水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

フィクションにおいての真理 / Truth in Fiction【Woodward(2011)】

Truth in Fiction - Woodward - 2011 - Philosophy Compass - Wiley Online Library

 

 


1.フィクショナルワールド

ある人がフィクションに従事しているとき、フィクショナルワールドについての情報を手に入れていると思われる。
フィクショナルワールドとは、フィクションのなかにある人や物がいる世界である。
ホグワーツは『ハリー・ポッター』という物語のフィクショナルワールドのなかにあり、じゃぱりカフェは『けものフレンズ』という物語のフィクショナルワールドのなかにある。
フィクショナルな真理は、フィクショナルワールドに関係した真理である。
単にフィクショナルワールドを引いてくるだけでは、問題は解決しない。フィクションのなかでの真理とはなにかを考えるためには、「フィクショナルワールドとはなにか」という問題と「作品がどのようにフィクショナルワールドを指し示すか」という問題を解決しなければいけない。
前者を同一性問題、後者を生成問題と呼ぶことにする。

 

2.同一性問題

 フィクショナルワールドについての問題はフィクショナルキャラクターについての問題と見ることもできる。ウォルトンなどのキャラクターについての非実在論者は、フィクショナルワールドは存在しないため、同一性問題はないというだろう。
 一方、フィクショナルワールドを別の概念により還元しようとする立場もある。
 その一つが、可能主義であり、フィクショナルワールドを可能世界だとする。
 しかし、フィクショナルワールドは可能性により同一性を与えられているわけではない。
 たとえば、『フランダースの犬』は太陽系の果てにある小惑星の元素構成についての真理を確定させていない、しかし、可能世界ならばそれは確定している。
 これに対処するため、ストーリーワールドを定義する。定義は以下:フィクションにおいて真(偽)な命題は、すべてのストーリーワールドにおいて真(偽)。
 フィクションはストーリーワールドすべての集合だとする。
 だが、問題が起こる。不可能なストーリーもありうるのだ。そのとき、すべての不可能なストーリーは空集合となり、同じものとなる。
 また、ストーリーのなかで整合しない命題があるときも問題が起きる。シャーロック・ホームズシリーズでは、ワトソンが体に一つだけの傷があるとしているが、『緋色の研究』では肩、『四つの署名』では足に傷があるとされる。
 これらの問題に対処するために二つのオプションがありうる。①フィクショナルワールドは、整合的なストーリーワールド集合の共通部分である。②フィクショナルワールドは、整合的なストーリーワールド集合を合わせたものである。
 しかし、どちらのオプションも問題が発生。①では、ワトソンの傷はフィクショナルワールドから排除される。しかし、排除される要素がフィクションの中核的要素だということもありうる。②だと、ワトソンは体に一つだけ傷があるが二つ傷があるという矛盾が起こる。
 これに対処するため、①不可能世界(矛盾がある世界)を認める。②何をフィクションとするかについての我々の直観が間違っている(実は『シャーロックホームズシリーズ』はフィクションではない)というオプションがある。

 

3.生成問題

 作品が明示している命題(基幹真理)以外にも、フィクショナルな真理はどんどん増えていく。 
 たとえば、『アルプスの少女ハイジ』は登場人物に脳があるとは明示していないが、脳があることはフィクショナルな真理だろう。
 では、フィクショナルな真理はどのように生成されるのだろうか?
 生成方法の一つに「現実性原理」がある。

 現実性原理:p1....pnをある表象体によって虚構性が直接的に生み出される命題であるとするときに、別の命題qがその表象体において虚構として成り立つのは、p1.....pnが事実であるならばqが事実であるとき、そのときに限る。(ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』p145より引用)

 現実原理の問題は、基幹真理と整合するような途方もない量の現実的真理があることだ。
 『源氏物語』のフィクショナルワールドでは、超ひも理論が正しいか否かという真理は確定していることになる。
 この問題に対処するために「共同信念原理」という生成方法が提唱される。

 共同信念原理:p1.....pnをある表象体によって虚構性が直接的に生み出される命題であるとするときに、別の命題qがその表象体において虚構として成り立つのは、p1....pnが事実ならばqが事実であるということが、その芸術家の社会において共有的に信じられているとき、またそのときに限る。(『フィクションとは何か』p151より)

 だが、フィクショナルワールドは作品が作られた時代の人々の信念に依存するのだろうか? 
 両方の原理の問題点として、「ジャンルのお約束」に対処できないというものがある。ゾンビが出てきたら走らないという真理は現実原則でも共同信念原則でも導出できない。三角の黒い帽子と黒いローブを着てほうきにまたがった女性は魔女であるという真理も導出できない。

 

4.基幹真理の生成

 ストーリーテラーにより語られるフィクションがある。
 では、その語りが行われるとき、何が起こっているのか?
 ルイスは「作者が読者に対して自分の知識を与えているフリをしている(作者がナレーターになっているフリをしている)」と答えた。基幹真理はナレーターになったフリをしている作者が読者に与えるフィクショナルな真理だということになる。
 しかし、多くのフィクションには、間違ったフィクショナルな真理を読者に教える信頼できない語り手がいる。
 カリーは「フィクショナルな作者」という概念を提案した。そいつは現実の作者でもナレーターでもなく、完全に信頼できるフィクショナルキャラクターである。読者が物語を読むことによりそいつの信念が構成され、隠された信念は存在しない。
 カリーはフィクショナルな作者の信念という側面から基幹真理を定義する。フィクショナルな作者は顕在的信念と暗黙的信念を持つ。顕在的信念はフィクショナルな作者が語った信念であり、暗黙的信念とは語らないが持っている信念だ。基盤真理は顕在的信念であり、そこから派生するフィクショナルな真理は暗黙的信念だ。
 この説明にはいくつか問題がある。
 ひとつめの問題はカリーの説明では、世界が消失して語るものが誰も残っていないようなフィクションには対応できないというものだ。なぜならば語り手は誰もいなくなるからだ。カリーはそのようなフィクションを不可能なフィクションだと分類する。誰もいないような世界で語り手がいるような想像をすることは不可能である。
 ふたつめの問題は信頼できない語り手の問題だ。ビリーという語り手がフィクショナルワールドについて嘘八百を語り、読者が間違った想像をするとき、読者はビリーとは別の信頼できる語り手を構成するのだろうか?
 みっつめの問題はいかなるフィクションにおいてもフィクショナルな作者がいるのか?という問題だ。視覚的フィクションの場合は明確ではない。
 よっつめの問題は、どのフィクショナルな真理がフィクショナルな基幹真理となるのかという問題だ。フィクショナルな作者の顕在的信念はどのように選ばれるのだろうか。カリーはテキストによりガイドされるとしているが、現実の作者の信念や現実の作者のコミュニティ、物語の形式などにも左右される。
 究極的には、カリーは基盤真理の生成について実質的な答えを与えていない。