水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

想像とフィクション:いくつかの問題 / Imagining and Fiction: Some Issues 【Stock(2013)】  

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この論文では次の三つの問題を扱う。

①フィクションは想像により定義できるか?
②フィクションの想像はde re(事物についてのもの)かde se(自己についてのもの)か、もしくはその両方か?
③「想像することの抵抗」はどのように生じるか?

 

 

読者に想像を規定する作者の意図はフィクションの本性に入るか?という問題

賛成派:フィクションの(部分的)定義とは想像を規定する発話である。(カリー、ラマルク、デイヴィス、グリシアン)。想像を規定し、偽か偶然的真な発話がフィクション(カリー)。フィクションの発話は「フィクティブ・スタンス」を構成する:読者が想像し、かつ、真ではないと信じ、また作者はそれを真だと信じていないのだと推測できるような発話である(ラマルク、Olsen)。想像を規定し、発話の理由が真理宣告でないような発話がフィクション(デイヴィス)
反対派:現実世界の真理について無関心な発話が、フィクションの必要十分条件だ(Detsch)。非意図的なフィクションが自然に生ずることもある(ウォルトン

フィクションのなかの多くの発話が真であるため(フィクティブ・スタンスは思ったほどフィクションの大部分を占めていない)、賛成派の定義は修正しなければならない。
修正案:「想像」を以下のように定義する。思考者がある命題pを信じていない、または、思考者がpを信じているがそれにつながる更なる命題を信じていない(たとえば、沼津が静岡県にあることは信じているが、そこに浦の星女学院があることは信じていない)。フィクションの個々の発話はフィクティブ・スタンスを満たしていないこともあるが、全体としては満たしている。

修正案に対するフレンドの強力な反論:ノン・フィクションは非偶然的な真理の担い手となるが、想像が含まれた発話により構成されているものがある。(たとえば、ヒトラーが1944年に暗殺されていればどうなったかを検証するドキュメンタリー)
フレンドはフィクションはジャンルだとした(いくつかの典型的特徴により構成されているが、必要条件ではない)

 

フィクションでの想像活動は、自身についてのもの(de se)か、事物についてのもの(de re)か?

二つの回答
①想像活動はすべて自身についてのものである
②部分的な想像活動は自身についてのものである
リカナチのde se想像の分類、(1)姿の想像(2)思考によって構成されている自分(3)プレゼンテーションのモード(内からのxすることの想像)
①はフィクションの想像は上の三つのどれかであるという主張。たしかに、空間的想像はすべてde seという根拠があるが、命題的想像は空間的想像ではない。
②を支持する哲学者たちはde se想像がフィクションにおけるさまざまな現象をよく説明すると主張。たとえば、ウォルトンはフィクショナルなものEを想像するということは、自分のなかで特定のEを知っているということを想像することだとしている。ウォルトンによれば、特定のものについての想像はすべてde se想像だ。
しかし、de se想像だけど特定のものについての想像ではない事例や、特定のものについての想像ではないけどde se想像である事例がある。
また、de se想像は、フィクションに対して強い情動を感じることを説明する。キャリーは、フィクションのなかでの事物についての感じ方が実生活と違うことを説明するため以下のメカニズムを提唱した。まず、de re想像をして、次に自分が現実とは別の情動反応を起こすような人であるようなde se想像をする。Alwardはそれを批判して、フィクションへの想像はde re想像のみだとしている(何らかのイベントが起きるという事物についてのことのみ)。しかし、たとえテキストがde re想像を促すようなものでも、それを基盤にしてde se想像が発生することは可能だ。空間的なde re想像は、視点を持つde se想像に容易に変換される。
キャリーはフィクション名が空名にならないようにする方法として、フィクション名の意味はそのキャラクターに課せられた性質によって固定されると論じた。この問題は、たまたま同じ性質を持った現実の人がいればその人を指示してしまうというものだ。キャリーはフィクショナルなイベントにおいての知識という性質によってフィクショナル・キャラクターと現実の人物を区別できるとした。
もっと根本的な批判として、想像においてはde re とde seの区別はないというものがある。作者がde se想像をしろと規定したテキストをde re想像したところで区別は生まれないとするものだ。

 

想像することへの抵抗

「自分の赤ん坊を殺すにあたり、ギゼルダは正しいことをした。結局のところ、それは女児なのだ」という文章(GK)を読んだとき、たいていの読者はGKを正しいと想像することに障害を感じる。これはなぜだろう。二つの説明ができる。一つは、文の理解困難に起因するというものだ。二つ目は、特定の(道徳的)欲求や欲求風のスタンスになることの抵抗に起因するというものだ。
第一の立場のウォルトンは、道徳的事実は自然的事実に付随すると仮定している。GKに想像抵抗を感じるのは、自然的事実と道徳的事実の付随関係が破られているからだ。そのような付随関係の破れ(あるいは別の付随関係)に対しての理解困難が抵抗の原因だ。Weathersonは高階の性質(正しい)と低階の性質(赤ん坊を殺す)を結びつけることが理解困難であるため想像の抵抗が生まれるとした。Stockは、概念の理解困難というよりも、読者の認知的限界に説明を求める。GKに想像抵抗を感じるのは、読者がそれが真になるような状況について考えが及ばないからだ。
第二の立場では、読者の特定の欲求あるいは価値観に説明を求める。Gendlerは、GKに想像抵抗を感じるのは、GKへ想像的に従事しようとする欲求を欠いているからだとした。キャリーは欲求ではなく欲求風の想像の欠如に原因を求めた。または、「欲求風の想像をしたいという想像」が欠如しているからだ。この返答には、道徳に関係ない文についの想像抵抗はどうなんだという反論が出る。
第一の立場と第二の立場を調停したものも可能だ。道徳においては「厚い概念」といわれるものがある。野蛮だとか、優しいだとか、思慮深いだとか、記述的内容があるが、ある程度まで評価的価値が含まれている概念だ。対して「善い」や「正しい」は「薄い概念」といわれる。読者がGKに想像抵抗を感じるとき、道徳的欲求の欠如と文の理解困難は同じソースがあるかもしれない。厚い概念を適用する能力がいないことだ。

フィクションのパラドックス/The Paradox of Fiction【インターネット哲学百科事典】

http://www.iep.utm.edu/fict-par/

 

我々はフィクション作品を鑑賞するとき、しばしば情動が揺さぶられたと主張する。しかし、情動の本質について考えると、この事象はパラドックスを引き起こす。

 


フィクションのパラドックスは、正しそうに見える以下の三つの命題が互いに矛盾していることである。
(1)フィクションの鑑賞者は、フィクションの登場人物などに対して情動を抱いている。
(2)何らかの対象に対して情動を抱くとき、その対象が実在していることを信じていなければならない。
(3)フィクションの鑑賞者は、フィクションの登場人物などが実在していることを信じてはいない。

パラドックスの提案者、ラドフォードは三つの命題をすべて受け入れ、情動とは非合理的なものだと結論付けたが、その解決法は十分なものではない。

代表的な戦略は三つである。(1)を否定するフリ説。(2)を否定する思考説。(3)を否定するイリュージョン説だ。

 

 

フリ説


ウォルトンが提案するフリ説は、我々がキャラクターに対して、本当の情動を抱いていることを否定する。本当の情動は、その対象が実際に存在するという信念が必要だ(なお、のちにこの条件を緩めて、現実世界の行動への動機付けがなければならないという条件にしたらしい)。
ウォルトンによれば、フィクションにより生成されるように見える情動は本当の情動ではなく「準情動」である。ホラー映画を見て恐怖しているように見えるのは、実際には「準恐怖」を感じているに過ぎない。鑑賞者はフィクションを手掛かりとして、信念では真としない命題を真と仮定するメイクビリーフ(ごっこ遊び)ゲームを開始し、そのなかであたかもフィクショナルキャラクターが存在するフリをする。フィクショナルキャラクターに対しての情動のように思えるものはすべてそのメイクビリーフゲーム中での準情動である。
準恐怖を生成するのはその対象が存在するという信念ではなく、「フィクションによれば、対象がメイクビリーフ的に存在している」という二階の信念である。(なお、準恐怖は恐怖よりも感じが弱いというわけではない、通常の恐怖から存在信念を抜いたものを準恐怖と呼ぶ。その感じは日常的なものよりも強く、持続性も高いことがある)。
このことをもって、他のフィクションのパズルを解くことができる。ある悲劇を見たとき、視聴者はキャラクターたちを苦悩から救ってほしいと言うが、バッドエンドも見たいと一方で言う。これは、「キャラクターを救ってほしい」というメイクビリーフをしながら、実際には「キャラクターが苦しむというメイクビリーフをしたい」という欲求を持っているからである。
また、結末を知っている物語を楽しめるのは、その都度生成される新しいメイクビリーフゲームに参加しているからである。

 

フリ説への反論

ウォルトンは子供のごっこ遊びとメイクビリーフゲームのアナロジーを使う。キャロルは両者にディスアナロジーがあることを指摘する。ごっこ遊びをするかしないかは行為者に選択の余地があるが、ホラー映画を見て(準)恐怖するということは視聴者に選択の余地はない。クソ映画では視聴者を(準)恐怖させることに失敗することがあるかもしれないが、それは映画の問題だ。
他のディスアナロジーとして、現象的側面がある。お涙頂戴の映画にあきあきしながらも思わず涙を流してしまうことがある。フィクションへの参加を拒否しているのに、なぜ(準)情動が生じるのかフリ説では説明できないという反論だ。
ウォルトンはこのような反論に対して、ゲームは意識的なものだけではなく、無意識に参加できるというだろう。
また、ウォルトンは準情動とは何かを明確にしているわけではなく、信念により生成される情動に対応させて、メイクビリーフにより生成される準情動とテクニカルに定義しただけである。

ウォルトンの準情動は余計なものだという反論もある。
映画では突然の音楽や演出などの「ビックリ効果」が良く使われる。そうした効果によって生じる驚きは、存在信念を必要としない。また、驚きによるドキドキした感じは容易に恐怖と混合される。ホラー映画を見たときの恐怖は、実際には驚きを混合したものだというパラドックスの解消法もある。驚きを知覚と分類し、知覚と情動が混在した結果パラドックスが生じるという説だ(Saatela1994)。しかし、その説はフィクションにより哀れみや後悔が与えられることを説明できない。
Glenn Hartzはフィクションへの反応は前意識的なものであり、信念とは独立しているとした。

 

思考説

思考説は前提(2)を否定し、対象が存在しないとわかっていたとしても、それに対しての情動が発生するという説だ。情動が発生するためには、「心的表象」「思考内での楽しみ」「想像的企て」などのみで十分であり、存在信念は必要ないのだ。必要な信念は、フィクションにおいてキャラクターがどれだけ恐ろしいとされているかなどの「評価的信念」のみでよい。

思考説と似ているが違う説としてカウンターパート説がある。この説では、フィクションを楽しむとき本当の情動が生まれているが、それとストーリーの関係性は意図的なものではなく因果関係であるとされる。ストーリーが現実世界についての思考を生じさせ、それが対象となり情動が生まれるという見方である。カウンターパート説は思考説ともフリ説とも協力が可能だ。「存在していないものを対象には情動は生じない」という条件を保持することができるからだ。

 

思考説への反論

思考説への典型的な反論は、存在しないとわかっている怪物を怖がるのは不合理であるというものだ。
また、Malcolm Turveyは我々は、単なる映画のイメージに対して現実と変わらない反応を示すため、そもそもパラドックスは成立しないとしている。しかし、たとえば小説においては文字に対して情動反応を示しているわけではない。
思考説は単なる思考がなぜ激しい情動を引き起こすのか説明しなければいけない。

 

イリュージョン説

年々賛同者が少なくなっているイリュージョン説は(3)を否定し、我々はフィクションに従事しているとき実際にキャラクターが存在するという信念を抱いているとする。Cokeridgeは「意志による不信の宙吊り」によりフィクションを楽しんでいる間、鑑賞者はキャラクターの存在について半信半疑となっているとした。
最も強力な反論は、現実に対してのものとフィクションに対してのものの情動反応の差である。鑑賞者はいくらホラー映画が怖くとも映画館から逃げ出そうとはしない。たとえ半信半疑であろうとも、怪物の存在を半ば信じているのであれば念のため逃げようとするはずである。さらに弱めて、ほんの一瞬の間は存在を信じているとしても、時間が短すぎて情動の説明にはならないであろう。
しかし、鑑賞者の会話は一見、フィクショナルキャラクターの存在を信じているように見える。これは単なるメタファーなのであろうか。「作品に吸い込まれる」「我を忘れる」という言説は非信念的な説明のみで十分なのだろうか。

また、Richard Moranは情動が様相的事実や歴史的事実に反応することは問題ないケースであることから、パラドックスの成立を否定している。

フィクショナル・キャラクターズ / Fictional Characters【Friends(2007)】

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我々はしばしば、暁美ほむらや、アンパンマンや、ハリー・ポッターなどといったフィクショナル・キャラクターについての文を発話したり、思考したりする。このとき、いったい何を指示しているのだろうか? 反実在論者は何も指示しておらず、フィクショナル・キャラクターが入った文はすべて偽であるとする。一方、実在論者は、対象としてのキャラクターの存在を認め、一部の文は真であるとする。

反実在論者の課題

ほとんどの哲学者は直接指示理論(名前の意味とは指示詞に限られる)を採用している。
フィクショナルキャラクターについての文は「物語によると」というストーリーオペレーターが隠れているとしても問題がある。もともとの文が完全な命題ではないとすると、オペレーターをつけても命題にはならない。(文「ゴジラが東京を破壊した」に意味が欠如しているならば、「映画『ゴジラ』において、ゴジラが東京を破壊した」も意味が欠如している)
同じく「ゴジラはフィクション上のキャラクターだ」「ゴジラは存在しない」も意味が欠如していることになる。

記述主義や量化分析をしたとしても問題が発生する。このアプローチは物語のなかの文にしか適用できない。
「わたしはアンナ・カレーニナをかわいそうだと思う」「ホームズはポワロよりも優秀だ」「ハムレットはフィクショナルキャラクターだ」にはストーリーオペレーターは付かない。
反実在論者に課せられた最も難しい文は「丸いものよりも平たいフィクショナルキャラクターがある」など名前が出てこない文だ。
対して、実在論者はこの種の文に対して統一的な説明を与えることができる。
反実在論者はフィクショナルキャラクターについての文に真なものはいっさいないということはできるが、その場合、キャラクターについて語るとき我々は何をしているのか説明しなくてはいけない。

 

フリ説

最も一般的な反実在論者の説明は、フィクショナルキャラクターについて語るとき、我々はフリに従事しているというものだ。
ウォルトンによれば、フィクションを楽しむとき、我々は小説を小道具にしたメイクビリーフ(ごっこ遊び)をしており、あたかもキャラクターが存在するように振舞っている。
そこには(暗黙的な)ゲームのルールがある。
ウォルトンの課題は、フィクショナルキャラクターについての会話が、どのようにフィクションの内容を伝えているかどうかということの説明だ。ウォルトンは公式のゲームに参加することにより可能となるしている。「ゴジラが東京を破壊した」という会話は、「ゴジラ」という空名により説明されるのではなく、視聴者のゲーム参加により説明されるのだ。ゲーム参加者は、フィクションの内容についての真理を伝えたようなフリをしている。

この提案は二種類の解釈がある。
第一解釈:意味論レベルの解釈。「ゴジラが東京を破壊した」という文の意味とは特定のメイクビリーフゲームにおけるふさわしい振る舞いのことだ。その文は文字通りではないが、真である。この解釈はさまざまな分野から批判されている。
第二解釈:「ゴジラが東京を破壊した」は完全な命題ではない。ゆえに、真ではありえない。では、不完全な命題がどのように真理運送に使われるのか? 現実世界のフリの状態と対応するような「架橋法則」を特定しなくてはいけない。

ウォルトン説のメリットは、他のフィクショナルな言説についても応用できることだ。「ゴジラのほうがガメラより強い」などのメタフィクショナルな文は権威化されたフィクション内容を超えた「非公式的」ゲームだとしている。
このようなゲームはたとえば、特定の情動状態とフリの状態が対応しているという架橋法則により現実と対応しているかもしれない。

 

フリ説の難点

フリ説の難点はいくつかある。
難点①「ゴジラはフィクション上の生物だ」という文は実際に真と思われるが、フリ説では真になりえないとされる。
 解決策は二つある。
 解決策①非公式ゲームでは、我々はあたかもフィクショナルなものが(フィクションとして)存在しているように振舞っている。
 解決策②ゴジラの虚構性を指摘するのは、フリへの「裏切り」である。
 実在論者は、この対応をアドホックとするだろう。
難点②メイクビリーフゲームをどのように個別化するのか?フィクショナルオブジェクトなして説明しなければいけない。
フリ説によると、文「暁美ほむら鹿目まどかが好きだ」は文「宮水三葉立花瀧が好きだ」と同じく「xはyが好きだ」という不完全な命題を表しているとするが、両者は明らかに違う。
ウォルトンは「フリの種類」をもって説明する(ほむら的種類のフリ、三葉的種類のフリ……)が、フリの種類はどのように個別化されるのだろうか?
名前を使うことはできない(同名キャラがいる、同じキャラクターでも名前が違うことがある)。キャラ名に関わる記述内容を使うこともできない(同じ状況で違うキャラがいる)。
ウォルトンは、「特定のフィクションと無関係にフリの種類を個別化することはできない」としている。
しかし、フィクションへの指示はフリの種類の個別化に不十分だ。『君の名は。』や『コワすぎ 史上最恐の劇場版』は多くのキャラクターの小道具となっている。反実在論者は明確な解決策を持っていない。
一方、実在論者の場合、ゴジラについての文はフィクショナルオブジェクトについての文であり、真性の内容を持っているとする。

 

実在論者の戦略

実在論者は、我々は文芸活動において、フィクショナルオブジェクトにコミットしていると主張する。フィクショナルオブジェクトとは、小説・プロット・リズムなどと同じようなカテゴリの存在だ。
実在論には二つのバージョンがある。
①内的実在論:フィクショナルキャラクターとは、性質の集合によって構成される永続的・非創造的なものである。このとき、フィクショナルキャラクターはフィクションの内的パースペクティブから見た性質を持っているということになる。ブラックジャックは医者である、男性であるなどの性質から構成されているとする。作者は語りを与えたという意味のみでキャラを創造したことになる。
②外的実在論:フィクショナルキャラクターは、作者・テキスト・読者に依存して存在する。フィクションの外的パースペクティから見た性質により特定される。(アンナ・カレーニナトルストイにより作られた、『戦争と平和』に出てくる……などの性質を持つ)

 

実在論者に有利な点

実在論者に有利な点①:フィクショナルキャラクターへの志向性・対象指示性・思考・言説など(ハムレットについての思考はラスコルニコフについての思考ではなく、ハムレットへの思考である)。
さらに、ある程度主観を超えた状況でキャラクターの特定が可能だ。
このような文芸活動において、最善の説明は我々はフィクショナルオブジェクトに対しての思考を持っているということだ。
有利な点②:フィクショナルキャラクターへの量化を含んだ言説。「丸いものより平たいフィクショナルキャラクターがいる」という文は真でありそうなだけでなく、フィクショナルキャラクターへの量化を含んでいる。それらはキャラクターの量化なしにパラフレーズすることはできない。もしも、量化があるならば、存在論的コミットメントをしなくてはいけない。
 それに対しての反実在論者の反論①:「No-one came to the party」という文があってもNo-oneがいるわけではないのと同じく、量化は成り立っていない。
 反論②:量化が成り立つのはゲームのなかだけであり、現実世界については何も言っていない。
実在論者に有利な点③:フィクショナルオブジェクトの存在条件は拒否できないほど小さい。作者がキャラクターを個別化するフリをしただけで、存在する条件になる。反実在論者は、野球チームがスリーアウトで交代することを認めながらイニングを否定するようなものだ。

 

実在論の難点

実在論の難点①:その論法はフィクショナルオブジェクトのみに限定できない。ゼウスなどの神話クリーチャー、フロギストンなどの失敗した科学の措定物、さらには単なる想像物までもが存在することになってしまう。
難点②:日常的な文芸活動が実在論者に有利だとはそれほどいえない。キャラクターの本性を決めることは難しい(テレビアニメ「ラブライブ!」に出てくる矢澤にこと、そのコミカライズに出てくる矢澤にこは同一人物なのだろうか?)
フィクショナルオブジェクトの同一性条件は興味相対的だとする実在論者もいる(Lamarque)。この場合、キャラクターが同一人物なのかとか、ある作品には何人のキャラがいるかなどといった疑問に答える厳密なルールはないことになる。厳密なルールがないことは、実在論者にとってそれほど致命的な弱点ではない。小説やプロットの同一性条件も曖昧であり、反実在論者もフリの種類の同一性条件を与えられないからだ。
では、実在論者が言うように、キャラクターの実在性にコミットすることが、我々の文芸活動をスムーズに説明することになるのだろうか?

たとえ、実在論をとったとしても「ゴジラ放射線を吐く」「ブラックジャックは凄腕の医者だ」などの文は偽であるとされる。ゴジラブラックジャックは抽象的対象であるため、放射線を吐いたり医者であったりという性質を持つことはできない。しかし、作品を見た人々は上のようなことを言うだろう。実在論の観点からは、この現象はどう理解されるのか?
実在論者の戦略は三つある。
戦略①:抽象的対象には、二種類のやり方で性質を述語付けることができる。ブラックジャックは凄腕の医者だというのは、抽象的意味のなかだけである(「凄腕の医者である★」と表現する)。星なしの「ブラックジャックは凄腕の医者だ」は偽である。この戦略ではフィクショナルキャラクターへの述語付けは曖昧となる。
戦略②:「ブラックジャックは凄腕の医者だ」と言うとき、我々は内的パースペクティブに立っている。このとき、フィクショナルオブジェクトを指示してはいない。外的パースペクティブに立つことで、批評的言説の領域に入り、フィクショナルオブジェクトを指示するようになる。この戦略の問題点は、キャラクターについての言説において統一された説明が欠如していることだ。我々はあるときは「ブラックジャック」を指示しておらず、あるときは指示していることになる。
戦略③:文「ブラックジャックは凄腕の医者だ」はフィクショナルオブジェクトを指示するが、その文はオブジェクトが持っていない性質を述語付けている。「漫画においてブラックジャックは凄腕の医者だ」は真となるが、「ブラックジャックは凄腕の医者だ」は偽となる。「ブラックジャックは凄腕の医者だ」と我々が言うのはフリをしているからだ。反実在論者はフリを使っているのならオブジェクトにコミットするのは無駄だと言うかもしれないが、ブラックジャックについてのフリをしているという点を説明できるという利点がある。
しかし、この戦略は反直観的帰結をもたらす。「ブラックジャックは凄腕の医者だ」というときの反応は、「虚構的真理」の想像だということになる。しかし、抽象的対象が医者であったりする性質を持っているという想像を、どのようにしているのだろうか?数字の3がロンドンへ旅したり、憲法が頑固であったりするのと同じようなものだ。

 

実在論の全般的な問題として、内的・外的パースペクティブの差異が維持できないというものがある。実在論者は、フィクショナルキャラクターについて、我々はあるときに真のことを言い、あるときには偽のことを言うとする(反実在論者はすべて偽だとする)。文「私はブラックジャックがかっこいいと思う」について、ある実在論者はストーリーオペレーターを付けることはできないため、フィクショナルオブジェクトについての文だとする。しかし、実在するオブジェクトとしてのブラックジャックはかっこよいという性質を持つことはできない。
実在論者はフリをしぶしぶ認めるものの、批評的言説については実在するオブジェクトを指示していると主張するかもしれない。しかし、必ずしもそうとはいえない。批評においても、内的外的パースペクティブが混在している。作品のなかにおいてすら、パースペクティブの混在が見受けられる。
パースペクティブの混在問題は、反実在論者にも課せられる。『戦争と平和』の公式ゲームに従事しているとき、「アンナ・カレーニナは自殺した」は真と見なされ、「アンナ・カレーニナトルストイが創った」は偽と見なされる。しかし、「アンナ・カレーニナは自殺した最も有名なキャラクターである」は二種類のフリが混在しているように見える。ウォルトンは、このような文はキャラクターが内的性質と外的性質を併せ持っている非公式ゲームだとする。ここで、フリの種類やメイクビリーフゲームをどう個別化するのかという問題が出てくる。
しかし、この問題では反実在論者のほうが有利である。フリの種類の区別はシャープである必要はないのだ。子供は複数のごっこ遊びを混在することがある。

 

実在論VS反実在論、双方のスコア

キャラクターについての志向性や言説という面から見れば、実在論者が若干勝っている。反実在論者は特定のフリがあるキャラクターについてのもので、別のフリは違うということを説明しなければいけない。
実在論において、フィクショナルオブジェクト同一性は厳密に決定できなかった、ゆえに、フィクショナルキャラクターの同定についての説明は弱い。
反実在論者もまた、フリの種類における同一性という面で問題を抱えているが、それはフィクションやフィクショナルキャラクターとは独立している。フリの同一性問題が解決すれば、フィクショナルオブジェクトなしでフィクションに関わる活動を説明できる。
実在論者はジレンマに直面する。もしも、対象なしの思考や言説を認めるならば、「同じフィクショナルオブジェクトについて語っている」という例を出して実在論を擁護することができなくなる。一方、対象なしの思考や言説を否定するならば、我々が同じ対象について語っている証拠はどこにあるのか? フィクショナルオブジェクトを使って説明することはできない(同一性問題があるので)。ゆえに、実在論の有利な点がなくなってしまう。反実在論者はオブジェクトなしで言説活動を説明するのに長けているからだ。

【論文まとめ】「このもの主義/Haecceitism」セクション1【スタンフォード哲学百科】

このもの主義

 

Haecceitism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

 

この世界の形、色、質量、大きさなどすべての質が同一であったとして、たったひとつだけ現実と違う世界がある。あなたがいないのだ。あなたの代わりに、あなたとまったく同じ質的性質を持つダブルがいる。ダブルはあらゆる点であなたと似ているがあなたではない。このような世界はありうるのだろうか?

 

また、双子で世界の質的性質を変化させずに入れ替わったり、二つの質的に変わらない鉄が交換されたりすることはありうるのだろうか?

 

このもの主義はそのような問いにイエスと答える。上のような事象は極大可能性(世界をトータルで考えたうえでの可能性)だ。

反このもの主義はノーと答える。質的に異なることなしにこのもの的に異なることはありえない。

 

このエントリのセクション1~3では、このもの主義の公式化とこのもの性・本質主義との関係。セクション4~5ではこのもの主義への反対論賛成論。セクション6ではこのもの的違いと特定の種類のこのもの的違いだけ認めるやり方。セクション7では形而上学の広いエリアにおけるこのもの主義の重要性と否定を見る。

 

 

1.このもの主義の定式化

このもの主義は様相的な説である。ある形而上学的枠組みはそれに合い、別の枠組みは合わない。さらに複雑なことに、ある枠組みは極限可能性を可能世界と分けるが、他の枠組みは両者を同一視する。

1.1 可能性と可能世界

様相主義者は可能性や可能世界の量化を認めない、代わりに、ボックスやダイヤなどの原始的様相オペレーターを使う。様相主義においてはこのもの主義者も反このもの主義者も可能世界における量化を使うことはできない。Skowによると、反このもの主義者は次のように定式化できる。

様相主義的反このもの主義:必然的に、世界は質的変化なしに非質的変化は起こらない。

 

様相主義の限界を否定するものはより豊かな存在論的資源を持つことができる。

ここで第一の区別を導入しよう。ある可能性は「極大的可能性」である。それは世界をトータルでついて述べている。一方で、非極大可能性はオバマは人間だとかのトータルではない可能性である。

第二の区別は、質的可能性と非質的可能性である。非質的可能性はある個物のみにかかわる性質で、質的可能性は個物に限定されない可能性である。ナポレオンがエルバで逃走するというのは非質的可能性、四つの赤い物体があるというのは質的可能性。(質的可能性はde dicto可能性、非質的可能性がde re可能性に対応する)

このもの主義は次のように定式化できる。

可能的このもの主義:非質的可能性である観点のみから見て違うような別の極大可能性がある。(質的にはまったく同じ極大可能性と違うような極大可能性がある)

可能的このもの主義にしたがえば、同一の質的可能性を内包したうえでこのもの的に違う極大可能性がある。

可能的このもの主義は可能性の量化を必要とするが、可能世界については何も言っていない。しかし、可能世界についての実在論者は、可能性を量化することは可能世界の量化であるとする。そのような立場は、可能的このもの主義を質的に識別不可能な世界についての理論と解釈する傾向がある。可能世界についての実在論者においてのこのもの主義は以下のようなものとなる。

世界識別不可能性:(ある可能世界と)質的に識別不可能だが、異なる別の可能世界がある。

代用主義者たちは、可能世界を文のタイプや、性質や、命題や、集合などといった抽象的存在と同一視する。もしも、集合や性質が質的特徴を持たないのであれば、『世界識別不可能性』は真となる。

もしも可能世界が命題の整合な極限集合だとすれば、このもの主義は質的に同じ命題だが非質的に違う命題を含むような極大命題集合があるという立場になる。他の立場の代用主義は別の道具を使うが、いずれにしても形而上学的コミットメントはとらない。

しかし、もしも、可能世界と極大可能性の関係を、一対一の対応関係が成り立っているとする立場ならば、可能的このもの主義を受け入れたうえで、さらに以下の主張も受け入れるだろう。

世界このもの主義:このもの的にのみ他と違っているような極大可能性があり、可能世界と極大可能性の間には一対一の対応関係が成り立つ。

世界このもの主義を拒否する代用主義もありうる。それはルイスの「安上りなこのもの主義」と似たようなものになるだろう。

 

1.2 このもの主義と様相実在論

ルイス的様相実在論では、可能世界を時空的に関係した存在の全集合とする。それらの可能世界は現実世界と同じようにリアルで具体的である。
ルイス的様相実在論は、事物についての(de re)様相は対応者理論により分析される。普通の個物は可能世界をまたがって存在することはなく、一つの世界に縛られる。対応者理論とは、個物aが可能的にFであるのは、aが「Fである」という対応者を持っていたときまたそのときのみである。対応者と個物の関係は質的な類似性関係である。オバマが医者であることができたのは十分にオバマに似ている可能的個物が医者であるときそのときのみだ。類似性は文脈により変動する。
事物についての表象は類似性をもとにしているため、質的に変わりのない二つの世界は同じということになる。ルイスはそれゆえ、質的性質と事物についての可能性の間に以下の関係性があるとした。
質的付随:事物について表象する世界(たち)の事実は、「世界(たち)についての質的性質の事実」に付随する。
質的付随を否定すると、世界の非質的特徴が部分的に、世界が事物についてどう表象するかについてを決定するという主張になる。非ルイス的な様相実在論者は質的に識別不可能な可能世界がこのもの的に別の極大可能性を表象できるとする。
しかし、ルイスは質的付随を支持する。(ルイス自身は質的に識別不可能だけど別の世界があるかどうかについては不可知論をとっている)。ルイスは、このもの主義を質的不可能性と合流させる方法はマズイやり方だとしている。ルイスによれば、このもの主義とは、複数の可能世界が表象する事物についての可能性というものを舞台としているのだ。
ルイスは質的役割が同じ双子が入れ替わるなどということは、本当に可能なことだとしている。ポイントは、修正バージョンの対応者理論では、個物が現実世界においても対応者を持つことができるということだ。双子の兄は双子の弟という対応者を持つこととなる。特定の文脈では、双子の弟は双子の兄の可能性を表象していることとなる。言い換えれば、現実世界とその部分は、適切な文脈では、現実化された極大可能性のみならず、現実化された極大可能性とはこのもの的に違う可能性も表象できるということだ(対応者である兄と弟を逆にした可能性を現実世界が表象している)。複数の可能性を使わずに、単一の世界のみでこのもの主義を表現するこれを「安上りなこのもの主義」とする。

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション4~6/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015)】

セクション4では、形而上学的に偶然だが法則的に必然である法則の例として、微細構造定数αとそれに基づくクーロンの法則が挙げられます。

セクション5では、ある法則は形而上学的に偶然だが、別の法則は形而上学的に必然であると論じられます。形而上学的に必然の法則の一つとして、パウリの排除原理(PEP)が挙げられます。

セクション6はまとめです。

セクション1のエントリはこちら

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セクション2~3のエントリはこちら

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Ⅳ 偶然的法則


 ハイブリッド見解のために、形而上学的に偶然だが法則的に必然である法則を挙げよう。少なくともある根源的物理定数は時間に依存して変化するかもしれない。たとえば、微細構造定数αは電子と陽子の質量比によるが、クェーサーの観測からαは変化しているとわかっている。
 微細構造定数は無次元定数だということを補足しておこう。電磁定数とプランク定数光速度の組み合わせから微細構造定数ができる。無次元定数の変化は、定数間の関係が変化していることを示唆する。αの変化は電磁定数の変動により説明されることが主流だが、光速度の変動が提案されることもある。
 αが実際に時間により変動しているということは、形而上学的可能世界のなかで定数が変動しうるという一見したところの証拠となる。このことは、微細構造定数を使用するすべての法則(クーロンの法則を含む)において、別様でありえた可能性を与える。
 だが、αの時間変動があるからといって、可能世界において法則が変動するといえるのだろうか? もしかしたら、αは特定の幅の中に納まるという法則があるかもしれない。αの変動は形而上学的に必然な別の法則の結果かもしれない。Marc Langeはαの変動は法則が一時的であることを示すのではなく、時間依存的な永久的法則を示すとして、反事実条件での法則の不変性があるとした。しかし、そこにはαの値を決めるのは独立した制限ではなく、形而上学的に必然な法則であるとするアドホックなコミットメントが必要だ。
 Langeはまた、個別の法則が形而上学的可能世界のなかで変動することができるという一般的な想定は問題含みであるとした。法則群とは法則性に由来して構成されるシステムであるとするのだ。法則性とは反事実条件的な仮定のもとでも抵抗力を全体としてもっている下位法則的(sub-nomic)な安定性のことだ。システムであるため、ひとつに統合されている。Langeのこの指摘は、著者が特定の法則よりも特定の定数にフォーカスする理由である。αを変更するということは、ひとつの法則のみならずシステム全体に普及するからだ。このアイディアでは、可能世界ごとにオルタナティブなシステムが存在するという想定を導く。Langeによると、「自然的必然性の様々なグレード」がある(EllisやBirdは強い必然性のみであるとする)。この論文では、グレードを認めるにしても、自然的必然性と形而上学的必然性という区別があるとして進める。
 
 ここまでの議論で、もしも、法則lが時間依存的に変化しているのであれば、少なくとも、lが形而上学的に偶然である一見自明の証拠となることを見てきた。しかし、形而上学的偶然性を保証することはない。lが時間依存的に変化するということが形而上学的に必然かもしれないからだ。だが、時間依存変化現象は、他の可能世界では変化率が著しく違うのではないかという想定を与える。
 時間依存的な法則はそもそも法則ではないという意見もあるかもしれないがそれは違う。もしすべての法則が時間依存的だと判明したとしても、法則性は保ち続けられるだろう。
 少なくとも、他の可能世界の法則は、現実世界の法則の時間依存性に敏感であり、ゆえに他の可能世界でも現実世界と同じ法則を持っていると明らかに言うことはできないくらいのことは論証できた。
 
 ここまでの議論をもとに、本質主義者に対しては次のような質問ができる。「なぜ、電荷粒子のふるまいを支配している法則の形而上学的必然性について説明するのに、粒子の本質が必要なんですか?」「たとえ、本質主義者の説明が基本的に正しくても、関連する別の本質が、法則により特徴づけられているものの必然性を担うことはあるんじゃありませんこと?」「さらには、たとえ根源的自然種を特徴付けているもっと『特権的』な法則があったとしても、我々が観測しているような規則性は単なる形而上学的偶然なのではないかというヒューム主義的発想を禁止するものがなくってよ」

 それらの質問に対して、本質主義者がする乱暴な返答は「特権的でない偶然法則は、もっと根源的で必然的である法則に根拠付けられるのだ」というものだ。しかしながら、微細構造定数は根源的な法則であるクーロンの法則にかかわっている。αの変動をもっと根源的な法則から説明するのは新しい物理学が必要であり、難しいことだ。

 このセクションの議論は、「すべての法則は形而上学的に必然」だとする立場への反論になるものだった。潜在的な解決策として、同じ定数群を与えるような境界条件を必然的法則とすることだ。しかし、この解決策は法則の形而上学的必然性を導くことはできない。同じ定数群を持っているのにもかかわらず、その値が劇的に変わり、世界の間で法則(それらの法則は自然種を特徴付ける)が違うということがありえるからだ。

 

Ⅴ 必然的な法則

 

 ここまでは、すべての法則が根源的な自然種を特徴付けるものではないということを見てきた。この見解は、根源的自然種を特徴付ける法則もあるという立場と両立するものだ。このセクションでは、ある法則は根源的自然種を特徴付けるものであり、それは形而上学的必然性の地位を持っていると論ずる。
 
 このセクションで論ずる命題は以下のものである。
(COND-MET):もし真正なる自然種があれば、その自然種のみを特徴付けるような法則は形而上学的に必然である。また、そのような法則のみが形而上学的に必然な法則である。
 この命題はハイブリッド見解の存在論的基礎になるものだ。

 ケーススタディとして、PEP(パウリの排除原理)とフェルミオンを見てみよう。フェルミオンが同じ時刻に同じ量子状態にならないというのは、PEPにより特徴付けられている本性(のひとつ)の振る舞いである。PEPによる様相制限、たとえばスピンの値が半整数であるということはフェルミオンの本質である。なぜならば、そこが違うとフェルミオンではなくボゾンになってしまうからだ。フェルミオンとボゾンは真正なる自然種の候補となるだろう。
 PEPは形而上学的に必然的な法則の候補の一つとなる。たとえ、PEPが必然的でなくとも、物質の結合や安定性を特徴付けるPEPに似たような法則は必然的であろう。もしも、いかなる結合的な振る舞いもすることがない宇宙が形而上学的可能であれば、それは反例となりうる。しかし、判例になりうる宇宙はフェルミオンを含んでなければならない。(たとえば真空しかない宇宙はPEPに制限されるようなものを含まないので反例にならない)。一見、反例となりうるような宇宙における「フェルミオン」は実はフェルミオンではなく、ボゾンとして振舞うであろう。結合的振る舞いのない宇宙はフェルミオンのない宇宙なのだ。ゆえに、反例を持ち出すことはできない。
 もちろん、ここでの議論は反quidditismを前提としたものだ。性質の同一性というものは裸ではないとする。
 もしも、形而上学的可能宇宙のなかで、PEPの類似物に制限されていないフェルミオン*があったとしよう。quidditistはフェルミオンフェルミオン*の同一性をはかるツールがあるとする。しかし、この議論ではquidditistのほうに論証責任があるだろう。
 フェルミオンの事例はquiddismへの反証となるかもしれないが、ここでは深く突っ込まない。

 

 Ⅵ結論

 

 ハイブリッド見解の強みは、単一の事例では反駁できないことだ。ある法則は形而上学的に必然で、ある法則は形而上学的に偶然だという立場は、科学的・傾向的本質主義とヒューム主義のどちらにも部分的に賛成している。新たな事例が出てきたら、ある法則についての見解を改めることができる。
 想定される反論に、ハイブリッド見解が正しいとしても形而上学的に偶然の法則はそもそも法則といわないというものがある。もし望むのならば、偶然の法則を何か別の言葉を使って呼べば良いだろう。おそらく必然の法則を「強い」法則、偶然の法則を「弱い」法則と呼ぶのも良いだろう。著者としては「ハード」と「ソフト」のほうの区分のほうが良い。
 ハイブリッド見解は、法則は自然種の本性や本質から生まれると説明する点で科学的・傾向的本質主義者のほうに近い。ヒューム主義者や法則的必然性主義者は形而上学的に必然の法則の様相的力を説明することは困難だろう。PEPは少なくとも、形而上学的な様相制限を与えるということが示されている。

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション2~3/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015)】

物理法則の力はなにを根拠にしているのでしょうか? セクション2では、本質主義者の「因果力を与える本性」が物理法則の根拠になっているということを説明し、それは強すぎる主張だとします。

セクション3では、根源的自然種の例化というアイディアを検討し、クーロンの法則にはその説明が適用できないのを見た後、法則を形而上学的必然のものと形而上学的偶然のものにわけるという方法を提唱します。

セクション1はこちら

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Ⅱ 見かけ上の法則の様相的力


 法則と単なる規則性を区別する見かけ上の様相的力について、本質主義者たちは因果力を与える本性をもって説明する。
たとえば、粒子の本性により、電荷粒子が互いに引き付き合う規則性がすべての形而上学的可能世界をまたいで成立することを説明する。

しかし、「可能世界をまたいだ規則性を根源的粒子で説明すること」は「可能世界をまたいで法則が同一であること」という主張と切り離すことができる。
なぜならば、我々は「特定の規則性が形而上学的可能世界をまたいであること(例えば電荷は引き付き合ったり反発したりするということ)」には同意できるにしても、「電荷を支配する法則が同じ世界で同一に保持されること」には追加のコミットメントが必要となるからだ。
たとえば、電磁気的相互作用の結合量が同じ世界において変動するかもしれない。

ここで、パウリの排除原理(PEP)のケースを見てみよう。二つのフェルミオンが同じ時点で同じ量子状態をとることはできないというものだ。PEPは物質の振る舞いを規定する。塩素とナトリウムがイオン結合して、塩化ナトリウムとなる際に、PEPは重要な役割を果たす。二つのイオンが接近する際に、PEPは両者の電子が同じ量子状態になることを防ぐ。こうして、イオンが過剰に接近することを防ぎ、安定した塩化ナトリウムができるのだ。
 PEPはすべての物質の振る舞いにおいて中心的な規則性を現している。分子や原子が作られる能力を基礎付けるものだ。だが、実際に我々がイオン結合を考える際にはもっと高階の法則に言及する。その一つがクーロンの法則だ。クーロンの法則とPEPでは後者のほうがより普遍的な法則だとされる。
 BirdはPEPについて、それは量子力学に内包される説明であり、(Birdが法則の必要条件とするところの)根源に「近い」関係性について述べることはないとする。しかし、著者が見るところでは、たとえ量子力学により説明することができたとしても、PEPは根源に「近い」関係性を言及する理由がある。それは根源的自然種が法則の様相的力の中心にあるということだ。

 

Ⅲ 法則と種

根源的自然種が法則の様相的力の中心にあるという提案はE. J. Loweによるものだ。Loweの考えるところによると、カテゴリカリズムを捨てれば、法則の様相的力について十分な説明をすることができる。電子の力や傾向性などなどの斉一性は、同一の根源的自然種の特定の例化という事実により説明される。Loweは自然種の本性(nature)により法則は説明されるべきだとする。電子の本性の一つとして負の電荷を持つという例化が挙げられる。同じように、フェルミオンの本性の一つは、PEPが述べているように同時に同じ量子状態をとれないということだ。
 このような分析により、「黄金の山は存在しない」と「ウラニウムの山は存在しない」の違いを区別することができる。後者はウラニウムの本性に言及しているため、法則を構成しているが、前者は法則ではない。
 しかし、Loweの分析はクーロンの法則には適用できない。なぜならば、その法則はいかなる根源的自然種の特徴づけもしていないからだ。クーロンの法則はすべての物質的対象をスコープに入れているのだ。
 Loweはクーロンの法則は自然種である「物質的なものmaterial body」について言及していると反論するかもしれないが、それを認めたとしても、保存則などのもっと普遍的な法則が存在する。物理システム全体が自然種だという立場を取らない限り反論はできない。
 しかし、単純な解決策がある。自然種を特徴付ける法則と特徴付けない法則という区分が、形而上学的に必然な法則と偶然な法則という区分に対応しているとするのだ。この策はLoweの立場と両立しない。なぜならば、Loweは自然種を特徴付けるような形而上学的に偶然的な法則が存在する余地を残しているからだ。

 なぜ、法則を二種類に分ける必要があるのか。それは、法則的な(物理的な・自然的な)様相と形而上学的な様相の区別があるからだ。形而上学的に必然な法則は自然種を特徴付けるものだが、それに当てはまらないクーロンの法則など、自然の規則性を表現する法則もある。
 クーロンの法則を形而上学的に必然だとすると、どのような問題が出てくるのだろうか? Birdはクーロンの法則は形而上学的に必然だとしている。彼はこう言う「クーロンの法則による電磁結合は塩が水に溶けることを十分にする。塩が水に溶けることに失敗する可能世界とは、クーロンの法則が働いていない世界であるのだが、塩の生成自体にクーロンの法則が関わる。ゆえに、クーロンの法則が働いていない世界では、塩はそもそも存在できないのだ。塩が水に溶けないような世界において、塩が存在しないということはありえないだろう」
 一方、Beebeは次のようにクーロンの法則が形而上学的に偶然であることを論証する「Birdの論証は、他の世界が秩序だって働いているという想定に立っている。クーロンの法則が偽の世界のなかには、塩を作り出すような固有の法則が真である世界もあるのだ」(ゆえに、クーロンの法則は塩が水に溶けるという傾向性を特徴づけはしない)

 ハイブリッド見解では、必ずしも根源的自然種があるということにコミットしなければいけなわけではない。自然種の代わりに「算出可能な指標」を使うこともできる。科学においては、根源的な「算出可能な指標」は質量や電荷といった形で認められているが、根源的な自然種は認められているとは限らない。しかしながら、この論文では根源的自然種を使って説明しよう。のちにそのコミットメントを正当化する。
 ハイブリッド見解では、法則においての見かけ上の様相的力は次のように説明される:ある法則は自然種を特徴付けているため形而上学的に必然であり、他の法則はヒューム主義者が提唱しているように形而上学的に偶然であり法則的規則性である。後者は「ソフト」な様相的力を持ち、前者は「ハード」な様相的力を持つ。

 まとめると、法則と規則性については以下の三つに分類されるだろう。
①根源的自然種を特徴付ける形而上学的に必然な法則
②法則的に必然だが、形而上学的に偶然な法則。自然種を特徴づけはしないが、自然的性質を特徴付ける。
③単なる偶然。形而上学的にも法則的にも偶然的な規則性。(法則とはいえない)

【論文まとめ】法則の様相的地位:ハイブリット見解の擁護 セクション1/The Modal Status of Laws: In Defence of a Hybirid View【Tuomas E. Tahko(2015】

法則は偶然的なのでしょうか、それとも必然的なのでしょうか?

この論文の著者は、ある法則は必然的であり、別の法則は偶然的だとしています。

このエントリでは、セクション1の先行研究の紹介と、著者の主張のみです。セクション2からはのちに新しいエントリを投稿します。

 

philpapers.org

 

 

 

法則の様相的状態については三つの主な立場がある。

ヒューム的スーパーヴィーニエンス(Lewisが提唱):法則は完全に偶然的であり、単なる規則性であり、事実にスーパーヴィーン(付随)しているだけだ。
法則的必然性アプローチ(Armstrongが提唱):法則は形而上学的に必然ではないが、単なる規則性とは区別できる。偶然性のスペクトラムを導入する。『ソフトな』種類の法則的様相を前提とする。
科学的/傾向的本質主義アプローチ(Ellis, Birdが提唱):法則は形而上学的に必然的であり、物の本質的性質に関係している。『ハードな』種類の法則的様相を前提とする。

他には、Mumfordの法則なし性アプローチ、Loweの本質主義者アプローチ、Maudlinの法則についての原初主義などがある。
いずれにしても、様相的力(Modal Force)をどう扱うかで立場が変わってくる。
様相的力についての問い:単なる規則性から本当の法則を区別するような見かけ上の様相的力を説明することはできるか?
哲学者たちは、様相的力の説明をどの程度したら十分なのかは一致していない。しかし、この論文では、それぞれ一致していなくても良いとする。なぜならば、様々な種類の法則があるからでる。

法則的必然性アプローチとヒューム主義は、両者とも、『ハードな』種類の様相的力を拒否するという点において同じ側にいる。以下で両者の類似性について見ていこう。
ヒューム主義においては、性質についての見解は『定言主義/カテゴリカリズム/categoricalism』あるいは『カテゴリカル一元論/定言的一元論』と呼ばれているもので、「すべての根源的性質は傾向的ではなく、カテゴリカルだ」というものだ。根源的性質とは、本質的な因果力やいかなる本質的性質も持たない。つまり、性質には内在する様相が欠けているのだ。
カテゴリカルな立場においては、法則はカテゴリカル性質に関しての偶然的規則性である。
ヒューム主義と法則的必然性アプローチは両者ともカテゴリカルな立場である。科学的/傾向的本質主義アプローチはこの二つと対立する。著者は、後者のほうを自らのスタート地点とする。

著者のアイディアとは、ある法則は偶然的であり、ある法則は形而上学的に必然的であるとする「混合的立場」である。これをハイブリット見解と呼ぼう。
先行研究で著者に最も近いのはHendry and Rowbottom(2009)である。彼らの見解はある種の(温和な)傾向的本質主義である。それは反quidditismを特徴とする。quidditismとは、性質の同一性は原初的であり、同一性を失うことなく質量や電荷など傾向的特徴を交換することが可能であるという立場だ。同一性を保証する「このもの性haecceity」は傾向的特徴にかかわりなくあるとする。
Hendry and Rowbottomは、「このもの性」の代わりに、同一性の基準に「曖昧な傾向的プロフィール」を使う。塩が水に入ると溶けるという傾向性は、様々な条件が必要になるが、その条件は曖昧である。それらの条件を総合して「曖昧な傾向的プロフィール」とする。しかし、個別の傾向性自身を使わずに、特定できないプロフィールを使うのはquidditismになる恐れがある。

著者はHendry and Rowbottomに完全に賛成しているわけではないが、重要なつながりがある。Hendry and Rowbottomの説を「温和な」タイプの傾向的本質主義、Ellisの説を「厳格な」タイプとすれば、著者は「弱い」タイプの傾向的本質主義である。
「温和」タイプは、性質の同一性は傾向的プロフィールもしくは因果的役割で決定されるとするが、性質の傾向的プロフィールのなかで「穏健な」間世界的変動を認める。
「温和」タイプと「弱い」タイプの重要な違いは、前者が傾向的プロフィールの変動を取るに足らないものとして説明なく放っておくのに対して、後者が変動を起こすものについて説明を試みることだ。

著者の立場は、自然種についての根源主義だ(本当の自然種と根源的存在論的カテゴリーを前提とする)。これはLoweやEllisもとっている立場だ。しかし、著者のバージョンには相違点がある。主な違いは以下の二つである。
①:ある法則は偶然的で、別の法則は必然的である。
②:根源的自然種の特徴についての法則は必然的であり、非根源的自然種の特徴についての法則は偶然的である。

セクション2では、①が擁護される理由を示す。セクション3では、Loweの本質主義的アプローチへの批判と、法則と自然種のつながりが示され、Loweの説明の問題点から②が導き出されることを確認する。セクション4と5では、光物理学での法則には偶然的なものと必然的なものが混在していることを示す。