チャルマーズの『哲学的ゾンビ』論法(様相論法)により生み出された性質二元論への批判論文です。
原文はここで読めます。
現象判断のパラドックスと因果性
要約:様相論法により導き出された性質二元論では、意識には物理領域への因果的インパクトがなく、付随主義となり、現象判断が信頼できなくなる。
性質二元論よりも確からしいものとして消去主義か交差二元論がある。
Ⅰ、定義
物理的性質:行動的・化学的・機能的性質
→性質二元論では心を構成している現象的性質とは別
判断:現象的性質の機能的描写として理解できる
Ⅱ、様相論法と付随主義
様相論法:意識のない哲学的ゾンビは論理的に可能である。
→物理的性質と現象的性質は必然的な関係にあるわけではなく、ア・ポステリオリな関係である。
二元論だと心的システムと物理的システムの二つで因果決定が起こる過剰決定になってしまう
→付随主義ならば避けられる。心的システムと物理的システムは平行の関係にある。
様相論法は付随主義を支持する。心的システムと物理的システムが交差するという交差二元論者は様相論法を欠陥があるとするだろう(意識がなければ物理的システムが違ってくる)
Ⅲ、現象判断と付随主義
フランク・ジャクソンの『メアリーの部屋』思考実験:色盲の天才科学者メアリーが全ての物理的事実に精通しても、色を見るという経験には行き着かない。
現象判断:経験を持っているという判断、色が見えるようになったメアリーは「赤ってこんな色だったんだ!」と判断する。
現象判断は非因果的なものがなければならない、さもなくばメアリーは新しい知識を得ることがない(物理知識によりことがすむ)か現象的性質が物理的性質に影響を及ぼすことができるか(性質二元論・付随主義ではなく交差二元論)のどちらか。
現象判断が非因果的だとすると、知識も非因果的なこととなる→メアリーの経験知識は非因果的にもたらされるということになる。
たとえ、メアリーが新たな知識を得ることを認めても、現象性質と物理性質が別とはいえない。現象的経験が機能的信念や行動と偶然的にしか結びつかなければ、なぜ現象と現象判断が結びつくといえるのか?現象と物理が独立に起こるものだとすると、物理的領域から精神物理法則(現象と物理がどのように関係しているかという法則)を導き出すのは不可能となる。
さらに、付随主義者が説明する「現象」は実際の現象となんの関係もなくなってしまう。
Ⅳ、付随主義への他の反論
○物理性質と心的性質に必然的関係がないのであれば、他者の心について何もいえなくなる。
○付随的意識は物理性質と関係ないので自然選択されない→ジャクソンの反論「クマの羽毛の重さは機能がないけど羽毛の温かさという性質に付随して選択された」→再反論:もしある特性が非因果的であれば、絶対にそれが自然選択されることはない。
○現象的性質は物理的性質に影響を与えることはない、しかしながら現象的性質と物理的性質は規則的に関連している。これをどのように説明するのか?
○現象的性質がクォークに内在するような性質だとすると、小指をぶつけたということがどのようにその性質と関連しているのか?
Ⅴ、結論
付随主義を否定するならば、選択肢は二つ
○交差二元論:物理性質と心的性質は独立して存在し、影響を与え合っている→心身問題が立ちはだかる
○消去主義:心的性質など存在しない、ゾンビ世界とは現実世界のことである→我々の経験現象から受け入れがたい
心的因果を保ったまま物理主義を唱える(非還元的物理主義)は付随主義になってしまい、不可能