水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

想像とフィクション:いくつかの問題 / Imagining and Fiction: Some Issues 【Stock(2013)】  

onlinelibrary.wiley.com

 

この論文では次の三つの問題を扱う。

①フィクションは想像により定義できるか?
②フィクションの想像はde re(事物についてのもの)かde se(自己についてのもの)か、もしくはその両方か?
③「想像することの抵抗」はどのように生じるか?

 

 

読者に想像を規定する作者の意図はフィクションの本性に入るか?という問題

賛成派:フィクションの(部分的)定義とは想像を規定する発話である。(カリー、ラマルク、デイヴィス、グリシアン)。想像を規定し、偽か偶然的真な発話がフィクション(カリー)。フィクションの発話は「フィクティブ・スタンス」を構成する:読者が想像し、かつ、真ではないと信じ、また作者はそれを真だと信じていないのだと推測できるような発話である(ラマルク、Olsen)。想像を規定し、発話の理由が真理宣告でないような発話がフィクション(デイヴィス)
反対派:現実世界の真理について無関心な発話が、フィクションの必要十分条件だ(Detsch)。非意図的なフィクションが自然に生ずることもある(ウォルトン

フィクションのなかの多くの発話が真であるため(フィクティブ・スタンスは思ったほどフィクションの大部分を占めていない)、賛成派の定義は修正しなければならない。
修正案:「想像」を以下のように定義する。思考者がある命題pを信じていない、または、思考者がpを信じているがそれにつながる更なる命題を信じていない(たとえば、沼津が静岡県にあることは信じているが、そこに浦の星女学院があることは信じていない)。フィクションの個々の発話はフィクティブ・スタンスを満たしていないこともあるが、全体としては満たしている。

修正案に対するフレンドの強力な反論:ノン・フィクションは非偶然的な真理の担い手となるが、想像が含まれた発話により構成されているものがある。(たとえば、ヒトラーが1944年に暗殺されていればどうなったかを検証するドキュメンタリー)
フレンドはフィクションはジャンルだとした(いくつかの典型的特徴により構成されているが、必要条件ではない)

 

フィクションでの想像活動は、自身についてのもの(de se)か、事物についてのもの(de re)か?

二つの回答
①想像活動はすべて自身についてのものである
②部分的な想像活動は自身についてのものである
リカナチのde se想像の分類、(1)姿の想像(2)思考によって構成されている自分(3)プレゼンテーションのモード(内からのxすることの想像)
①はフィクションの想像は上の三つのどれかであるという主張。たしかに、空間的想像はすべてde seという根拠があるが、命題的想像は空間的想像ではない。
②を支持する哲学者たちはde se想像がフィクションにおけるさまざまな現象をよく説明すると主張。たとえば、ウォルトンはフィクショナルなものEを想像するということは、自分のなかで特定のEを知っているということを想像することだとしている。ウォルトンによれば、特定のものについての想像はすべてde se想像だ。
しかし、de se想像だけど特定のものについての想像ではない事例や、特定のものについての想像ではないけどde se想像である事例がある。
また、de se想像は、フィクションに対して強い情動を感じることを説明する。キャリーは、フィクションのなかでの事物についての感じ方が実生活と違うことを説明するため以下のメカニズムを提唱した。まず、de re想像をして、次に自分が現実とは別の情動反応を起こすような人であるようなde se想像をする。Alwardはそれを批判して、フィクションへの想像はde re想像のみだとしている(何らかのイベントが起きるという事物についてのことのみ)。しかし、たとえテキストがde re想像を促すようなものでも、それを基盤にしてde se想像が発生することは可能だ。空間的なde re想像は、視点を持つde se想像に容易に変換される。
キャリーはフィクション名が空名にならないようにする方法として、フィクション名の意味はそのキャラクターに課せられた性質によって固定されると論じた。この問題は、たまたま同じ性質を持った現実の人がいればその人を指示してしまうというものだ。キャリーはフィクショナルなイベントにおいての知識という性質によってフィクショナル・キャラクターと現実の人物を区別できるとした。
もっと根本的な批判として、想像においてはde re とde seの区別はないというものがある。作者がde se想像をしろと規定したテキストをde re想像したところで区別は生まれないとするものだ。

 

想像することへの抵抗

「自分の赤ん坊を殺すにあたり、ギゼルダは正しいことをした。結局のところ、それは女児なのだ」という文章(GK)を読んだとき、たいていの読者はGKを正しいと想像することに障害を感じる。これはなぜだろう。二つの説明ができる。一つは、文の理解困難に起因するというものだ。二つ目は、特定の(道徳的)欲求や欲求風のスタンスになることの抵抗に起因するというものだ。
第一の立場のウォルトンは、道徳的事実は自然的事実に付随すると仮定している。GKに想像抵抗を感じるのは、自然的事実と道徳的事実の付随関係が破られているからだ。そのような付随関係の破れ(あるいは別の付随関係)に対しての理解困難が抵抗の原因だ。Weathersonは高階の性質(正しい)と低階の性質(赤ん坊を殺す)を結びつけることが理解困難であるため想像の抵抗が生まれるとした。Stockは、概念の理解困難というよりも、読者の認知的限界に説明を求める。GKに想像抵抗を感じるのは、読者がそれが真になるような状況について考えが及ばないからだ。
第二の立場では、読者の特定の欲求あるいは価値観に説明を求める。Gendlerは、GKに想像抵抗を感じるのは、GKへ想像的に従事しようとする欲求を欠いているからだとした。キャリーは欲求ではなく欲求風の想像の欠如に原因を求めた。または、「欲求風の想像をしたいという想像」が欠如しているからだ。この返答には、道徳に関係ない文についの想像抵抗はどうなんだという反論が出る。
第一の立場と第二の立場を調停したものも可能だ。道徳においては「厚い概念」といわれるものがある。野蛮だとか、優しいだとか、思慮深いだとか、記述的内容があるが、ある程度まで評価的価値が含まれている概念だ。対して「善い」や「正しい」は「薄い概念」といわれる。読者がGKに想像抵抗を感じるとき、道徳的欲求の欠如と文の理解困難は同じソースがあるかもしれない。厚い概念を適用する能力がいないことだ。