水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

【まとめ】最近読んだAI倫理関連の論文を三文以内でまとめる①

Luke Muehlhauser, Loutie Helm. 2012. "Intelligence Explosion and Machine Ethics"

倫理理論に対して、『超AIがその理論にしたがったら世界がどうなるか』という観点からテストできる。人間の認知の特性を調べたところ、AI倫理としては、理想的な情報下で理論と人々の直感がどうバランスをとるかを考える『整合性のある外挿的意志作用coherent extrapolated volition』というアプローチが有効だと思われる。

 

Susan Leigh Anderson and Michael Anderson. 2006. "The Consequences for Human Beings of Creating Ethical Robots"

AIに対して倫理を埋め込む利点は①倫理理論の発展、②ロボットが倫理的にふるまうことを保証、③理想的な倫理行為者の誕生というものがある。人間の場合は倫理に感情が必要だが、AIの場合は感情なく倫理法則にしたがうことによりより倫理的になりうる。倫理的AIを製作することは倫理的に求められるかもしれない。

 

Stanford Encyclopedia of Philisophy "Computing and Moral Responsibility"

コンピュータが倫理的責任を持つ条件についてはDennetは高階の信念、Sullinsは十分な意図表現の抽象化とするが、道徳的推論は情報処理で理解できないという反論がある。Moorは倫理AIを倫理性を持つデザインが施されたimplicit ethical agents、倫理的行動をとることができるexplicit ethical agents、倫理的主体とみなされるfull ethical agentsに分けた。Floridi and Sandersはresponsibilityとaccountabilityを分け、ロボットや犬は後者としての責任はあるが前者としての責任はないとした。

 

Ryan S. Tokens "Ethical Implementation: A Challenge for Machine Ethics"

AI倫理はカント的義務論アプローチが有効であるが、カント倫理を基盤とした人工道徳行為者は道徳をプログラムされており自由ではないのでカント的ではない。たとえそれ自身がカント的であろうとも、人口道徳行為者の創造は主体を単なる手段としているためカント的ではない。

【メモ】『コングレス未来学会議』アリ・フォルマン監督×山村浩二さん対談

TOHOシネマ日本橋で行われている東京アニメアワード2015

そこで先行上映された「コングレス未来学会議」に行って来ました。

上映終了後、監督のアリ・フォルマンさんとアニメーション作家の山村浩二さんの対談がありましたので、そのときの様子をメモしたものを載せます。

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【まとめ】アイマス・ラブライブ以降の二次元アイドルコンテンツまとめ

現在は多数の二次元アイドルコンテンツが作られています。

その双璧をなす存在として、『アイドルマスター』と『ラブライブ!』が挙げられます。

また、女児アニメの『アイカツ!』と『プリパラ』、新作映画化も決まり勢いに乗っている『WakeUp, Girls!』などのコンテンツも追い上げています。

しかし、世の中にはまだ多数の二次元アイドルコンテンツがあるのです。

今回は、それらのコンテンツをまとめてみました。このなかから将来大ヒットするコンテンツは出てくるのでしょうか?

 

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【メモ】分析哲学メモ

●言語論的転換:言語の機構の解明により他の機構を説明しようという方針の転換

人工言語派:日常言語では哲学の諸問題は解決できないので論理学に基づいた言語を作ろう

●日常言語派:日常言語を丁寧に分析していけば哲学的問題に答えられる

●意味のイメージ説:言葉の意味の同一性は言葉に結び付けられたイメージの同一性により支えられるという説。他者のイメージと自分のイメージは共有できないため、意味の客観性が説明できない。また、具体的なイメージからは概念的なイメージが抽出できない。更にイメージからは規則が読み取れない。

●意味の指示対象説:言葉の意味の同一性は言葉が指し示す対象により保証されるという説。抽象的概念を説明しようとするとプラトニズムを持ち出さないといけない。偽の文は何を示すのかという問題がある。

●確定記述句:単一の事物を指す表現は固有名・代名詞・確定記述句がある。これは定冠詞によって記述される句であり、日本語にすれば「あの唯一の」を付けた句。

●ラッセルの記述理論:確定記述句には対象が存在しないことがある(ex現在の日本大統領)。そのようような句はある特定の一人について語ったものではなく、いくつかの文に分解できる。
 「現在の日本大統領は女性である」→「現在の日本の大統領であるものが少なくとも一つある」かつ「現在の日本の大統領であるものは多くても一つである」かつ「現在の日本の大統領であるものすべては女性である」
 また、固有名も省略した確定記述句と見なし、同じような作業で消すことができる。

●ペガサスる:固有名『ペガサス』を述語化するためにクワインが導入した述語。ペガサスであることを分解不可能に示す。「ペガサスは存在しない」という文は、「あらゆるものについて、ペガサスるものは存在しない」と翻訳でき、有意味であることが分かる。全ての存在から述語により検索しているような感じ(実際には、検索できるものが存在である)

●文脈原理:命題に含まれる語の意味は命題の真偽にどう貢献するかによって決まるという原理(フレーゲ)。語単独が意味を持っているのではなく、命題の真偽が決まってはじめて語の意味が決まる。

●「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」:『論理哲学論考』の第一文、「事実」とは真なる命題のことであり、「もの」とは命題の要素のこと。世界は命題と同じ形式で存在しており、命題を語に分解するのと同じように事実をものに分解できる。

●要素命題:分解不可能まで分解された原子的命題、これを論理語によってつなぐことで命題が完成する。

論理実証主義:要素命題は直接的経験に対応し、それを論理語により結びつけた命題のみが有意味であるという考え方。

●意味の検証理論:論理実証主義者が主張する意味の理論。命題の意味とはそれがどんな経験により検証されるかによる。

論理実証主義の問題:全称命題は経験により検証できない。理論語を観察語に翻訳するのは難しい。傾向性を扱うことができない。

デュエムクワインテーゼ:(論理実証主義の主張のように)実験・観察で検証されるのは単独の命題ではなく、多数の命題の集まりである。

全体論ホーリズム):多数の命題がネットワークをなしており、ある経験による命題の変更は一つの命題ではなくネットワーク全体の再調整をもたらす。

●分析的真理と総合的真理の区別:論理実証主義者は観察に基づかない分析的真理と観察に基づく総合的真理が区分されるとしたが、全体論でははっきりした区分はない(再調整されやすいかされにくいかの程度差にすぎない)

●意味の使用説:言葉の意味は言葉の使用にほかならない。言葉そのものには意味はない、言葉を駒にしてある種のゲームが行われているが、その実践が意味となっている(実践の根拠や規則はなにかということを遡ることはできない)。一種の即興ごっこ遊びがそのまま意味・規則となる。我々にできるのは言語ゲームの根拠を探すことではなく、ただ言語ゲームを記述することのみである。

●可能世界意味論:様相的概念(偶然性・必然性)まで述語論理学を広めようとする試み。我々の世界とは違うが論理的に破綻のない可能世界を考える。すべての可能世界で成り立てば必然であり、ある可能世界で成り立てば偶然である。クリプキによれば可能世界は実在しないが、ルイスによれば実在する。

●固定指示詞:全ての可能世界で同一のものを指す名前、クリプキは固有名を固定指示詞だとした。一方、記述句は可能世界を貫いて同じものを指すことはできない(「アリストテレス」は全ての可能世界のアリストテレスを指すが、「プラトンの弟子」はそうではない)

●同一性の必然性:クリプキの考えでは、固定指示詞Aと固定指示詞Bが同一であることがわかれば、その同一性は必然的であることがわかる(すべての可能世界で成り立つ)。「水はH2Oである」は必然的真理である。

●指示の因果説:固有名は最初の命名儀式により個物と結びつき、それが因果的に継承される。クリプキのアイディア

本質主義:本質とは、ある事物がそれが存在する全ての可能世界で持っている性質だが、自然科学的活動はその本質を探し出すものである。

●自然種:一般名のうち固定指示詞の機能を持つもの。「金」「水」などの物質名、「牛」「虎」などの生物種名など。

参考文献
山拓央『分析哲学講義』

【メモ】心の哲学メモ

心の哲学

二元論における二つの問題
 ○心物因果の問題:非物理的原因が物理的原因を動かすのは念力のようなもの
 ○過剰決定の問題:心的状態と物理的状態という二つの原因が身体行動を決定していることとなってしまう。しかし、どちらか単独で十分な原因のはず。

●心脳同一説:各タイプの心の状態は特定のタイプの脳状態と同一である
       例:「カレーが食べたいな」とする心の状態群aは、一連の脳状態群αに他ならない。
       反論:痛み感覚はC繊維興奮タイプと同一だとすると、試験管の中でC繊維を興奮させていたら痛みがあることとなってしまう。

●機能主義:各タイプの心の状態は、特定の機能(どのような因果的役割を果たすか)で定義される状態である。
      例:カレーの香りの知覚は、カレー臭による物理的刺激を原因として、カレーを食べたいとする欲求などを引き起こす機能的状態
      いろいろな種類の物質により同じ機能を果たせる(同じような因果的役割があればよい)

クオリアによる物的一元論批判
 ○クオリア逆転
 ○クオリア欠如 →同じタイプの物理的存在が違うタイプの心的状態になることは可能
  反論:想定可能であるが実際に可能でないことがある(一気圧のとき水が80℃で沸騰することは想定可能であるが、実際には不可能)
  再反論:水の場合は、物理的にあますとこなく書き示せば一気圧のとき80℃で沸騰することが不可能だと分かるが、意識はそうではない

●知識論法による物的一元論批判:全ての物理的知識を知ったとしても、新しい経験的知識を学びえる
 反論:同じ一つの事実を異なるやり方で知ることができる(あるものが1メートルであることを知ったとしても、1,1ヤードであることを新しく知ることができる)

志向性:何かを表したり意味したりする働き、「雨が降っている」という文や富士山の絵は雨や富士山を表すので志向性を持つ

●構文論的構造:どこでも共通に使える構成要素(文脈独立性のある要素)が構成規則(文法)により組み合わされる構造。言語はこの特性を持つ。

●志向的特徴と内在的特徴:表象により表されている特徴が志向的特徴、表象自体に備わる特徴が内在的特徴(「青い」という語において青いということが志向的特徴、二文字でできているなどの性質が内在的特徴)。言語は内在的特徴を共有できるが、絵画は共有できない。

●命題的態度:信念・欲求など「~ということ」と表現できる心の状態。構文論的特徴をもち、言語に類する。
       心脳同一説や機能主義が正しければ、脳状態(脳の機能状態)もまた構文論的特徴を持つはずだ

クオリアの志向説:クオリア志向性の一つとして理解しようという説、クオリアは心の内在的特徴ではなく、心によって表象されている志向的特徴である
          心がどのように対象を表象しているのかが理解できれば、クオリアを物的一元論で理解できるとする。

●物的一元論による志向性の説明:
 ○因果的説明:XがYを表象するのは、YがXの原因であり、その間に安定した関係が存在するとき(知覚の原因が目の前の木であり、目の前の木は安定して知覚と関係すれば知覚は木を表象する)    
    反論:「誤表象問題」悪条件のもとでは、木が幽霊に見え(木が原因で幽霊の知覚が生まれ)、その関係が安定的であることがある。そのとき、因果的説明によると幽霊の知覚は木を表象していることとなる。
 ○目的論的説明:心が信念や知覚を表象しているかどうかは、そのとき実際に欲求を満たす行為が生じるかどうかで決まる(目の前に水があるとき、水があるという信念は水を飲むという行為を満たし、表象は真となるが。目の前に毒物があれば、水を飲むという行為を満たせないため、「水がある」という表象は偽となる) 欲求の表象は進化論的に説明できる。
         反論:自殺したいという進化論的に説明できない欲求がある。進化論的系譜がないロボットなどの表象はどうするのか?スワンプマン問題

●合理性:命題的態度が他の命題的態度や行為を理にかなったものにする関係。合理性を元とする説明を合理的説明(または解釈)と呼ぶ。
 
●機能主義と合理性:機能主義によれば、合理性が成り立てば因果性が成り立つ(機能状態とは合理的な因果関係を成立させる役割である)
          →合理的関係は脳などの因果的関係により成り立っている

●消去主義:脳状態には構文論的構造が存在しないため、命題的態度の実在性を否定する立場。その根拠となるのは脳神経のネットワークは複数のものごとを個別にではなく全体に分散して表象していること(コネクショニズム)。命題的態度はフロギストンのように誤った理論存在である。

●解釈主義:命題的態度の合理性は因果性から自立しているため、脳状態に構文論的特徴がなくとも命題的態度は消去されないという立場。立場では命題的態度の本質は合理性である
      反論:不合理な命題的態度の関係もあるのではないか?

●命題的態度の不合理性:自己欺瞞的な信念と自制を欠いた行為→これらは居所的なものであり、背後に大多数の合理的な関係があり、例外的に不合理的な関係がある。

他我問題:他者に心があることをいかに知ることができるかという問題
      二元論を仮定→直接認識できるのは物理的存在のみであるから解決が難しい
      ○類推説:自分の心と行動には相関関係があるから、それを他者にも適用して他者の心を認識できる。問題:たった一つの事例だけを一般化はできない。
      行動主義を仮定→他者の心とは他者の行動傾向なので心を認識できる。

●心の全体論的性格:行動と結びついているのは単独の心的状態ではなく、複数の心的状態が全体として結びつく(タクシーに手を挙げるのは、タクシーを止めたいという欲求の他に、タクシーが移動手段であるという信念や、タクシーに手を挙げれば止まるという信念やほかたくさんの心的状態と結びつく)。全体論的な行動主義が解釈主義である。

●自己知の問題:他者の心の状態に関しては、証拠がなければ判断できないにもかかわらず、自分の心の状態は証拠に訴えるまでもなく正しくわかるのはなぜか?

●自己知の不可謬性:Sは自分の心の状態がMであると信じていれば、心の状態はMである
●自己知の自己告知性:Sは自分の心の状態がMであれば、自分の心の状態がMであると信じている
  →反例:自己欺瞞

●自己知の直接性:自分の心の状態がMにあるという信念は、他人が自分を見てMにあるとする信念と異なり、直接的に形成される。

●内観:自分の心の状態を非推論的に知覚する能力。他者の行動を知覚することも非推論的過程であるが、他者の信念は知覚を元に推論しなければならない。内観は不可謬だとされる。二元論的な説明のため現在ではあまり支持者はいない。

参考文献
金杉武司『心の哲学入門』

 

 

【論文まとめ】「現象判断のパラドクスと因果性 / The Paradox of Phenomenal Judgment and Causality」【Chris Naegle】

チャルマーズの『哲学的ゾンビ』論法(様相論法)により生み出された性質二元論への批判論文です。

原文はここで読めます。

 

現象判断のパラドックスと因果性

要約:様相論法により導き出された性質二元論では、意識には物理領域への因果的インパクトがなく、付随主義となり、現象判断が信頼できなくなる。
   性質二元論よりも確からしいものとして消去主義か交差二元論がある。

Ⅰ、定義
 物理的性質:行動的・化学的・機能的性質
  →性質二元論では心を構成している現象的性質とは別
 判断:現象的性質の機能的描写として理解できる
 
Ⅱ、様相論法と付随主義
 様相論法:意識のない哲学的ゾンビは論理的に可能である。
      →物理的性質と現象的性質は必然的な関係にあるわけではなく、ア・ポステリオリな関係である。
 二元論だと心的システムと物理的システムの二つで因果決定が起こる過剰決定になってしまう
      →付随主義ならば避けられる。心的システムと物理的システムは平行の関係にある。
 様相論法は付随主義を支持する。心的システムと物理的システムが交差するという交差二元論者は様相論法を欠陥があるとするだろう(意識がなければ物理的システムが違ってくる)
 
 Ⅲ、現象判断と付随主義
  フランク・ジャクソンの『メアリーの部屋』思考実験:色盲の天才科学者メアリーが全ての物理的事実に精通しても、色を見るという経験には行き着かない。
  現象判断:経験を持っているという判断、色が見えるようになったメアリーは「赤ってこんな色だったんだ!」と判断する。
  現象判断は非因果的なものがなければならない、さもなくばメアリーは新しい知識を得ることがない(物理知識によりことがすむ)か現象的性質が物理的性質に影響を及ぼすことができるか(性質二元論・付随主義ではなく交差二元論)のどちらか。
  現象判断が非因果的だとすると、知識も非因果的なこととなる→メアリーの経験知識は非因果的にもたらされるということになる。
 
  たとえ、メアリーが新たな知識を得ることを認めても、現象性質と物理性質が別とはいえない。現象的経験が機能的信念や行動と偶然的にしか結びつかなければ、なぜ現象と現象判断が結びつくといえるのか?現象と物理が独立に起こるものだとすると、物理的領域から精神物理法則(現象と物理がどのように関係しているかという法則)を導き出すのは不可能となる。
  さらに、付随主義者が説明する「現象」は実際の現象となんの関係もなくなってしまう。
  
 Ⅳ、付随主義への他の反論
 ○物理性質と心的性質に必然的関係がないのであれば、他者の心について何もいえなくなる。
 ○付随的意識は物理性質と関係ないので自然選択されない→ジャクソンの反論「クマの羽毛の重さは機能がないけど羽毛の温かさという性質に付随して選択された」→再反論:もしある特性が非因果的であれば、絶対にそれが自然選択されることはない。
 ○現象的性質は物理的性質に影響を与えることはない、しかしながら現象的性質と物理的性質は規則的に関連している。これをどのように説明するのか?
 ○現象的性質がクォークに内在するような性質だとすると、小指をぶつけたということがどのようにその性質と関連しているのか?

 Ⅴ、結論
 付随主義を否定するならば、選択肢は二つ
 ○交差二元論:物理性質と心的性質は独立して存在し、影響を与え合っている→心身問題が立ちはだかる
 ○消去主義:心的性質など存在しない、ゾンビ世界とは現実世界のことである→我々の経験現象から受け入れがたい
 心的因果を保ったまま物理主義を唱える(非還元的物理主義)は付随主義になってしまい、不可能