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SF作家 草野原々のブログ

【論文要旨】モデルはフィクションから輸出される/『モデル-世界比較の本質』

Fiora Salis(2016) "The Nature of Model-World Comparisons"

The Nature of Model-World Comparisons | The Monist

 

どんな背景なの?


 科学哲学においての問題に、モデルを使ってどのように現実世界の知識を得るのか? というものがある。力学方程式に従う理想的なバネのようなモデルは非実在的な対象である。存在しないシステムと現実世界のシステムをどのように比較するのだろうか? 非実在的なモデルシステムを抽象的対象としても解決にはならない。抽象的対象には時空的性質が存在せず、そのような性質を持つ現実の対象と比較できないからだ。
 この問題に対して、モデルはフィクション的対象であるとする説がある。科学哲学にフィクションの哲学を利用するものだ。ウォルトンのmake-believe(ごっこ遊び)理論を応用する。ウォルトンはフィクションをごっこ遊びの支柱と見なす。フィクションは鑑賞者に想像せよという指示を出し、フィクショナルな真理を生成する。フィクションの話法は内的なものと外的なものとに分けられる。内的話法においては想像的態度をとる。『日向縁の家は金持ちだ』という命題は内的話法では真となる主張だ。一方、外的話法は信念的態度をとる。日向縁は存在していないので上記の命題の真偽を確定するためには『フィクションにおいて』というオペレーターをつけなければならない。『(1)ゆゆ式において、日向縁の家は金持ちだ』という命題は真である。
 この考え方を拡張し、フィクション間の比較やフィクションと現実の比較をしてみる。『(2)蒼井晶は水瀬伊織よりも貧乏だ』『(3)村川梨衣は一条蛍よりもテンションが高い』という命題は、内的話法から見れば拡張されたフィクションのなかでの想像と見ることができる。外的話法から見ることは可能なのか? フィクション実在論者はフィクション存在を仮定する。ネオマイノング主義者は具体的だが非実在の対象、または可能であるが非現実的な対象を、抽象的対象理論においてはプラトン的存在、または社会的構築物に似た人工物とする。このうちモデル理論において、抽象的対象理論を使うことができる。その論者は、(2)(3)のような命題を対象の関係性で捉えるが、このときフィクショナルキャラクターの名には指示対象がなければならない。しかし、抽象的対象はフィクショナルキャラクターのような性質を持つことができない。このことを説明するための戦略は二つある。
 ひとつは、フィクショナルな文脈と現実文脈を区別するものだ。蒼井晶は現実に貧乏であることは不可能であるが、フィクショナルな文脈であればそのような性質を持つことができる。
 ふたつめは、性質と個体間の二つの叙述の区別に基づくものだ。我々は村川梨衣に対しては性質を属性付ける(predicate)ことができるが、一条蛍に対しては性質を帰する(ascribe)ことしかできない。フィクショナルキャラクターは性質をエンコードするだけだが、具体的対象は性質を例示できるとも言われている。ascributionやエンコードとは、想像の中でのみ、抽象的対象はある種の性質を持つことができるということだ。
 この上で、フィクション的対象の比較主張を解釈する二つの分析がある。分析1は拡大されたフィクション上のゲームだと解釈するものだ。(2)は次のように書くことができる。(4)『selector infected WIXOSS』と『アイドルマスター』によれば、蒼井晶は水瀬伊織よりも貧乏だ。この複合されたフィクションで矛盾が出るところは無視され、蒼井晶と水瀬伊織の貧乏度という中心的真理のみが焦点となる。この方法のみだと、(3)の場合には使えない。フィクションと現実という異なる文脈において、どのようにフィクションを拡大すればよいのかという問題が生じる。
 分析2は対象の性質とは数学的存在だと解釈し、それを比べるという方法だ。(2)は次のように書き換えられる。(5)「貧乏度i,jが存在する。i>jである。『selector infected WIXOSS』によれば蒼井晶は貧乏度iを持ち、『アイドルマスター』によれば水瀬伊織は貧乏度jを持つ。」(3)は次のように書き換えられる。(6)「テンション度gとhがある。g>hである。村川梨衣はテンション度gを持ち、『のんのんびより』によると一条蛍はテンション度hを持つ」。
 分析2よりも1を好む哲学者もいる。例えば、カフカ『変身』のザムザ氏は多数の脚を持つが、その数は確定していない。しかし、数の特定は求められておらず不確定であるとしても議論は通る。
 ここで、フィクション的存在の実在にコミットしなくともフィクショナルオペレーターをつけることによりフィクション命題を真にすることができることを見てきた。この見解はモデルについての議論に応用できる。
 モデルと世界を比較する主張の解釈には三つの立場がある。抽象的立場はモデルを抽象的存在とし、間接的フィクション主義はモデルをフィクション的対象とし、直接的フィクション主義はモデルに関する主張を現実世界についての主張だと解釈する。
 抽象的立場に立つGiereはモデルシステムを「標準的教科書に載っている性質のみで構成されており、教科書に記載されている性質をあますところなく持っている」抽象的存在とする。存在論的には、Thomassonのフィクションの人工物説と同じだ。しかし、例えば、抽象的対象は位置や速度といった性質を持つことはできない。
 Wewisbergはモデルを構造と解釈の構成物と見る。解釈は割り当て、理論家の意図、二つの信頼性基準(動的と表象的)からなる。例えば、生態系において捕食者と被食者の数の関係を表すロトカ・ヴォルテラモデルdV/dt=rV-(aV)P, dP/dt=b(aV)P-mPにおいては、Vを捕食者人口、Pを被食者人口、tを時間、r,a,bを二つの集団の相互作用パラメーターと割り当て。モデルの限界を二つの集団のサイズ、誕生率と死亡率、捕食率、捕食者の誕生に要する被食者の捕獲数という要素とする。信頼性基準とはどの程度モデルがターゲットに類似しているかの基準である。
 モデルとターゲットは特徴によって類似性を判別される。特徴は属性(性質とパターン)および、因果的メカニズムに分けられる。ロトカ・ヴォルテラモデルにおいては平衡状態や最大人口サイズが属性であり、被食者と捕食者の相互作用がメカニズムだ。
 モデルとターゲットとの類似性は次のようにはかられる


S(m,t)=|Ma^Ta|+|Mm^Tm| / |Ma^Ta|+|Mm^Tm|+|Ma-Ta|+|Mm-Tm|+|Ta-Ma|+|Tm-Mm|    ※^は「かつ(and)」


 Ma,Mmとはモデルにおいての属性およびメカニズム、Ta,Tmとはターゲットにおいての属性およびメカニズムである。この方程式は類似性を「特徴の非共有に対する共有の率」と定義する。
 Weisbergはフィクション主義とはモデルを素朴に解釈した結果生じた心的像であり、最終的には拒否するべきだとするが、問題は残る。モデルとターゲットを比較するとき、現実世界の対象が持っている性質をモデルも共有していなければならない。実在論的解釈においては抽象的対象は人口のような属性を持てないため破綻する。反実在論的解釈においては、モデルとターゲットは実際には性質を共有してはいないが、想像上では共有できる。この方向はフィクション主義に向かうものだ。
 次に、間接的フィクション主義を見てみる。Friggはウォルトンの理論を応用した。モデル描写を支柱と見なし、仮説システムをモデルの本質的仮定と普遍法則から生成される暗黙的真理としたのだ。Friggはモデルとターゲットの比較には問題がないとしたが、Godfrey-Smithはモデルシステムの性質が例化されていないと指摘した。
 最後に、直接的フィクション主義を見てみる。この立場はあるフィクションのなかでは現実的対象を指示していることを基本としている。例えば『ラブライブ!サンシャイン!!』は沼津市を想像せよと指示している。モデル描写はこのように直接的に現実的対象を想像せよという指示だとする。しかし、この立場は四つの問題がある。
 問題①:この立場の長所は余計な存在論的コミットメントがないことだが、Friggの立場でも別にフィクション対象にコミットしているわけではないので利点がない。
 問題②:モデルは現実に存在しない対象をも仮定する(点でしかない質量、太さのない糸など)。
 問題③:モデルは現実の様々な場所に適用されるので、ひとつの具体的な現実的対象は定まらない。
 問題④:モデリングがどのように現実世界の学習に結びつくか説明していない。
 Levyはモデルは現実世界の現象の想像的描写だとしている。現実世界の現象をフィクションの支柱としてフィクション的真理が作られるのだ。更に、モデルから現実を学習する方法を部分的真理という概念で説明する。モデル全体が偽でも、その部分は現実のターゲットについて真であるのだ。しかし、この方法ではモデルのうち真と偽の部分をはっきりと区別することが必要だが、それは難しいだろう。

どんな主張をしているの?
 フィクションの哲学における分析1と分析2をモデルに応用することにより、どのようにモデルと世界とを比較するのかという問題の回答が与えられる。

どうしてそんな主張をしているの?
 従来の説明では、モデルと世界の比較をする主張において難点があったが、フィクション命題にオペレーターをつけるように、モデルの命題もオペレーターをつければ解決に導ける。「原子核を回る電子の軌道は恒星を回る惑星の軌道のようだ」という命題はモデル内の視点から見れば、拡張したフィクションのなかで真であり。この内容に対してとるべき態度は想像である。一方、想像上の内容の外から見れば、分析1においてはフィクショナルオペレーターをつけて「ラザフォード-ボーアモデルとニュートンモデルによれば、原子核を回る電子の軌道は恒星を回る惑星の軌道のようだ」という命題になる。この命題は想像ではなく信念の対象だ。「地球と月の体系の位置と速度はニュートンモデルの二つの粒子系に非常に似ている」という命題は「拡大されたフィクションによれば、地球と月の体系の位置と速度はニュートンモデルの二つの粒子系に非常に似ている」というものとなる。この命題に対する態度は信念である。
 ここで心配なことがある。もしもモデリングがごっこ遊びならば、科学的成功もまたごっこ遊びとなり、予測や説明は単なるゲーム内部のことになってしまわないかということだ。
 しかし、モデルはフィクショナルな想像が第一の基盤としてあるが、我々は想像ゲームを脱出することができるのだ。フィクションを定量化し、フィクショナルオペレーターを埋め込むことにより外的視点に立った命題を手に入れることができる。この命題に対する態度は想像ではなく信念であり、ゲーム外の評価が可能である。
 例えば、「惑星の公転周期の四乗は軌道長半径の三乗に比例する」という命題はモデル内の主張としてもモデル外の主張としても読める(後者のときオペレーターをつけなくては真にはならない)。しかし、検証可能な仮説でもある。想像内でのゲームは現実世界についての仮説に輸出できるのだ。我々は、まず想像の中で現実と特徴をシェアするモデルを作り出す。そして、モデルを現実システムに関する仮説としてゲーム外に出すのだ。
 もしも数学的存在を仮定できたとすれば、分析2を用いることができる。「ある位置の値x1とx2があり、速度の値y1とy2がある。x1≒x2、v1≒v2である。地球と月のシステムは位置x1と速度v1を持つ。ニュートンモデルによると二つの粒子モデル系は位置x2と速度v2を持つ」と書くことができる。
 Friggの説では、現実と比べられるモデルに帰属する性質を例示していなかったためモデルと世界の比較は真にならなかったが、分析2では存在する性質の程度とモデルにより例化した性質の程度を比較することができる。ここでの存在論的コミットメントは、現実存在が持つ数学的存在と、”モデルによると”オペレーターにより真の状態がもたらされるということである。モデルと世界の類似性の比較は構造で、モデルシステムの発展は想像で行われる。