水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

谷村省吾「一物理学者が見た哲学」の第二章を読んで、哲学的ゾンビ論法についてまとめてみた。

これまでのあらすじ


物理学者の谷村省吾先生が「一物理学者が見た哲学」という文章を公開していた。

http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html

谷村先生は『〈現在〉という謎』という本で、哲学者と対話したのだが、その対話はすれ違いに終わってしまったことを書いた文章だ。

 

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

 

 


その内容は色々であるが、わたしは、そのなかでの二章。二章のなかでも、「ゾンビ論法」の件に注目した。


谷村先生はこう書いていた。

しかし、私は繰り返し 述べているとおり、物理的に同一状態にあるものは、どのような観点から見ても同一状 態であると私は信じているので、現象ゾンビが現実に存在する可能性はゼロだと思うし、 現象ゾンビを想像して何か有意義なことがわかるとは 1 ミリグラムも思わない。

 


「意識状態は物理系の物理的状態である」とする現代物理学説は、青 山氏の概念分析では、論点先取の誤りということになるのであろうが、そういうことは クオリアが物理系の物理的状態ではない何ものかであることの片鱗でもよいから証拠 を示してから言ってほしいと物理学者たる私は思う。


これらすれ違いは、「意識は既存の物理学体系から大きく逸脱しない範囲で説明可能である」とする「物理主義」を否定する「ゾンビ論法(思考可能性論法とも)」が共有されていないという、比較的簡単な問題があると思った次第である。


そこで、わたしは、勉強を兼ねて、「ゾンビ論法」をまとめようと決意したのだった。

このエントリーでは、ゾンビ論法(思考可能性論法)を非常に簡素にまとめる。

 

ゾンビ論法

ゾンビ論法(専門的には思考可能性論法というほうが多いけどゾンビのほうがキャッチーなのでこっちの名前を使う)は哲学者のデイヴィッド・チャーマーズさんが物理主義に異議を唱えるために考え出した思考実験だ。

以下の参考文献として

Zombies (Stanford Encyclopedia of Philosophy)


「ゾンビ論法」は以下のような議論を行う。


0、物理主義の定義
ジャクソンの定義「この世界の物理的な複製はこの世界の複製ですよ」
チャーマーズの定義「この世界の性質はすべて、ミクロ物理的な性質に論理的に付随しますよ」


1、哲学的ゾンビは思考可能である
次のような存在を「哲学的ゾンビ」と定義する。
まったく同じ物理的状態にある二人の人間がいるとする。一方は意識経験(クオリア)を有しているが、もう一方は意識経験(クオリア)を有していない。後者を「哲学的ゾンビ」とする。
こいつは「思考可能」である。


「思考可能」とはどういうことであろうか? 
「Aが思考可能なのは次のとき、また次のときのみである:非Aということをア・プリオリに知ることができない」ということらしい。
では「ア・プリオリ」とはどういうことなのか? 「ア・プリオリ」とは「経験なしでわかる」ということらしい。たとえば、「独身者は結婚していない」という文は、「独身者」の意味がわかれば調査をする必要なく真だとわかる。ゆえに、「独身者は結婚している」ということを思考することは不可能である。
哲学的ゾンビは存在しない」ということは、ア・プリオリには知ることができない。ゆえに、哲学的ゾンビの存在は思考可能である。


2、思考可能性は可能性を含む:
世界についての思考可能性からは、世界のあり方の可能性(形而上学的可能性)が帰結する。
言い換えれば、ある状況が思考可能ならば、可能である。


3、1と2よりゾンビの存在は可能である。
注意点として、この節で行っていることは、「この世界に哲学的ゾンビがいるかもしれない!」という主張ではない。
「この世界と物理的に瓜二つだけど意識経験だけないゾンビ世界の存在は、(内部矛盾によって)論理的に排除されることがない」というものである。


4、ゾンビの存在が可能であれば、物理主義は偽である。


この議論で言いたいことは要するに
「物理的な事実から意識経験についての事実は論理的には出てこないよ。だから、物理的事実によって世界のすべてが決まるという物理主義は偽だよ」


注意点として、物理主義を否定するからといって、即座に霊魂の実在を支持するなどの「実体二元論」には行かないことだ(ゾンビ論法を支持する哲学者でも、実体二元論を支持する人はかなり少ないと思われる)。たとえば、この論法の提唱者のデイヴィッド・チャーマーズは「世界の構成要素には物理的性質と意識経験的性質(現象的性質)がある」という「性質二元論(中性的一元論)」を唱えている。
チャーマーズは現在の物理学を根底から覆そうとしているのではなく、意識経験の存在を物理学の基礎的な概念と考えて、新しく「精神物理法則」を考えようという、広い意味での自然主義の立場に立っている。

 

意識する心―脳と精神の根本理論を求めて

意識する心―脳と精神の根本理論を求めて

 

 


チャーマーズの立場を支持する科学者として、脳神経学者の渡辺 正峰先生がいる。
(この本に書いてあった)

 

 


また、ジュリオ・トノーニという科学者が唱えている「意識の統合情報理論」はチャルマーズと立場を同じくしているという指摘もある。

 

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

 

 
物理主義者の反論


反論A:哲学的ゾンビの存在を思考することはできない。(1を攻撃する)


ダニエル・デネットは「哲学的ゾンビが思考可能だって言うけど、実際は十分なイメージをしてないじゃん」とか「哲学的ゾンビという概念はよくよく考えると矛盾してるよ」と言っているらしい。


反論B:思考可能だからといって、可能であるわけではない(②を攻撃する)


「経験的探求の結果、意識経験は必然的に物理的であることがわかる」とする反論。
クリプキという哲学者の「アポステリオリで必然的に真」という概念を使っている反論らしい。
「ア・ポステリオリ」とは「経験的に」という意味。
たとえば、「水はH2Oだ」という命題はア・プリオリに真ではないが、経験的探求の結果、真だということがわかった。
水がH2Oだとわかったため、「水はXYZ(という化学式で表される水にそっくりな液体)である」という命題は必然的に偽であることになる(すなわち、そういう可能性はなくなる)
なぜならば、「この地球にそっくりで海や川にはXYZが流れている」という世界があることは可能であるが、その世界にあるXYZは水ではないからだ。
同じように、意識経験が何らかの物理的なものだと、経験的に判明すると、「ゾンビが存在する」という命題は必然的に偽であることになる(すなわち、ゾンビの可能性はなくなる)


この反論に対して、チャーマーズは「二次元意味論」というものを使って再反論しているらしい。
短くまとめると
『水』っていう語は「無色透明で海や川を流れて飲めるなどなどの液体」という意味と「H2O」という意味の2つがあるじゃんけ、「H2OはXYZ」という命題は思考不可能でかつ(形而上学的に)不可能な状況だけど、「無色透明で(略)液体はXYZである」という命題は思考可能でかつ可能な状況だよ!
というものらしい。


 

「もうこれ以上存在しない方が良い:存在し続けることの害」【Sullivan-Bissett&McGregor(2012)】

Ema Sullivan-Bissett & Rafe Mcgregor, better no longer to be - PhilPapers

 

ベネターは存在してしまうことは常に害であるとした。この論文では、もしベネターの「快楽と苦痛の欠落についての非対称性論法」と「貧しいクォリティ・オブ・ライフ論法」を受け入れるとすると、反出生主義(anti-natalism)と親自殺主義(pro-mortalism)が導き出されるとする。

ベネター自身は親-自殺主義には立っていない(存在することは害だが、存在し続けることは害とはいえないという立場)が、それは間違いだとする。

 ベネターの反-出生主義が正しいかということ自体はこの論文では触れない。

 第1節で反出生主義は「存在し始めること」だけでなく「存在すること」自体も害と見なすべきということ、第2節でベネターが「死自体が害である」ことを示すのに失敗していること、第3節で「存在し続けることの利益」で親自殺主義を反駁することは非合理性があることを示す。

 

1、反-出生主義と親-自殺主義

ベネターの反-出生主義の論法は二つある。

第1の論法が「快楽と苦痛においての、存在と欠落についての非対称性」論法である。

その論法の基本は、苦痛の非在は善いが、快楽の非在は悪いとはいえないというものだ。

このことから、世界に存在しないことより、存在することの方が悪いということが導き出せる。もし世界に存在してしまったら、苦痛も快楽もある。快楽があることは善だが、苦痛があることは悪だ。一方、世界に存在しなければ苦痛も快楽もない。苦痛がないことが善で、快楽がないことは悪ではないため、存在しないほうが善いことになる。

 

この論法は、一見すると、親-自殺主義にも使えそうだ。行為者が存在しなくなると、その結果、苦痛は消える(善)。一方で、快楽も消える(悪ではない)。ゆえに、存在しなくなるということは善いことであり、親-自殺主義が導き出される。

しかし、ベネター自身は反-出生主義は親-自殺主義を含意しないと言う。

ベネターは親-自殺主義に反対する親-生命(pro-life)論法を出している。

それは次のようなものだ「存在者は存在し続けることに利益を持つことができる。生命の価値ある存続を止めるような害は、それらの利益を無効にする」

 

ザッデウス・メッツ(Thaddeus Metz)はベネターの議論を補足して、「存在することの害」の一部分は「存在が終わること(死)」であるとする。

 

では、死はなぜ害になるのだろうか?

最初に考えられるのは、死は道具的に害であるということだ(死そのものが悪いわけではなく、他の善をなくしてしまうことにより悪い)

しかし、それだと若いうちの死は年取ってからよりもより悪いという結論になる(若いうちの死のほうが失くしてしまう可能的利益が多いため)。これはベネターの立場と合わない。

ベネターは「死はそれを望む者にとっても悪い」と発言している。これは、彼が死を単に道具的だけではなく、内在的にも悪いとしているのだろう。

もし死が内在的に悪いとすると、行為者の死は追加的な害となる。

 

ベネターの論法は、「存在すること」が害なのではなく、「存在し始めること」が害であるとする。

だが、彼はクォリティ・オブ・ライフの自己判断が過剰に楽観的となっているということについても、反-出生主義の根拠にする。

その根拠の検討はここでしないが、そのような彼の主張から、「存在をはじめること」のみならず「存在すること」自体が害であるとしたほうが整合的である。

 

ベネターは以下のような四つの主張をしている。

①いかなる生も始めるに値しない。

②人間が絶滅することは善いことである。

③他の条件が同じならば、感覚を持つ生命が長く生きることは、よりその苦痛が大きい。

④これまで、我々の生はとても悪いのだと述べてきた。その苦痛を広げないように試みるべき理由がある(それには存在の害も入る)。

これらの主張から、ベネターは存在自体も害としているといえる。

(もしも、あるものに対して、いかなる状況でも始めるべきではなく、その継続が苦痛を増やし、廃絶が求められるならば、その存在自体と存在をはじめることが両方とも害的であるのだ。)

 

このことをわかりやすくするために、タバコのアナロジーを行ってみよう。

①*:誰においてもタバコは始めるべきではない。

②*:タバコのグローバルな廃絶を求める。

③*:タバコを吸う量と害は比例する。

④*:他者がタバコを吸うことを防ぐ義務がある。

これらの主張の理由は、「タバコをはじめること」のみならず「タバコを吸うこと」自体が害であるからだろう。

ベネターの反-出生主義においては、存在をはじめることのみならず、存在すること自体が害であるといえるのだ。

おそらく、ベネターは「死そのものが害であるため、このアナロジーは成り立たない」と反論するだろう。タバコのアナロジーでは「タバコをやめること」自体が害ではないので、そうするとアナロジーは崩壊する。

しかし、続いての節で、「死そのものが害」という証明は失敗していると論証する。

 

2、反-死(anti-death)論法

 

この節では、死そのものが害ではないとするエピクロスの論法を説明する。

エピクロスは、死そのものは経験されることがないため、それは害とならないとした。「我々が在るとき、死は未だ来ていない。死が来たとき、我々はいない」

もしも、エピクロスの説を受け入れれば、死そのものは害ではない。もしも、死そのものが害ではないならば、ベネターの非対称性論法から親-自殺主義が導き出せる。

 

ベネター自身は、三つの点でエピクロス説に反対している。

第一の点は、直観を引き合いに出すことだ。もしもエピクロス説を受け入れれば、日常生活においてあまりにも多くのことを諦めなければいけない。「殺人犯は殺人によって被害者を害する」「死者の願いに対して敬意を払わなければいけない」「他の条件が同じならば、長い生の方が短い生より善い」などの立場は死そのものが害ではないとすると、諦めなければいけない。それは反直観的である。

もっとも、ベネターは直観を基にする論法が決定的なものだと考えてはいない。

しかし、ベネター版の反-出生主義と、エピクロス説は後者のほうがラディカルに反直観的だとする。「存在することは害だ」よりも「殺人者は被害者に害を与えていない」のほうが人々に受け入れられにくいだろう。

この点ではベネターは正しいかもしれないが、全体としてはおかしな論法だ。ベネターは直観論法が決定的ではないとしているのに、エピクロス説のほうが反直観的だと退けるのは解せない。

さらに、なぜ人々がエピクロス説を受け入れないかについて(エピクロス説の否定ではないやり方で)説明することができる。

デイヴィッド・スーツ(David Suits)は「より深刻な傷のほうがより大きな害があるとする。そのような心理的傾向を死にまで広げていった結果、死を最も大きな(回復不能の)傷と解釈して、それに巨大な害を当てはめてしまうのだ」としている。

 

ベネターがエピクロス説に反対する第二の点は、予防原則である。もしエピクロス説が間違っていて、人々がそれに従って行動し、自身や他者を殺したとすると、それは深刻な害となる。一方で、もしベネターの反-出生主義が間違っていて、人々がそれに従ったとしても、害を受ける者はいない。

しかし、この反論は二つの点で間違っている。一つに、もし反-出生主義の非対称性論法が間違っていたとすると、誰も害を受けないという結論にはならない。生まれなかった子供から快楽が剥奪されることは害となるのだ。ベネターは暗黙に自身の説が正しいとしてしまっている。

もう一つに、予防原則に訴えるのも、直観に依拠した論法である。

 

ベネターの第三の反論は、反-出生主義にエピクロス説を入れても、親-自殺主義は導かれないというものだ。なぜならば、もしも、死が死んだ人に害をなさないのであれば、死が死者にとって良いことをなすということはないからだ。そこから、死が何らかのものを回避させる働きはないということも言える。

ベネターが何を言っているのか理解するため、次のようなジョンの例を出そう。ジョンはいままさにトンデモなく恐ろしい拷問にさらされようとしている。ここで、ジョンが自殺すれば拷問の苦しみから避けられるという意見がある。しかし、(ベネター解釈での)エピクロス説では、死は良いことをもたらさない。ゆえに、死んでも拷問の苦しみから逃れるわけではない。

この論法はおかしい。ベネターはエピクロス説を誤読している。

反-出生主義+エピクロス説の親-自殺主義のポイントは、自殺で苦しみから逃れることによって望ましいとされる者は誰もいないということなのだ。反-出生主義において、存在を始めさせられないことによって、苦しみから逃れる者はいない、だけど、それは「生殖を中止すべきではない」ということにはつながらない。同じように、たとえある人が自殺によって苦しみから逃れられなくとも、自殺すべきではないということにはならない。「苦痛の欠如は善い、たとえ、その善さを誰も享受してなくとも」なのだ。

 

上の三つの反論では、ベネターはエピクロス説に反駁できない。

ベネターはなんとかして、死そのものが害であると立証しなければいけない。彼はある論法のヒントを挙げた。次の節では、それをもっと精密化してみる。

 

3、親-生命(pro-life)論法

 

ベネターは未来の生(「生を始めさせるか」)と現在の生(「生を続けるか」)には別のレベルにおいての判断が要請されるとしている。なぜならば、「始めるか」と「続けるか」を判断するための質の閾値は違うからだ。前者は高く、後者は低くすべきだ。

その理由として、利益(interest)が挙げられる。存在する者は存在し続けることに対して利益を持つことができる。生が存続する価値がないという主張は、その利益を毀損する。

彼は、深刻な障害の例を挙げる。胚の段階で深刻な障害が見つかれば中絶することは正しいかもしれないが、30歳で事故にあって同じような障害を受けた人が死ぬべきというのは正しくない。胚は道徳的に関連する利益を持っていないが、意識の発達とともに利益を持つのである。ベネターは、道徳的に関連した感覚のなかで存在者は、存在し続けることに対してとても強い利益を持つとする。この利益により、害を減らそうと望む道徳的行為者は、自殺にコミットしないのである。

ベネターは利益は意識の発達とともに、道徳に関連するようなものとなるとしている。その証拠を挙げていないが、それはマイナーな問題だ。

大きな問題が別にある。ベネター自身が「生への非合理的な愛」があると言っていることだ。クオリティ・オブ・ライフの自己測定は不可避的に過大評価されるという現象(ポリアンナ効果)がある。もしも、多くの人々がポリアンナ効果に陥っているとすれば、存在し続けることの利益が合理的な推定なのか怪しくなる。

タバコのアナロジーで説明しよう。ある人がタバコを30年続けていたとする。そして、科学的な知識などから、健康に悪く害が利益を上回り、止めるべきだと思うが、まだ吸い続けたいという欲求に従ってしまう。この状態は非合理的であり、止めるべきだ。たとえ、そいつがおそらく禁煙しないであろうとしても、それでも、合理的にいえば禁煙すべきだろう。

同じように、知識(ベネターの論法、ポリアンナ効果の研究)から、存在し続けることの利益よりも害が上回ると理性的に判断したとき、たとえ、存在し続けたいという欲求があったとしても、その欲求は合理的ではなく、道徳的に関連しているものではない。

ゆえに、つねに自殺にコミットするのが合理的ということになる。

 

ベネターのいくつかの文章からは、同じような結論が見られる。

彼はこう書いている「この利益(存在し続けること)は貧しいクォリティ・オブ・ライフにいつも打破されるわけではない。死はいつもベネフィットにはならない。しかし、存在し始めることの真剣な害を考えるとすると、この想定は合理的なのだろうか?ここで言えることは、死がベネフィットになるほどクォリティ・オブ・ライフが低いというのはいつもではないということだ。はたして、そんなに低いのはどのくらいなのかという問いは開かれている」

ここで、「存在し続けることは(いつもではないが)大半は深刻な害となる」という結論が含意される。

ベネターは70億人いる人間のほとんどは自殺した方が合理的だという結論を拒否するだろうが、反-出生主義を真剣に読めば、否定することはできない。

 

ここで、規範において道徳性よりも合理性のほうが引き合いに出されている。これは、伝統的な道徳と理由(reason)のカップリングによる。道徳の認知主義的理論において、道徳の基盤には合理性がある。合理的存在にとって、欲求による行為よりも合理性による行為のほうをするべきという規範だ。

ベネターの反-出生主義が正しければ、(少なくとも)弱いバージョンの親-自殺主義が正しいことになりそうだ。

反-出生主義:出産は(いつも)悪い。

親-自殺主義:自殺することは(たいていは)合理的だ。

 

4、結論

 

この論文では、最初にエピクロス説によりベネターの反-死論法が無効にされることを確認した(もし存在が害で、死が害ではないならば、親-自殺主義が導かれる)

エピクロス説に対するベネターの三つの反論は成功していない。彼は死自体が害であることを論証できていない。

ベネターの「存在し続けることへの利益」を使った親-生命論法は非合理的でないということを示すことができていない。「存在し続けることが合理的だ」と「存在し始めることは害だ」という意見は緊張関係にある。

ゆえに、ベネターの立場は親-自殺主義を含む。

もしも存在し始めることが善くないのであれば、もうこれ以上存在しないほうが善いのである。

 

【論文まとめ】現代物理学における空間創発:根源性や実在の階層、創発などが不要な理由【Le Bihan(2018】

Baptiste Le Bihan, Space Emergence in Contemporary Physics: Why We Do Not Need Fundamentality, Layers of Reality and Emergence - PhilArchive

 

「空間(時空)は根源的には存在していない」物理理論をそう解釈する説が賑わっている。この説は「時空は存在しない」もしくは「時空は派生的である」という二つの読み方がある。

著者はその読み方の二つともが存在論的にコストが大きく、代わりに、「時空は非時空的なもの(entities)から構成されている」という物理理論の解釈が妥当であるとする。そうすると、時空の実在性について否定する必要はなくなる。

 

 

 

  • 1、現代物理学における空間と時空の復権

「時空は根底的に存在していない」という主張は、量子論と量子重力理論から出ている。しかしながら、時空は存在しないという立場は哲学的にはかなりラディカルだ(ライプニッツでも、時空を関係性と同一視する)。このように、時空について我々が真であるとしているのは偽であるという立場を消去主義とする。

一方、時空(or空間)の派生主義では、自然には二つの階層があり、空間レベルはより根源的な非空間レベル構造体から派生していると見る。

 

この二つの立場と対比して、著者が採用する立場はメレオロジー的な束説(mereological bundle theory)である。時空(or空間)は極大構造(宇宙全体)の適切な部分を集めた束であるという立場だ。

 

創発」という用語は哲学と物理学では異なって使われる、哲学での「創発」はこれまでになかったものや性質や力能が生み出されるという意味であり、還元主義に反対する。

一方で、物理学においては創発は還元主義と両立するとされる。

ここでは、物理学においての「創発」を採用することにする。

 

 

「空間が存在しない」とする物理理論は、波動関数実在論とループ量子重力理論がある。

波動関数実在論では、3次元空間はもっと根源的な3N次元空間により構成されるとする。Nとは根源的物理粒子の数である。

このアプローチでは、波動関数は単なる数学的ツールではなく、特定の物理システムの性質を描写したものであるとする。波動関数は通常の空間とは別のエグゾティックな空間にあるものなのだ。

波動関数実在論では、量子力学の非局所性を「高次元でおける同じ位置を共有しているからだ」と説明する。

波動関数実在論では、時間については否定せず、マクロな状況と同じであるとする。

 

ループ量子重力理論では、時空は実在の根源的レベルではなく、「スピンネットワーク」(ノードとノード間の関係性)といわれるものが根源にある。3次元のスピンネットワークを動的にすると、「スピンフォーム」という4次元システムが手に入る。この「スピンフォーム」によって一般相対論の成功を説明することができる。

さらに、相対論的時空はもっと根源的なスピンフォームから派生した一つの構造と考えることができる。

 

これらの理論を見るに、二つの問題がある。

問題①:構成された時空の形而上学的な地位はどんなものだろうか?

問題②:なぜ特定の空間が構成されて、他の空間ではなかったのか?

  • 3、空間なし?

時空の消去主義においては、時空は実在の構成要素ではない。

派生主義においては、実在の階層というものが導入されるが、消去主義はそれにコミットメントしない。

しかし、消去主義者は、時間と空間の一般的特徴(トポロジカル・メトリカルな側面)をも否定しなければいけない。現象学的な時空の背後に非空間的・非時間的関係性を持って来なければいけない。このような試みは物理学者から明確に出されていない。

 

  • 4、派生的空間

 

時空の派生主義においては、時空は派生的に実在しているものであり、根源的ではないとされる。

派生主義は日常経験や一般相対論の成功を説明する(それらは派生的な実在についての理論である)

派生主義は「時空は存在し、時空は根源的ではない」と主張する。つまり、時空は派生的存在だが、根源的存在ではないということだ。

しかし、派生主義は次のような問題がある:「自然的世界には根源的構造と派生的時空という二つの階層があることになる」

二つの階層の関係はなんだろう? 一つの解釈は基礎付け関係であるというものだ。しかし、著者は基礎付け関係は説明のための関係であり、心的に独立していないため、ここではビルディング関係という存在論的な関係を採用したほうがいいと言う。

二つの存在論的階層を要求する派生主義は、存在論的コストが高くなる。階層を否定して、それは描写の粗さだというと、消去主義になってしまう。

存在論的コストは致命的な問題ではないが、もしもそのコストを払わずに同じ説明能力を持つ説があれば、そちらに鞍替えした方が良いだろう。

 

 

著者が唱えるメレオロジー説によれば、「派生的構造」とは「非空間的ビルディングブロックのメレオロジー的和」である。(メレオロジーってのが良くわからないが、ここでは、「集めれば一つのものになる」ぐらいの感覚でいいのかな?)

「根源的構造と派生的構造」の区別に代わっては、著者の立場では「極大的構造と部分的構造」を導入する。

空間は部分的構造である。

さらに説明のために、二つの主張をする。

主張①:この説において、空間的関係の和が空間になることはありえる。ゆえに、空間は関係的か実体的か、空間的関係の集合なのかそれとも実体をプラスしなければいけないのかという論争には立ち入らない(どちらとも両立する)。

主張②:空間的ビルディングブロック(空間的関係)はもっと細かく見ると非空間的ビルディングブロックにより作られている。

 

 

著者の説は、パウルという哲学者が唱えた「物質的対象の束説」という哲学的立場を参照して組み上げられたものだ。

「物質的対象の束説」:物質的対象は性質の束であり、その性質を例化する実体はない。性質は「束関係」によりまとめられている。この関係は「メレオロジー的構成」と同一のものだ。

性質は物質的対象の「論理的部分」である。

「論理的」とは、部分と全体の関係が単に実在において成立しているというだけではなく、カテゴリーにおいて成立しているということだ。

ある形而上学的カテゴリー(たとえば性質)が別の形而上学的カテゴリー(たとえば対象)を構成するということだ。

 

パウルの説に則り、「空間のメレオロジー的束説」を考えてみよう。3次元空間や4次元時空は別の形而上学的カテゴリーの論理的部分だと解釈することができる。

「空間」は「メレオロジー的原子のカテゴリーをまたいだメレオロジー的和」(ボトムアップ的表現)または「極大構造の適切な部分、だけど別のカテゴリー」(トップダウン的表現)だということができる。

「カテゴリーをまたいだ構成」には二つの機能がある。

機能①:空間的(時空間的)関係を構成する。

機能②:空間的関係のつながりを構成することで全体としての局所性を持つ空間システムを構成する。

 

ループ重力理論の一般相対論的な時空(出来事や点との間の関係性に局所的な秩序があるように構成されたシステム)を例にしよう。メレオロジー説によれば、秩序的な関係性とは、「極大構造の適切な部分のメレオロジー的和」と数的に同一である。

 

著者のメレオロジー説は、パウルのものと以下の違いがある。

①構成されたものが必然的に対象となるわけではない。

②メレオロジー的な素子(simples)が性質じゃないといけないわけではない。

③性質例化はparthood(「部分であること」という関係的質)ではない。

④「部分は全体よりも根源的」ではない。

 

①:パウルはメレオロジー的原子から構成されるものは対象としているが、著者は時空的関係性も構成されうるとしている。

②:空間のビルディングブロック(スピンネットワーク、エネルギー、3N関係性など)は特定の物理学的カテゴリーに属する。そのようなカテゴリーが形而上学的にはどのようなものなのかは、今後の探求に開かれている。

著者は物理学者が見つけるようなメレオロジー的に根源にあるものが全部同じカテゴリーに属するとは思えないとする。

③:パウルは自然的例化(natural instaniation)がparthoodであるという主張をしている。つまり、自然的対象が自然的性質を例化するのは、その性質が適切な部分である場合のとき、またそのときのみであるという主張だ。著者はこれに反対する。たとえば、性質と関係が「他の現実にあるものとつながっている」という事実のみによって例化するとする説は可能である。※ここはぜんぜんわからなかった…

④:もっとも重要な差異である。パウルは部分は全体よりも存在論的に優先されるという階層的な立場を採っている。しかし、メレオロジー的束説自体はどちらが存在論的に優先されるかという問題には中立的である。著者の説は、このことにより、派生説よりも存在論的コストが少なくてすむ。

 

著者の説は、説明されない原始的理論概念が必要となるが、どのような説においてもそのようなコストは必要になってくる。

 

  • 7、結論

レオロジー説は消去主義と創発主義(派生主義)の中間にあり、両者の良いところを併せ持つことができる。

虚構主義とお話 / Fictionalism and the Folk【Toon, Adam(2016)】

この論文では、心的状態(信念、欲求などの命題的態度)はその人の内的状態に言及しているわけでなく、虚構であるという「虚構主義」をとる。心的状態は虚構であるが、人々の状態や行動を説明するのに適切に役立つものである。また、心的状態は人々に対する真正の断言(genuine assertion)である。フィクションを使ってその人の状態に言及しているからだ。それはメタファーを使うときと類似している。「怒った雲が雨を降らす」というとき、怒った雲の存在に依拠しているわけではない。怒った雲がなかろうが、その主張は天気に対する真正の断言となる。
ウォルトンの言葉を使えば、心的状態とはプロップ志向的メイク・ビリーヴである。プロップ志向的メイク・ビリーヴとは、ごっこ遊びのためのプロップ(小道具)に対して注目しているメイク・ビリーヴだ。通常の小説や映画などは内容志向的メイク・ビリーヴである。内容志向的メイク・ビリーヴはプロップではなく、内容を注目の的とする。(『風の谷のナウシカ』は視聴者をセル画の方法に注目させるものではなく、ストーリーの内容に注目させるものだ)。一方、「クロトン半島はイタリアブーツのつま先だ」というようなメタファーは、プロップであるクロトン半島に注目させるためのものだ。
また、この論文においての虚構主義は、我々の心的状態の理解を一変させようとする革命的虚構主義ではなく、普通の人々は実は実在する状態としての心的状態にコミットしていないとする解釈的虚構主義だ。

academic.oup.com

 

 

行動主義との対比

行動主義は内的状態に対して一切コミットしていない。一方、虚構主義は信念・欲求などにはコミットしないが、それが表象するような内的状態にはコミットする。
ある状態に重ね合わせるべきフィクションは無数に存在する。このことが、行動主義の一般化の障害になっているのかもしれない。

道具主義との対比

道具主義とは、信念や欲求は、志向的システム理論において、行動をよりよく予測するための措定物だという立場だ。
道具主義への批判として、「ブロックヘッドの思考実験」というものがある。志向的システム理論に完全に合致するような行動をインプットされた機械仕掛けのブロックは直観的に思考者だとは見なされないが、道具主義はその直観が説明できないというものだ。
虚構主義はこの思考実験に対して説明を与えることができる。機械仕掛けの頭に対しては思考者であるというフィクションを与えることが適切にできないからである。
ダニエル・デネットは心的状態は「重心」のような、存在しないが適切な理解なのだとしている。また、デネットは心的状態のパターンは志向的姿勢により選び出され、それらは実在世界の対象における特徴なのだともしている。
デネットの説明は虚構主義によりよりよく理解できる。「雲が怒っている」というとき、怒った雲は存在しないが、世界の特徴を捉えている。同じように心的状態も、実在しないが、世界の特徴を捉えている。だが、複雑なメタファーはそうであるように、共通する物理的特徴がないならば、フィークサイコロジーのゲームに参加していない者は心的状態を選び出すのは難しいかもしれない。

接頭詞虚構主義との対比

接頭詞虚構主義とは、心的状態とはフォークサイコロジーという特定の理論の内容に変換できるという主張だ。対して、この論文で提唱されているのはフリ虚構主義といえる。フリ虚構主義では、子供がままごと遊びをするときのように、特定の理論やルール、テキストなどを必要としない。
接頭詞虚構主義の問題は3つある。
①フォークサイコロジーが現実世界とは別の可能世界(たとえば、フロイトが無意識について発表しなかった世界)で、現実世界と完全に同じ状態にいる人には、別の心的状態を付与しなければいけなくなる。

②普通の人々が関心を持っているのはフォークサイコロジーについての内容ではない。

③現象的に、心的状態について話しているとき、フォークサイコロジーによるお話について話しているわけではない。

フリ虚構主義は、心的状態とはフィークサイコロジーによるお話ではなく、人々の実際の状態について言及するためのフリだとする。ゆえに、フォークサイコロジーが別の世界でも現実世界と同じような心的状態が付与される。また、フォークサイコロジーではなく実際の人々に対しての関心が説明できる。心的状態について語るとき、それを通して実際の状態について語っている。

他の分野の接頭詞虚構主義と対比しても、心の接頭詞虚構主義は不利だ。
可能世界についての接頭辞虚構主義は“ルイスの『世界の複数性について』によると”を接頭辞とするが、心的状態について接頭辞虚構主義はそのようなテキストは存在しない。
一方、フリ虚構主義が求めるのは人々の行動をベースとしたルールに則った心的状態の付与のみであり、そこにはテキストはいらない。

消去主義との対比

消去主義とは、フォークサイコロジーは誤った理論であり、そこから導き出させる心的状態とは、フロギストンやエーテルのように消去すべきものだという立場だ。
虚構主義は、たとえ心的状態が存在しなくとも、それについて言及し続けることができるという面で、直観的に消去主義よりも秀でている。メタファーは存在しなくとも、認知的に有効な効果を生み出すからだ。

課題

課題①現象学的問題:我々が心的状態に言及するとき、それはメイク・ビリーヴのようには感じられない。
解釈的虚構主義ならば、フリを通して人々の行動についての真正の言及をしているためこの課題は回避される。

課題②メイク・ビリーヴには同一性条件に問題がある(ある心的状態と別の心的状態が同じかという質問に答えられない)
これは答えなくとも良い「愚かな問い」である。メタファー「犬のように素早い身のこなし」の犬の種類は確定しなくともよい。「怒った雲が雨を降らす」の雲が先日の雲と同一かという問題はどうでもよい。
数学的対象の実在論を批判する「オラクル論法」を応用して説明することもできる。もし、全知の者から「数学的対象は存在しない」というお告げがくだされたとしても、我々は「1+1=2」という発話を止めたりしない。つまり、もともと数学的対象の実在は必要なかったのだ。同じように、もしも「信念や欲求などは存在しない!」ということがわかったとしても、心的状態についての言及は続く。つまり、心的状態の実在は必要ない(ゆえにその同一性は問題とならない)

課題③心的状態がフィクションならば、因果を持たないはずだが、我々は心的状態を使って因果的説明をしている。これは矛盾だ。
「怒った雲が雨を降らす」において、怒った雲は存在しない、しかしこの発話においては真正の因果的説明が行われている。「怒った雲」というフィクションを使って実際の状態Sに言及しているからだ。同じように、たとえ心的状態が存在しなくとも、それを使った発話は因果的説明を果たしうる。

課題④心的虚構主義は不整合だ。「メイク・ビリーヴ」や「フリ」などの概念はそもそもがフォークサイコロジーに依拠している。フォークサイコロジーが正しくないという立場は矛盾している。
これは最も難しい課題である。未来の神経科学においては、フォークサイコロジーを使わずにメイク・ビリーヴについての説明ができるかもしれないが、現在はフォークサイコロジーの他に選択肢はない。

 

「フィクショナルキャラクターについての抽象的人工物理論を擁護する。なぜ、Sainsburyのカテゴリーミステイク反論は間違っているのか。/Abstract Artifact Theory about Fictional Characters Defended — Why Sainsbury’s Category-Mistake Objection is Mistaken」【Zvolenszky(2013)】

抽象的人工物説では、フィクショナルキャラクターは法や結婚と同じような抽象的な人工物である。Sainsburyは「抽象的人工物説が正しいのなら、作者や読者はキャラクターについてのカテゴリーを根源的に間違っていることになるが、それはおかしい」という「カテゴリーミステイク反論」を投げかけた。この論文では、カテゴリーミステイク反論が可能世界についての議論で強すぎる効果を持ってしまうこと。また、可能世界についての代用主義を利用することで、キャラクターについてのカテゴリーミステイクなしの理解ができることを述べる。

philpapers.org

抽象的人工物説:キャラクターは「結婚」と同じような抽象的人工物として実在する
Sainsburyの反論:作者や読者は、キャラクターを抽象的人工物として扱っていない。ゆえに人工物説においては作者や読者がキャラクターについて深刻なカテゴリーミステイクをしていることになる。

 

 

抽象的対象とは?

定義①具体的存在者のように時空上の位置を持っていない。定義②因果的力能を欠いている。
具体的対象:カップ、ビッグベン、J・K・ローリング
抽象的対象:数、集合、命題、性質→これらの抽象的対象が時点tにおいて存在することはtにおいてのいかなる心的活動からも独立している

別のタイプの抽象的対象:「抽象的人工物」(ex.チェスの試合)は時間的特徴を持っている。
「サッカーの試合」「チェスの入城」「結婚」「総理大臣」「アルファベット」「名前」「音楽作品」「小説作品」などはこのタイプの抽象的対象
フィクショナル・キャラクターについての抽象的人工物説:キャラクターもこのタイプの抽象的対象

 

フィクショナルキャラクターについての非現実主義

フィクショナル・キャラクターについての非現実主義:キャラクターは可能的対象である。
 現実世界と同じような可能世界を認める場合(可能世界についての実在論)→現実世界と因果的に隔絶された無数の可能世界があるとする。キャラクターは可能世界の具体的対象として在る。
 現実世界と同じような可能世界を認めない場合(可能世界についての代用主義)→可能世界とは、世界を表象する命題のうち整合的な極大の集合だとする。キャラクターは命題の集合として抽象的に在る。
 代用主義はキャラクターについての抽象的対象説に吸収される。

カテゴリーミステイク反論

Sainsburyのカテゴリーミステイク反論:作者や読者はハリー・ポッターに「人である」という性質が例化(exemplify)しているとするが、抽象的人工物説が正しいのであれば、それらの性質は例化していない(エンコードしているだけである)。ゆえに、人工物説が正しいのであれば、作者や読者は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。
※具体的対象は性質を例化する。エンコードはしない。抽象的対象は性質をエンコードする。(JKローリングはイギリス人であるという性質を例化するが、エンコードしない。ハリー・ポッターはイギリス人であるという性質をエンコードするが、例化しない)

 

著者の主張

著者の論法:カテゴリーミステイク反論は形而上学の議論のなかであまりにも強すぎる効力を持ってしまう。
可能世界についての代用主義においては、可能的個物は抽象的対象だ。しかし、「髪をブルーに染めることもできたな」と思うとき、心の中でその対象は具体的性質を持っている。カテゴリーミステイク反論が効果的ならば、日常的な見方は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。ゆえに、代用主義は間違いだということになる。
では、可能世界についての実在論はどうかというと、これもカテゴリーミステイク反論にさらされる。もしも、「あなたは無数の可能世界が具体的にあると思っていますか?」と聞かれたら「否!!」と答えるだろう。ゆえに、日常的な見方は深刻なカテゴリーミステイクに陥っているということになる。ゆえに、可能世界についての実在論は間違いだということになる。
よって、カテゴリーミステイク反論が有効であれば、可能世界について非実在論のみが残されることになる。
しかし、代用主義を独立して支持する議論がある。
私が靴下1を編んだとしよう、同じ糸巻きと編糸で、別の靴下2を編むことができたかもしれないが、編まなかった。代用主義によれば、靴下2は抽象的である(さまざまな性質をエンコードしている命題の集合である)。それらの命題は現実に存在するが、命題たちが表象しているシナリオは現実化していない。
ここで「ハリー・ポッター」に出てくるフィクショナルな靴下を考える。ハリーがしもべ妖精ドビーを解放するときに使った靴下だ。これを「ドビーソックス」と呼ぼう。代用主義においては、ドビーソックスを命題の集合とすることができる。ここで、それらの命題がドビーソックスと靴下2で全く同一だとしよう。違いは、ドビーソックス集合は「JKローリングにより創造された」という性質を例化しているが、靴下2集合は「私により創造された」という性質をエンコードしているという点だ。
このように、代用主義においては、可能的な対象とフィクショナルな対象を同列に扱うことができるのだ。代用主義はカテゴリーミステイクなしに人工物説を含意できる。

この論法に対する心配は3つある。

心配①:靴下2には代用主義における可能世界にあり、それは時間を欠いている。一方、ドビーソックスは人工物であり、時間の中にある存在だ。代用主義はそんなもの認めていいのか?
    回答①この違いを除いては、靴下2とドビーソックスは大変良く類似しているので、両者とも抽象物として扱うのが妥当。回答②オペラや小説など抽象的人工物の候補は大量にあり、抽象的人工物の否定論者は代案を出さねばならない。回答③オペラや小説などにおいては、プラトン的抽象物説よりも抽象的人工物説のほうが妥当。

心配②:キャラクターは表象のための装置ではなく、エンコードされている性質だ。一方、性質の集合は表象のための装置として使うことができるため、両者は同じものではありえない。
    この心配には簡単に返答できる。代用主義者が可能世界を命題集合と捉えるのに抵抗がないのと同じように、抽象的人工物説もキャラクターを命題集合とすることに抵抗がない。「靴下2は形やサイズをエンコードし、抽象物であることを例化する」をより正確に言うと「"靴下2"の命題集合が靴下2を表象し、靴下2は形やサイズをエンコードし、抽象物であることを例化する」である。同じように「ドビーソックスはフワフワであることをエンコードし、抽象物であることやJKローリングに作られたということを例化する」をより正確に言うと「"ドビーソックス"命題集合はドビーソックスを表象し、ドビーソックスはフワフワであることをエンコードし、抽象物であることやJKローリングに作られたということを例化する」だ。

心配③:複数の抽象的対象は質的に同じものなのか?ハリーポッターの次の巻で出てくるドビーソックスは前の巻のドビーソックスと同じものなのか?
    この心配はもっと馴染み深い抽象的対象を考えることにより解決する。ハンガリー憲法は作られた後には同一性を保持する。「ナウい」などの新語も同じように同一性を保持する。もしも法律や音楽作品などの存在を認めるのであれば、キャラクターについての存在も認めなければならないだろう。

 

ストーリーはどのような存在者か?【高田敦史(2017)】

ストーリーとは出来事であり、物語が示す命題(内容)ではない。ストーリーはキャラクターと同じような存在者である。物語性(物語の特徴)を担っているのは、出来事としてのストーリーである。ストーリーが出来事であることを念頭に置けば、作品間でストーリーを移植することや、ストーリーの同一性が曖昧なことが良く理解できる。

 

www.jstage.jst.go.jp

 

物語:ストーリーを語る表象

物語の(典型的)特徴:比較的少数の人や物に関わり、因果的結びついた(統一性のある)個別的な出来事や事実についての記述(フィクションであるかは関係ない)
物語性には程度がある:物語の特徴をたくさん持つ表象は物語性が高く、少ない表象は物語性が低い(カリーが提唱)
この論文の問題意識:物語性の担い手はどのような存在者か?

ストーリーの命題説:ストーリーとは「物語によれば真であること」である。(つまり、物語が提示する内容)
ストーリーの出来事説:ストーリーとは「物語が話題にしている出来事」である。(つまり、物語の外部に存在する出来事)
上の二つはいったいどこが違うの?:命題説においての内容は抽象的であり、時空的位置を持たないが、出来事説においての出来事は具体的であり時空上に位置を持つ。
ノンフィクションの場合、両者の違いは明白:二つの歴史書が些細な記述で食い違っていても、「同じ出来事を扱っている」とはいえるが「同じ内容である」とはいえない。
フィクションの場合、両者の違いは微妙:架空の出来事は時空上に位置を持たないため
それでも、両者の違いはある:物語が話題にしている出来事はフィクション世界内の存在者だが、物語が語る内容は現実世界の存在者である。

この論文での「出来事」:①特定の時空間に位置づけられる具体者。②複数の異なる記述により一つの出来事を指示することができる。③ある出来事が複数の出来事により構成される場合がある。(デイヴィッドソンによるもの)

虚構的真理:「このフィクションにおいて」というものが発言の頭についている限りにおいて真なる事柄
フィクショナルオペレーター:「このフィクションにおいて」
虚構性(fictionality):作品の内容だけではなく、鑑賞者の態度や行為にも適用される広い意味での虚構的真理(ウォルトンが提唱)
ウォルトンのメイクビリーフ理論:何かが虚構的であることとは、ごっこ遊びのゲームのなかで想像すべき事柄であるということだ(虚構的存在に対する鑑賞者の態度や行為はすべて想像上のフリである)
メイクビリーフ的態度:ごっこ遊びのなかでなされる想像

 

この論文の立場:ノンフィクション物語のストーリーは出来事であり、フィクション物語のストーリーは虚構的出来事である。
虚構的出来事:現実には存在しない、もしくは現実において(法や契約のような)抽象的な文化的人工物である。
この論文の立場への反論:虚構的出来事は出来事と呼べるような存在者ではないため、ストーリーが統一的な存在者でなくなる。
反論への応答:フィクションのストーリーはそもそもストーリーとはいえない。ホームズが人でないのと同じだ。

問題意識ふたたび:ストーリーは物語性の担い手となれるか?
命題説では、ストーリーは物語性の担い手にはなれない:ストーリーは物語のテキストから独立することができないから
出来事説では、ストーリーが物語性の担い手になれる可能性がある:ストーリーは物語のテキストと独立に特徴を持つことができるから

物語性の担い手は(部分的に)ストーリーであること(ストーリー構成説)の根拠。
物語の特徴づけは実際にはストーリーの特徴づけである:因果関係などは出来事が持つ性質であるので。この出来事が持つ性質を「経緯」と呼ぶ。

ストーリーは出来事であることの根拠
ストーリーは移植することができる:ストーリーは異なる作品やメディアに移植することができるが、命題説を取った場合、内容が変化しているため同じストーリーを移植することができなくなる。
移植についての三つの説明:混合説による説明・改良型命題説による説明・出来事説による説明
混合説による説明:ストーリーは物語により語られた出来事を含むが、それ自体は出来事ではない(抽象的存在者であり、時空的位置をもたない)
混合説の問題点:ストーリーに何が含まれているか決定する方法がない(物語とストーリーの関係性がはっきりしないので)

改良型命題説による説明:「ストーリーの移植にあたって求められるのは、厳密な同一性ではなく、緩やかな類似性である」
改良型命題説への反論:演出を変えて悲劇を喜劇にしたとするなど、同じストーリーだが類似性はない場合がある。

出来事説による説明:ストーリーは特定の複合的出来事(経緯)なので、それは様々な記述により特定できる。ストーリーの移植は、キャラクターの移植と同じように考えられる。

キャラクターの移植反実在論実在論どちらでも形而上学的問題はない
反実在論においてのキャラクターの移植:キャラクターは存在せず、ごっこ遊びにより存在するフリをしている。移植とはごっこ遊びゲームの拡大である。
実在論においてのキャラクターの移植:キャラクターは法や契約などといった抽象的文化的人工物である。移植とは、創作物としてのキャラクターに対する新たな想像であり、移植作品におけるキャラクターは現実においても原作キャラクターと同一である。

ストーリー移植とキャラクター移植の類似性:どちらも単なる偶然的類似だけでなく、元の作品を適切に知っていなくてはならない。また、重要な部分が保持されていなくてはいけない。

ストーリーの同一性基準のあいまいさの説明:出来事説においては、ストーリー同一性基準が曖昧であることが説明できる。キャラクターの同一性と同じように、ストーリーに対しても鑑賞者の相対的判断で同一性基準が分かれる。

行為における合理性と因果【山田友幸(2013)】

www.jstage.jst.go.jp

 

ある理由が行為を合理化するのはどのようなときか?:人が一定の種類に対するある種の賛成的態度を持ち(欲求)、自分のする行為がその種のものだと知っている(信念)場合(デイヴィッドソンの立場、ホーガンとウッドワードがさらに条件を足しているが省略)
行為の因果説:上のように定義される主要な理由は行為の原因である。

因果説に対するサールの反論:欲求と信念により因果的に決定される行為は合理的ではなく、不合理的である。
三つのギャップ:サールが提唱した理由と行為の間のギャップ。
合理的意志決定における理由と決定の間のギャップ:選択の余地がないときは合理的意志決定とはいえないが、因果的決定に自由はない。
意思決定と行為の実行の間のギャップ:意思決定をしたとしても、その行為を実行しないことがあるが、事前の決定が因果的決定なのであればそんなことは起こらないはずだ。
時間のかかる行為の開始と完遂までの継続のギャップ:行為を決定したとしても、その行為を継続して完遂するためには自発性が必要であるが、因果的決定にはそれがない。

サールの志向性理論:意図的行為において、事前意図(prior intention)と行為内意図(intention-in-action)が区別される。
行為内意図は事前意図や行為の理由により因果的に決定はされない。(ただし、行為内意図は身体行動を因果的に決定する)
サールに対しての反論:これらのことは直観的には正しいが、自由意思が幻想であることも考えられる。

自由意思論争:自由意思が存在するという信念と宇宙が物理法則により決定される閉じたシステムであるという前提が矛盾するのをどう解決するかという論争。

理由の熟慮と意思決定の間の関係:もしもこの関係が決定論的であれば、自由意思はないという立場をサールはとる。では、どのような関係が成り立つのか?二つの仮説がある。
仮説①:物理的な脳状態の変化は因果的に決定されているが、それにより引き起こされる理由の熟慮と意思決定の関係は決定的ではない。
    →もしそうであれば、合理的な意思決定は物理世界に影響を及ぼさないということになるが、なぜそのようなシステムが進化してきたのかという問題が生じうる。
仮説②心理的なレベルのギャップに対応して、物理的なレベルでもギャップがある。サールはこちらを支持する。

仮説②は神経生物学の説明を矛盾するのではないか?:サール「そんなことはない」
仮説②と矛盾すると思われる神経生物学の実験:リベットの実験(行為内意図に意識的に気づく350ミリ秒前に脳では準備電位が発生している)
リベットの実験は自由意思と矛盾しない:刺激に意図的に気づく前に行為がはじまっていようとも、その行為は事前意図に依存する(たとえば、野球選手の身体運動は前意識的であるがそれらは練習により生み出される)
物理的ギャップはどこにあるか?:脳システム全体の意欲的な部位において生じていることと、その次に生じることの間

だが、そもそもなぜ、因果的に不十分な条件の説明(サールにおいての「理由」)が説明として受け入れられるのか?:理由の説明とは、「なぜあなたがそれをしたのか」という問いに対するものであり、「それ以外のことが生じるのは因果的に不可能」ということを要求していないから。
サールが提唱する自我の概念:知覚の束に還元されない。欲求と信念が与えられ、推論の上で行為する。それらの意志決定は理由に基づいているが、決定はされていない。自我は責任の位置する場所(the locus of responsibility)である。自我の選択は自らがこれから行うことに関わる選択である(時間のなかで時間に関して推論する存在)。これらは脳の神経生物学的システムの特徴だ。
「先行する因果的十分条件に基づくのでなしに、因果的に進行するメカニズム」が必要になる。このメカニズムの可能性は真剣に検討するべきである。