙創成の二つをテーマに描くと決めたとき「これで本気でワイドスクリーン・バロックがやれる」と一人ほくそ笑んだものだ。(『カエアンの聖衣〔新訳版〕』電子版より引用)

 

打ち合わせのなかで「女子高生が特殊な能力を持つ制服を着て戦う」というアイデアで落ち着きそうになった時、これはもう『カエアンの聖衣』は避けられないと腹をくくった。(『カエアンの聖衣〔新訳版〕』電子版より引用)

 また、わたくし(草野原々)もバリントン・J・ベイリー型のワイドスクリーンバロックに影響を受けた一人です。

短編集『最後にして最初のアイドル』収録の「暗黒声優」は、どんどん規模が巨大化するスペースオペラでもありますので、オールディス型のオリジナル・ワイドスクリーンバロックにも適合する作品でしょう。

 

 そのほかにも、長編の前後編となる『大進化どうぶつデスゲーム』と『大絶滅恐竜タイムウォーズ』もベイリー型ワイドスクリーンバロックの影響下にあります。(特に後編の『タイムウォーズ』のほうは、アイデアの奔流を作り出すことを意識しました)

 

 

 

 

『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』は「ワイドスクリーンバロック」なのか?

『レヴュースタァライト』に「ワイドスクリーンバロック」をもじった「ワイルドスクリーンバロック」という言葉が使われているのは、もともとのオールディスから、ベイリーへ、そして中島かずきさんへという系譜が背景があると思われます。

では、ひるがえって、『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』はワイドスクリーンバロックなのでしょうか?

オールディスが唱えたオリジナルの意味合いのワイドスクリーンバロックとはいえないでしょう。『レヴュースタァライト』はスペースオペラではなく、舞台も太陽系サイズではありません。

しかし、ベイリーを中核とした、「アイデアの奔流とめまい」によって特徴づけられる、派生的意味でのワイドスクリーンバロックとしては合致するといえそうです。

さらには、中島かずきさんの言う「作劇術としてのワイドスクリーンバロック」として、大きくあてはまりそうです。

そしてなにより、『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』は、ワイドスクリーンバロックの母体となったニューウェーブ運動の精神と共鳴しているでしょう。ニューウェーブ運動の提唱者である、J・G・バラード(1930~2009)はエッセイ「内宇宙への道はどちらか?」で、追及するべきなのは外宇宙ではなく内宇宙であるとしました(原文手元にないので引用できません。すいません……)。登場人物の精神を詩的映像でひたすら描いていく『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』はまさにここにあてはまるものといえるでしょう(バラードは時系列を破壊する作品や砂漠の描写をよく書いていた点も似ています)。

 

 

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おまけ:ワイドスクリーンバロックを感じた最近のアニメ作品


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正解するカド」:上位次元人とのファーストコンタクトという近年のアニメでは珍しいテーマを扱っているSFアニメ。中盤からの脱線的超展開と、終盤にかけての規模の拡大および強引すぎる身も蓋もない終わらせ方は、ヴァン=ヴォークト的な古典的ワイドスクリーンバロックを彷彿とさせる。


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「ゲキドル」:『劇場版レヴュースタァライト』と平行して見るべき作品。奇しくも『劇場版』と同じ2021年に放送された。こちらも、演劇をテーマとしているが、レヴュスタとはまた違う視野から描いている。

エピソードが進展するにつれて指数関数的なスケールの拡大を経て、最終話ではとんでもないところにつれてかれる、まさに「めまい」を起こすワイドスクリーンバロック

フルタイム作家としての目標設定

 

要約:草野原々の具体的目標は「年間三冊をコンスタントに刊行」(補助的具体的目標は「ハヤカワSFコンテスト出身作家で一番多作になる」)。抽象的目標は「多創多想多層多奏」である。


わたしは大学院を自主退学(退院)し、フルタイム作家となった。
この文章は、作家としての目標を宣言したものだ。
やはり、作家としては、目標があったほうがいろいろと頑張れると考えたのだ。
そして、その目標を公開して、広く共有したほうが、目標達成に近づくと判断した。
これを読んだみなさんは、ぜひとも草野原々の目標達成に協力してほしい。(もちろん、草野原々の目標達成を阻止しようとしてもよい。好きなほうを選んでくれ)

では、どのような目標を設定するのが効果的だろうか?
とりあえず、達成したかどうか検証できる具体的目標と、それを支える理念である抽象的目標の二段構えにするのが、効果的だろうと思われる。

 

 

 

具体的目標

具体的目標は、「一年間に三冊のペースでコンスタントに作品を刊行する」というものだ。

「刊行冊数」を目標にするのは、それが予測・計測しやすく、達成しやすい目標であるからだ。

「読者数」「評価数」「重版数」「賞獲得数」「印税額」などの他の具体的目標は、どのように行動すればよいのかの指針をあまり与えてくれない。時の運に左右され、事前に予測するのは困難である。これらの数値はあまり考えないほうがよいだろう。
また、「執筆総文字数」「総ページ数」などは数えるのがめんどうであるため目標基準に向いていないと判断した。

「刊行冊数」を目標とすることは、「作品の質」よりも「量」を重視するということであるが、これには理由がある。
まず、「質」を高めるにはどうすればよいのやらサッパリ見当がつかない。対して、「量」を増やす方法はある程度はわかる。目標である以上は、ある程度の指針を与えてくれるものがよい。
また、刊行冊数を増やすことで、ある程度の質を確保することは可能ではないかと考えた。コンスタントに作品を刊行するためには、編集部のチェックを通らなければならない。この関門によりある一定の質が確保されることだろう。数多くの作品を書くにつれてよりよい作品が書けるようになるという可能性もないわけでない。
そして、下手な小説には下手な小説なりの「魅力」や「味」があるという可能性も残っている。もし、ヘナチョコ小説をたくさん書いたとして、そこにある種の面白さが宿るという事例がまったく考えられないとまではいえないだろう。下手なうちにたくさん書いておけば、そのようなヘナチョコ面白い小説がたくさんできるかもしれない。
ゆえに、「刊行冊数」を具体的目標とするのだ。

「量」を目標とする以上、「大作」は諦めなければいけないのではないか? という疑念があるかもしれない。「多作」と「大作」の間にはある程度トレードオフがあるだろう。とりあえず、あと3〜5年は多作志向として活動して、その期間を「修行期間」として、それから徐々に「大作志向」にシフトしていこうと計画している。
「一年間に三冊のペース」という数値にするのは、それがギリギリ達成可能な範囲であるからだ。
わたしの執筆スピードから考えて、おそらくそれくらいが妥当な範囲である……ということは前提として、そもそも、本を出すためには出版社で企画が通らねばならないのだ。企画通過の頻度やスピードを考えて、いまのところそれくらいが上限であろう。

この具体的目標を達成するための下位目標をどう設定すればよいだろうか?
具体的な日々の執筆目標は未来のわたしに任せるにして、ここではあいまいに考えてみよう。
まずは、気分的な問題だ。スランプに落ちるのを避けよう。自身を省みて、けっこうスランプに落ちやすいという事実がある。
どうすればスランプを避けることができるのか? これまた難しい問題だが、自分にプレッシャーをかけすぎるのはいけないだろう。スランプは「書くのが怖い」状態のことが多くあり、これは過大なプレッシャーがかかることから起きる現象かもしれない。

事前に書くものを規定しすぎると「書けなく」なってしまうかもしれない。まったく全然これっぽっちも面白くない大愚作・超駄作でも、刊行することができるかもしれない。「傑作を書く」「売れるものを書く」「特定のジャンルを書く」など事前に規定し続けるのは危険かもしれない。
「とりあえず書いてみる」という方法も有益だろう。文章を書いていたら、なんだかわからないけれど「波に乗れる」ときもあるのだ。

刊行した作品にこだわりすぎるのも、目標達成に効果的ではない。もしも評判が悪くても(良くても)、それは過去のものとして、未来に書くものとは関係ないとするほうがよいのかもしれない。

もちろん、スランプになるならスランプになってもよいのかもしれない。スランプというプロセスを経て、なにかものすごいものが出てくるということもあるのだ。

つぎに、スケジューリングや編集者とのコネクションなどの外部的な問題がある。
具体的スケジュールを設定しておくのは大事だ。締め切りがないと、構想段階で延々と考えてしまい執筆に手がつけられなくなり、ついにはよくわからなくなるという事例がある。具体的なスケジュールを設定せずとも、編集者との会話で「こういうものがやりたい」と伝えることも効果的だろう。一方で、編集者とのコミュニケーションがうまくいっているのかどうか不安になることもあるのだが、それを解決する効果的な方法がない以上、編集者を信じるしかない。

 

その他の具体的目標

「年間三冊刊行」という目標は、草野原々の内で完結したものだったが、もっと外とつながる形の具体的目標として
「ハヤカワSFコンテストデビュー作家で一番多作になる」
というものがある。

ライヴァルを設定することで、草野原々をより鼓舞させるという方法論だ。

現在(二〇二一年四月)のデータでいえば、ハヤカワSFコンテストでデビューした作家のうち、草野原々は刊行冊数四冊で刊行冊数ランキングでは二位である。一位は十冊の柴田勝家殿なので、殿を先輩ライヴァルと位置づけてその背中を追いかけて、ゆくゆくはハヤカワSFコンテスト出身作家のモデルケースとなるという方向性を示す目標だ。

内的に完結した目標では燃え尽きてしまう可能性もあることから、こちらの目標も逐次意識しながらモティベーションを高めるのも、効果があるだろう。

だが、この目標はかなり難易度は高い(大幅なリードがある上に、勝家殿は筆がはやいのだ)、あくまで補助的な目標として取り扱った方が良いだろう。

 

抽象的目標

 具体的目標を支えるための、理念的な抽象的目標を考えるのは役に立つだろう。
 原々は、抽象的目標を「多創多想多層多奏」というモットーにすると決めたのであった。
 
 「多創」とは、作品をたくさん作る(量)のと同時に、いろいろな種類の作品を作ること(多様さ)である。
 「多想」とは、小説のなかで描くアイディアをたくさん思いつくことである。
 「多層」とは、アイディアを単一の小説内で完結させずに、時間的経過により発展・展開させることである。地層のように、アイディアにもいくつもの「層」を作る。
 「多奏」とは、小説のなかで、複数のアイディアをかみ合わせ、ハーモニーあるいは不協和音を奏でることである。特に長編の場合、単独のアイディアで駆動するのではなく、絶対に交差しないと思われていた複数のアイディアが出会い、思わぬ音が奏でられたらうれしい。
 
 「年間三冊以上をコンスタントに刊行」という具体的目標を達成することは、「多創多想多層多奏」という抽象的目標を達成する役に立つ。
 その理由として
 ①単純に出力を多くすること、また様々なジャンルを書こうと考えること(「多創」)で、トライ&エラーの回数を増加させ、アイディア空間のなかの検索回数と範囲を多く・大きくした結果、思いつくアイディアは多くなり(「多想」)、すでに使ったアイディアをさらに吟味することで発展させ(「多層」)、アイディアの組み合わせ数も多くなる(「多奏」)。
 ②年間三冊を刊行するためには、複数の出版社を渡り歩く必要がある。それぞれ違った編集者と相互作用することになり、環境の違いは異なったアイディアを生み出す。
 ③場数を踏むことで、「書くことの怖さ」が少なくなり、スランプに陥るのを回避できるようになる。その結果、たくさんのものを書くようになる。
 ④たくさんの作品が出るということは、わたしを見つけてくれる人が多くなるということだ。結果、与えられるチャンスが増加し、さらにたくさんの作品を書くことができる。正のフィードバックが働く。
 
 ということで、「年間三冊をコンスタントに刊行」と「多創多想多層多奏」を目標にして、フルタイム作家をやっていこうと思う。
 やがては、小説だけではなく、映像作品や演劇脚本、漫画原作、ゲームシナリオなど多媒体で活動したい(活動するであろう)。
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