【メモ】科学哲学メモ
科学哲学まとめ
演繹・帰納関連
●仮説演繹法
手持ちのデータから帰納して仮説をつくる→仮説から演繹して予言する→実験により仮説を確証/反証する
●論理実証主義
直接に真偽を確かめられるのは観察文のみ、理論文は検証できないが、観察文に翻訳することができる。予言とは仮説に含まれる理論語を観察語にすること。
●帰納の正当化の問題
帰納はどうやっても正当化できない。「帰納はこれまでうまくいってきたので使える原理だ」といってもそれ自体が帰納であるため循環論法。「自然は規則正しく斉一だ」という原理で説明しようとしても、その原理が正しそうなのは帰納を使っているから。
●ポパーの反証主義
科学から帰納を追い出すための方法。検証も確証も科学にはいらない。反証のみで事足りる(確証は帰納であるのに対して反証は演繹なので)。正当化された仮説は単に反証に生き残ってきただけであり、確からしさは上がらない。反論:科学による予言が説明できない。
●グルーのパラドックス
「2015年1月29日まではグリーンで、そこからブルー」であるものをグルーと名づける。このとき、全てのピッコロ大魔王の皮膚の色はグルーだということが観察から確証される。ゆえに、2015年1月30日のピッコロ大魔王はブルーであると予言できる。このような帰納の使い方はなぜだめなのか?
科学的説明関連
●ヘンペルのDNモデル(被覆法則モデル)
科学的説明とは 少なくとも一つの一般法則を含み・経験的に確かめることが可能で・真である、説明項により被説明項が演繹的に推論されること。
説明項が真かどうかわからなかったら「潜在的説明」
反論:ピルのケース(関連性がないことが説明項に入る)旗ざお問題(旗ざおの長さから影の長さが説明できるように、影の長さから旗ざおの長さが説明できる)
●因果メカニズムモデル(サモン)
説明とは原因を突き止めること。被説明現象と関連してそうな現象に干渉して説明項を突き止める。説明とは言語のレベルを超えた実践のレベルにある。
●統合化モデル(キャッチャー)
説明とはそれ以上説明できない事実を減らしていくこと(exニュートンの法則はケプラーの法則を統合化した)。DNモデルと因果メカニズムモデルの共通点を探そうとして生まれた。
●反実在論
直接観測不可能な事象は知りえないとする立場。
●操作主義:初期の反実在論、理論的対象は観測可能な操作によって翻訳できる
●道具主義:理論的対象は観測可能な現象的法則をうまく扱うための道具
●構成的経験主義:科学は理論的対象を文字通り主張しているが、それはあるかないか分からない。科学の目的は経験レベルの現象をうまく説明することであり、観測不可能な対象はどうでもよい。
●奇跡論法
科学的実在論者の論法。科学が成功してんだから観察できない対象も実在するんだ(科学の成功を説明するには観察できない対象物が実在するというのが一番というアブダクション)
●悲観的帰納法
奇跡論法への反論。フロギストンや天球など成功した科学が実在するとしたものが、後には実在しないことがわかるなんてことが山のようにある。ゆえに、いまの科学が実在しているといっているものもやっぱり実在しないんじゃない?
●決定不全性
ある観察データを説明できる理論は唯一に決まらない。ゆえに、観測できない領域にある対象は一つに決まらない。そんなもん実在してるとはいえん。反論:実り豊かさ・整合性・単純性・新奇な予言・応用可能性・理解しやすさなどの合理的基準で一つに決めることができる。
●対象実在論(カートライト、ハッキング)
現象レベルの法則ではない基本法則に対しての反実在論。基本法則は人工的に理想化された状況のみで真だが、実際の世界では偽となる。
操作可能な対象については実在論。いままで操作ができた対象が実在ではなかったということはないので悲観的帰納法に対抗できる。
●構造実在論
いままで科学理論においての数学的構造は保存されてきた(ニュートン→アインシュタインと変わっても基本方程式は近似)。ゆえに数学的構造には悲観的帰納法が効かない。これは数学的構造が実在しているからだ。
●自然な存在論的態度
哲学者が口出しするな科学者に任せろ
パラダイム関連
●パラダイム論(クーン)
科学は累積的に発展するのではなく、ある前提を基にしたパズル解きの時期(通常科学)とその前提の変革の時期(科学革命)の繰り返しである。
理由●通約不可能性:別のパラダイムに属する理論的対象は互いに翻訳できない(理論的対象は理論から外して個別に扱うことができないので理論そのものが対立してたらどうやっても同じ土俵で語れない)。また、どのような理論がよい理論かという基準も通約不可能。反論:パラダイムが通約不可能なら両立できるんじゃないの?
●データの理論負荷性:なにをデータとするかは、どのようなパラダイムを受け入れるかに左右される
*クーン自身は相対主義者と見られることを嫌っている。クーンが言いたかったのは単に科学理論を作る決まった規則はないということのみ。
●研究プログラム説(ラカトシュ)
科学理論には中心的プログラムである『堅い核』命題と、それを補助する命題がある。反証事例があれば、堅い核はそのままで補助命題の変更により対応する。新奇な予測をしてそれを当てることができるプログラムは前進的プログラム、アド・ホックな補助命題の変更で反証事例に対応してばかりだと後退的プログラム。二つのプログラムは通約不可能ではなく、どちらが発展できるかという観点を基準にできる。反論:実際の科学史では科学者集団が同じ研究プログラムをとっていた事例があまりない(exコペルニクスとケプラーは何が地動説の本質かという部分で違っていた)
●研究伝統説(ラウダン)
研究伝統には理論が含まれず、「やるべきこと」(どちらの理論が善いか、どのように理論を修正すべきか)の基準が述べられている。いままで、問題解決能力が高かった研究伝統がよい研究伝統だ。問題解決能力があれば理論のアド・ホックな修正もよろしい。
●社会構成主義
科学がいまのような姿になったのは必然ではなく、社会的状況に影響された結果である。(exスーパーコンピュータが19世紀に存在したらマクスウェル方程式はいらなくなった)
因果論関連
●ヒュームの規則説
cとeが時間・空間的に近接して起こり、同じタイプの出来事も同じように起こるのであれば、cはeの原因である。たくさんのタイプを見なければいけないので因果は単一的に存在できない。また、因果を見つけるのは単なる人間の習慣なので必然性もない。反論:関連性のないことも原因と結果にしてしまえる。
●反事実条件による因果分析(ルイス)
cとeが実際に生じて、もしcがなかったらeがなかったというようなときはcはeの原因。反論:穂乃果と凛が一緒に窓ガラスに向かって石を投げたとする、このとき穂乃果の石のほうが先に届きガラスが割れたが、もし穂乃果が石を投げなくても凛が石を投げたため窓ガラスは割れた。この分析だと、穂乃果が石を投げたことは窓ガラスが割れた原因といえなくなる。
●マーク伝達説(サモン)
原因と結果を単独ではなく、それを一緒にした因果過程に注目しよう。擬似因果過程は何らかの干渉をしてもその干渉は伝達しない(exアニメのキャラクターに墨を塗ってもその墨は伝達しない)。真性の因果過程は変化の跡が伝達される。反論:金属バッドでハトの頭をつぶしたら、金属バッドの影もハトの頭の影をつぶし、その変化は伝達していく。このとき、影同士の因果関係を認めることになってしまう。
●保存量伝達理論(ダウ)
因果過程とは運動量やエネルギーなどの何らかの保存量を伝達する過程である。反論:保存量とは「因果的に閉じている系で不変な量」のこと、保存量で因果を定義するのは循環論法。
●介入理論(ウッドワード)
ある状況下でcを変化させたとき、常にeが変化するならばcはeの原因。一度きりの出来事では因果があるかどうか分からないので単一性は認めない。
法則関連
●法則に対する規則説
法則には必然性がない。「七千キロトンの金塊の山は存在しない」というのも法則。
●投射可能性(グッドマン)
過去の経験を帰納的に拡大できる投射可能な述語を用いるのが法則。反論:なんか難しい単語作って煙に巻いただけジャン。
●法則の網の目説
他の法則と演繹的関係にある「網の目」のなかに適切に入り込めば法則。反論:いまある理論体系と等価な体系を作ることもできる。法則の必然性を説明していない。
●形而上学的必然性
「水はH2Oである」という法則は形而上学的に必然的である。一度、水がH2Oだと分かれば、水の本質はH2Oだということとなり、あらゆる可能世界で「水はH2Oである」ということは真となる。(exたとえ水そっくりの液体で人々もそれを「水」と称している可能世界があったとしても、その化合式がXYZであればそれは水ではない)。反論:本質とかかわりない法則はどうする?(ex慣性の法則)
●法則的必然性(アームストロング)
普通名詞によって表されるものは「普遍者」である。法則とは「普遍者が●●を必然化する」というものである。反論:「金塊」は普遍者だから「金塊は七千キロトンにならないことを必然化する」も法則になってしまう。
●介入理論(ウッドワード)
ある公式が法則であるとは「その関係がかなり広い範囲の介入に対して安定である」ということ。反事実条件に近いが、可能世界ではなく実際に介入する。
●法則定立機構(カートライト)nomological machine
基本的法則も含め、すべての法則には例外がある。ある条件を課したときの対象が持つ振る舞いが法則(そのような条件が課されたときどのように振舞うかという対象の『能力』)。その条件が『法則定立機構』。
参考文献
戸田山和久『科学哲学の冒険』
サミール・オカーシャ『科学哲学』
森田邦久『理系人に役立つ科学哲学』