水槽脳の栓を抜け

SF作家 草野原々のブログ

行為における合理性と因果【山田友幸(2013)】

www.jstage.jst.go.jp

 

ある理由が行為を合理化するのはどのようなときか?:人が一定の種類に対するある種の賛成的態度を持ち(欲求)、自分のする行為がその種のものだと知っている(信念)場合(デイヴィッドソンの立場、ホーガンとウッドワードがさらに条件を足しているが省略)
行為の因果説:上のように定義される主要な理由は行為の原因である。

因果説に対するサールの反論:欲求と信念により因果的に決定される行為は合理的ではなく、不合理的である。
三つのギャップ:サールが提唱した理由と行為の間のギャップ。
合理的意志決定における理由と決定の間のギャップ:選択の余地がないときは合理的意志決定とはいえないが、因果的決定に自由はない。
意思決定と行為の実行の間のギャップ:意思決定をしたとしても、その行為を実行しないことがあるが、事前の決定が因果的決定なのであればそんなことは起こらないはずだ。
時間のかかる行為の開始と完遂までの継続のギャップ:行為を決定したとしても、その行為を継続して完遂するためには自発性が必要であるが、因果的決定にはそれがない。

サールの志向性理論:意図的行為において、事前意図(prior intention)と行為内意図(intention-in-action)が区別される。
行為内意図は事前意図や行為の理由により因果的に決定はされない。(ただし、行為内意図は身体行動を因果的に決定する)
サールに対しての反論:これらのことは直観的には正しいが、自由意思が幻想であることも考えられる。

自由意思論争:自由意思が存在するという信念と宇宙が物理法則により決定される閉じたシステムであるという前提が矛盾するのをどう解決するかという論争。

理由の熟慮と意思決定の間の関係:もしもこの関係が決定論的であれば、自由意思はないという立場をサールはとる。では、どのような関係が成り立つのか?二つの仮説がある。
仮説①:物理的な脳状態の変化は因果的に決定されているが、それにより引き起こされる理由の熟慮と意思決定の関係は決定的ではない。
    →もしそうであれば、合理的な意思決定は物理世界に影響を及ぼさないということになるが、なぜそのようなシステムが進化してきたのかという問題が生じうる。
仮説②心理的なレベルのギャップに対応して、物理的なレベルでもギャップがある。サールはこちらを支持する。

仮説②は神経生物学の説明を矛盾するのではないか?:サール「そんなことはない」
仮説②と矛盾すると思われる神経生物学の実験:リベットの実験(行為内意図に意識的に気づく350ミリ秒前に脳では準備電位が発生している)
リベットの実験は自由意思と矛盾しない:刺激に意図的に気づく前に行為がはじまっていようとも、その行為は事前意図に依存する(たとえば、野球選手の身体運動は前意識的であるがそれらは練習により生み出される)
物理的ギャップはどこにあるか?:脳システム全体の意欲的な部位において生じていることと、その次に生じることの間

だが、そもそもなぜ、因果的に不十分な条件の説明(サールにおいての「理由」)が説明として受け入れられるのか?:理由の説明とは、「なぜあなたがそれをしたのか」という問いに対するものであり、「それ以外のことが生じるのは因果的に不可能」ということを要求していないから。
サールが提唱する自我の概念:知覚の束に還元されない。欲求と信念が与えられ、推論の上で行為する。それらの意志決定は理由に基づいているが、決定はされていない。自我は責任の位置する場所(the locus of responsibility)である。自我の選択は自らがこれから行うことに関わる選択である(時間のなかで時間に関して推論する存在)。これらは脳の神経生物学的システムの特徴だ。
「先行する因果的十分条件に基づくのでなしに、因果的に進行するメカニズム」が必要になる。このメカニズムの可能性は真剣に検討するべきである。

理由の内在主義と外在主義【鴻 浩介(2016)】

www.jstage.jst.go.jp

 

動機理由と規範理由:二種類の行為の理由。
動機理由:行為者を行為へと動機づける理由。「~である」命題
規範理由:行為を支持し、客観的に正当化する理由。「~すべき」命題


理由の内在主義:規範理由についての説。考慮事項Aがある行為の理由であるならば、行為者はAにより行為へと動機づけられることが可能でなければならない。
内在主義の一般形:ある存在者R、行為者A、行為タイプTについて、Rが「AにとってTをなすべき理由」ならば、ある自明でない条件Cが整えられれば、AはRによってTすることへと動機づけられるだろう。
Rには何が入る?:心的状態の内容となる存在者
条件Cとは?:たとえば、正しい知識を持っていたならば、などのRによる動機づけが生じる条件。この条件を限定すれば内在主義全体はより広範囲に合う説となり、逆にCが広範囲にわたると内在主義が広範囲に適合するのかは怪しくなる。
動機的力の要請:内在主義の根拠。規範的力は動機的力を含意する。

 

徹底的な外在主義:理由は動機的力を持ってない。主張者にはパーフィットなどがいる。
では規範的理由とは何?:道徳的真理であり、それは信念に働きかける力を持っていない。
理由の根源主義(primitivism):理由とはそれ以上説明できない概念であるという立場、外在主義と親和性が高い。

 

内在主義の根拠①:理由は推論において考慮事項となる、ゆえに行為の理由は実践的推論において利用される。実践的推論は動機付けプロセスであるため、理由は動機的力を持つ。
内在主義の根拠②:「認識的アクセス不能な事実は行為の理由になりえない」ということを説明できる(Cの設定により)
内在主義の根拠③:実際に理由に動機づけられるかとは別に、理由によって動機づけられるべきということは広く認められる。「べし」が「できる」を含意するならば内在主義が帰結する。

 

内在主義の諸理論:Cをどのようなものにするかにより分岐する。

熟慮的内在主義:Cとは「行為者が自身の主観的動機群を前提としたうえで、理想的な熟慮を行うこと」である。提唱者はウィリアムズ
主観的動機群:行為者を動機づける心的状態。欲求・評価の傾向性・情動的反応のパターンなど
理想的な熟慮とは?:相互に矛盾しないなどの形式的な制限(内容で制限しているわけではない)

熟慮的内在主義の問題:主観的動機群に共感的動機が欠けるためにいじめを行う人物に対しては、いじめをやめる理由はないことになる。道徳的相対主義をとれば回避できる問題。
理由の数に関しての過少生成:熟慮的内在主義は理由の存在を不当に制限しているという批判。

内在主義の返答①:事実を正しく認識するということは、それだけでいじめを止める理由となるため、正しく熟慮すればいじめは止めるはずだ。
内在主義の返答②:行為者である限り必ず有している特権的動機が存在する(この論文では詳しく書かれていない)
内在主義の返答③:Cに形式的な合理性だけではなく、実質的合理性を条項に加える。「理由は合理的な人物を動機づけねばならない」ため、非合理的人物がいかに熟慮を重ねても動機づけられないことが、行為の理由ではないことにはつながらない。

 

著者が言う熟慮的内在主義のメリット:「合理的説得」をよく説明できる。行為者に正しい熟慮をうながすことが合理的説得である。

著者の主張:共感的動機に欠ける人物は、いじめを止める理由がない。
錯誤論:いじめをする人物にいじめをやめる理由がないことと、わたしたちにいじめを止めさせる理由があることは両立するが、両立しないように錯誤してしまう。

理由の哲学 メモ②

参考文献

ci.nii.ac.jp

知覚に関する三つの立場:センスデータ説、志向説、選言説

センスデータ説:知覚において主体が気づいているのは、実在物ではなくセンスデータである。
幻覚論法:センスデータ説を支持する論法。実在物はないのに主体にとってあるものが存在している見えることがある。主体が気づいている何かが存在するならば、それは実在物ではなくセンスデータである。もし知覚と幻覚が同じ心的状態であれば、知覚においても主体が気づいている何かはセンスデータである。

志向説:主体にとってあるものが存在するように見えるというところから、あるものが存在するということは導出できない。知覚と幻覚はそれぞれ現実を志向するものという面で同一だが、前者の志向内容は現実に一致し、後者は一致していない。

選言説:知覚と幻覚は全く異なった種類の心的状態である。知覚は部分的に実在物に構成されているが、幻覚はそうではない。

 

行為の理由に関する三つの立場

心理主義:行為の理由は心的状態であるという立場。センスデータ説と同じ形式の論法で正当化される(行為を説明する理由は成立している何かであり、行為者の信念が偽のときも行為の理由がある、両者の理由が同種だとすると、両者に共通する理由としては心的状態以外にはない)

心理主義:行為を説明するのは目的や事実であり、行為者の心的状態ではないという立場。
ダンシーによる反心理主義の擁護:行為の理由説明文は事実でなくともよい。行為者の信念が偽の場合でも非実在的な信念の対象が理由となる。
規範制約:「行為を説明する理由は、その行為を正当化しうるものでなくてはならない」というテーゼ。反心理主義の核心。心的状態を理由とすることはこのテーゼを満たさない。
目的・事態・事実:反心理主義において行為の理由の候補。志向説と被せて考えるならば、行為の理由は行為者が志向した先にあるもの=目的となる。

選言説:行為の理由は行為者の信念が真であるか偽であるかに応じて変化する。信念が真のときはその対象が理由となるが、偽のときは心的状態が理由となる。
選言説の問題点①:行為者の信念が偽の場合、規範制約に違反する。
選言説の問題点②:行為の理由は信念の真偽に依存しないという原理(共通項原理)に違反する。

 

 

理由の哲学 メモ①

参考文献

理由の反心理主義に基づいて行為の反因果説を擁護する

 

行為の因果説:行為と理由は行為の原因に他ならない(デイヴィッドソン)。
       行為の理由となる信念・欲求の組があったとしても、他の組との差異がなければならないそれが因果関係となる。

心理主義:行為の理由を行為者の何らかの心的状態とする。

作用-対象の二義性(act-object ambiguity):理由に言及したとしても、それが私の心的な事柄か、外的な対象か曖昧である。

心理主義:行為の理由は行為者の心的態度ではなく、その対象である(ダンシー)

因果説は心理主義を前提とする:心的態度を物理的因果として解釈する。

命題:真であったり偽であったりするもの。

事態:成立したり不成立したりするもの。命題を真とするtruth-makerとなる。
理由を命題とすると、理由-行為の因果関係を想定するのは難しい:命題は因果関係と考えにくいので
理由を事態とすると、通常の出来事因果とは別の事実因果を認めなくてはいけない

失敗例論法:心理主義を支持する議論。理由は現実的なものでなくてはならない、また、行為が失敗したときにも成功したときと同じような理由はなければならない。そうすると、心的な状態が理由となる。
 たとえば、ゴキブリをつぶすとき「ゴキブリがいるから」という理由は心的状態となる。

説明理由:行為をある仕方で説明するときの理由

規範理由:「するべきである」という面からの行為の理由。道徳的側面のみではない。行為を実際に良いものにするという客観的面からの正当化。

理由一元論:ある行為の説明理由は、規範理由でありうるものでなければならない。
      心的状態は行為の規範理由になりえないのでこの立場は反心理主義

理由二元論:説明理由と規範理由は別のものである(説明は心的態度、規範はその対象により与えられる)。この立場は心理主義

心理主義の問題点:「pと思うから」という心理的説明は信念態度にコミットしているが、pの存在についてはコミットしていない。しかし、普通はコミットしているだろ。

心理主義の問題点:成功例と失敗例の理由が別種のものになってしまう。(失敗例の理由は心的態度ということになる)。これはおかしい(薬草を取りに行くため山に行く少年の理由は、薬草があるかないかで変わることになる)

心理主義からの反論:失敗例のときの理由を非現実的なものにすることにより、成功例と同種の理由にする。(ゴキブリがいなかったとしても「ゴキブリがいると思ったからつぶそうとした」の理由は「ゴキブリがいるから」である)

 

 

 

 

フィクションにおいての真理 / Truth in Fiction【Woodward(2011)】

Truth in Fiction - Woodward - 2011 - Philosophy Compass - Wiley Online Library

 

 


1.フィクショナルワールド

ある人がフィクションに従事しているとき、フィクショナルワールドについての情報を手に入れていると思われる。
フィクショナルワールドとは、フィクションのなかにある人や物がいる世界である。
ホグワーツは『ハリー・ポッター』という物語のフィクショナルワールドのなかにあり、じゃぱりカフェは『けものフレンズ』という物語のフィクショナルワールドのなかにある。
フィクショナルな真理は、フィクショナルワールドに関係した真理である。
単にフィクショナルワールドを引いてくるだけでは、問題は解決しない。フィクションのなかでの真理とはなにかを考えるためには、「フィクショナルワールドとはなにか」という問題と「作品がどのようにフィクショナルワールドを指し示すか」という問題を解決しなければいけない。
前者を同一性問題、後者を生成問題と呼ぶことにする。

 

2.同一性問題

 フィクショナルワールドについての問題はフィクショナルキャラクターについての問題と見ることもできる。ウォルトンなどのキャラクターについての非実在論者は、フィクショナルワールドは存在しないため、同一性問題はないというだろう。
 一方、フィクショナルワールドを別の概念により還元しようとする立場もある。
 その一つが、可能主義であり、フィクショナルワールドを可能世界だとする。
 しかし、フィクショナルワールドは可能性により同一性を与えられているわけではない。
 たとえば、『フランダースの犬』は太陽系の果てにある小惑星の元素構成についての真理を確定させていない、しかし、可能世界ならばそれは確定している。
 これに対処するため、ストーリーワールドを定義する。定義は以下:フィクションにおいて真(偽)な命題は、すべてのストーリーワールドにおいて真(偽)。
 フィクションはストーリーワールドすべての集合だとする。
 だが、問題が起こる。不可能なストーリーもありうるのだ。そのとき、すべての不可能なストーリーは空集合となり、同じものとなる。
 また、ストーリーのなかで整合しない命題があるときも問題が起きる。シャーロック・ホームズシリーズでは、ワトソンが体に一つだけの傷があるとしているが、『緋色の研究』では肩、『四つの署名』では足に傷があるとされる。
 これらの問題に対処するために二つのオプションがありうる。①フィクショナルワールドは、整合的なストーリーワールド集合の共通部分である。②フィクショナルワールドは、整合的なストーリーワールド集合を合わせたものである。
 しかし、どちらのオプションも問題が発生。①では、ワトソンの傷はフィクショナルワールドから排除される。しかし、排除される要素がフィクションの中核的要素だということもありうる。②だと、ワトソンは体に一つだけ傷があるが二つ傷があるという矛盾が起こる。
 これに対処するため、①不可能世界(矛盾がある世界)を認める。②何をフィクションとするかについての我々の直観が間違っている(実は『シャーロックホームズシリーズ』はフィクションではない)というオプションがある。

 

3.生成問題

 作品が明示している命題(基幹真理)以外にも、フィクショナルな真理はどんどん増えていく。 
 たとえば、『アルプスの少女ハイジ』は登場人物に脳があるとは明示していないが、脳があることはフィクショナルな真理だろう。
 では、フィクショナルな真理はどのように生成されるのだろうか?
 生成方法の一つに「現実性原理」がある。

 現実性原理:p1....pnをある表象体によって虚構性が直接的に生み出される命題であるとするときに、別の命題qがその表象体において虚構として成り立つのは、p1.....pnが事実であるならばqが事実であるとき、そのときに限る。(ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』p145より引用)

 現実原理の問題は、基幹真理と整合するような途方もない量の現実的真理があることだ。
 『源氏物語』のフィクショナルワールドでは、超ひも理論が正しいか否かという真理は確定していることになる。
 この問題に対処するために「共同信念原理」という生成方法が提唱される。

 共同信念原理:p1.....pnをある表象体によって虚構性が直接的に生み出される命題であるとするときに、別の命題qがその表象体において虚構として成り立つのは、p1....pnが事実ならばqが事実であるということが、その芸術家の社会において共有的に信じられているとき、またそのときに限る。(『フィクションとは何か』p151より)

 だが、フィクショナルワールドは作品が作られた時代の人々の信念に依存するのだろうか? 
 両方の原理の問題点として、「ジャンルのお約束」に対処できないというものがある。ゾンビが出てきたら走らないという真理は現実原則でも共同信念原則でも導出できない。三角の黒い帽子と黒いローブを着てほうきにまたがった女性は魔女であるという真理も導出できない。

 

4.基幹真理の生成

 ストーリーテラーにより語られるフィクションがある。
 では、その語りが行われるとき、何が起こっているのか?
 ルイスは「作者が読者に対して自分の知識を与えているフリをしている(作者がナレーターになっているフリをしている)」と答えた。基幹真理はナレーターになったフリをしている作者が読者に与えるフィクショナルな真理だということになる。
 しかし、多くのフィクションには、間違ったフィクショナルな真理を読者に教える信頼できない語り手がいる。
 カリーは「フィクショナルな作者」という概念を提案した。そいつは現実の作者でもナレーターでもなく、完全に信頼できるフィクショナルキャラクターである。読者が物語を読むことによりそいつの信念が構成され、隠された信念は存在しない。
 カリーはフィクショナルな作者の信念という側面から基幹真理を定義する。フィクショナルな作者は顕在的信念と暗黙的信念を持つ。顕在的信念はフィクショナルな作者が語った信念であり、暗黙的信念とは語らないが持っている信念だ。基盤真理は顕在的信念であり、そこから派生するフィクショナルな真理は暗黙的信念だ。
 この説明にはいくつか問題がある。
 ひとつめの問題はカリーの説明では、世界が消失して語るものが誰も残っていないようなフィクションには対応できないというものだ。なぜならば語り手は誰もいなくなるからだ。カリーはそのようなフィクションを不可能なフィクションだと分類する。誰もいないような世界で語り手がいるような想像をすることは不可能である。
 ふたつめの問題は信頼できない語り手の問題だ。ビリーという語り手がフィクショナルワールドについて嘘八百を語り、読者が間違った想像をするとき、読者はビリーとは別の信頼できる語り手を構成するのだろうか?
 みっつめの問題はいかなるフィクションにおいてもフィクショナルな作者がいるのか?という問題だ。視覚的フィクションの場合は明確ではない。
 よっつめの問題は、どのフィクショナルな真理がフィクショナルな基幹真理となるのかという問題だ。フィクショナルな作者の顕在的信念はどのように選ばれるのだろうか。カリーはテキストによりガイドされるとしているが、現実の作者の信念や現実の作者のコミュニティ、物語の形式などにも左右される。
 究極的には、カリーは基盤真理の生成について実質的な答えを与えていない。
 
 

想像とフィクション:いくつかの問題 / Imagining and Fiction: Some Issues 【Stock(2013)】  

onlinelibrary.wiley.com

 

この論文では次の三つの問題を扱う。

①フィクションは想像により定義できるか?
②フィクションの想像はde re(事物についてのもの)かde se(自己についてのもの)か、もしくはその両方か?
③「想像することの抵抗」はどのように生じるか?

 

 

読者に想像を規定する作者の意図はフィクションの本性に入るか?という問題

賛成派:フィクションの(部分的)定義とは想像を規定する発話である。(カリー、ラマルク、デイヴィス、グリシアン)。想像を規定し、偽か偶然的真な発話がフィクション(カリー)。フィクションの発話は「フィクティブ・スタンス」を構成する:読者が想像し、かつ、真ではないと信じ、また作者はそれを真だと信じていないのだと推測できるような発話である(ラマルク、Olsen)。想像を規定し、発話の理由が真理宣告でないような発話がフィクション(デイヴィス)
反対派:現実世界の真理について無関心な発話が、フィクションの必要十分条件だ(Detsch)。非意図的なフィクションが自然に生ずることもある(ウォルトン

フィクションのなかの多くの発話が真であるため(フィクティブ・スタンスは思ったほどフィクションの大部分を占めていない)、賛成派の定義は修正しなければならない。
修正案:「想像」を以下のように定義する。思考者がある命題pを信じていない、または、思考者がpを信じているがそれにつながる更なる命題を信じていない(たとえば、沼津が静岡県にあることは信じているが、そこに浦の星女学院があることは信じていない)。フィクションの個々の発話はフィクティブ・スタンスを満たしていないこともあるが、全体としては満たしている。

修正案に対するフレンドの強力な反論:ノン・フィクションは非偶然的な真理の担い手となるが、想像が含まれた発話により構成されているものがある。(たとえば、ヒトラーが1944年に暗殺されていればどうなったかを検証するドキュメンタリー)
フレンドはフィクションはジャンルだとした(いくつかの典型的特徴により構成されているが、必要条件ではない)

 

フィクションでの想像活動は、自身についてのもの(de se)か、事物についてのもの(de re)か?

二つの回答
①想像活動はすべて自身についてのものである
②部分的な想像活動は自身についてのものである
リカナチのde se想像の分類、(1)姿の想像(2)思考によって構成されている自分(3)プレゼンテーションのモード(内からのxすることの想像)
①はフィクションの想像は上の三つのどれかであるという主張。たしかに、空間的想像はすべてde seという根拠があるが、命題的想像は空間的想像ではない。
②を支持する哲学者たちはde se想像がフィクションにおけるさまざまな現象をよく説明すると主張。たとえば、ウォルトンはフィクショナルなものEを想像するということは、自分のなかで特定のEを知っているということを想像することだとしている。ウォルトンによれば、特定のものについての想像はすべてde se想像だ。
しかし、de se想像だけど特定のものについての想像ではない事例や、特定のものについての想像ではないけどde se想像である事例がある。
また、de se想像は、フィクションに対して強い情動を感じることを説明する。キャリーは、フィクションのなかでの事物についての感じ方が実生活と違うことを説明するため以下のメカニズムを提唱した。まず、de re想像をして、次に自分が現実とは別の情動反応を起こすような人であるようなde se想像をする。Alwardはそれを批判して、フィクションへの想像はde re想像のみだとしている(何らかのイベントが起きるという事物についてのことのみ)。しかし、たとえテキストがde re想像を促すようなものでも、それを基盤にしてde se想像が発生することは可能だ。空間的なde re想像は、視点を持つde se想像に容易に変換される。
キャリーはフィクション名が空名にならないようにする方法として、フィクション名の意味はそのキャラクターに課せられた性質によって固定されると論じた。この問題は、たまたま同じ性質を持った現実の人がいればその人を指示してしまうというものだ。キャリーはフィクショナルなイベントにおいての知識という性質によってフィクショナル・キャラクターと現実の人物を区別できるとした。
もっと根本的な批判として、想像においてはde re とde seの区別はないというものがある。作者がde se想像をしろと規定したテキストをde re想像したところで区別は生まれないとするものだ。

 

想像することへの抵抗

「自分の赤ん坊を殺すにあたり、ギゼルダは正しいことをした。結局のところ、それは女児なのだ」という文章(GK)を読んだとき、たいていの読者はGKを正しいと想像することに障害を感じる。これはなぜだろう。二つの説明ができる。一つは、文の理解困難に起因するというものだ。二つ目は、特定の(道徳的)欲求や欲求風のスタンスになることの抵抗に起因するというものだ。
第一の立場のウォルトンは、道徳的事実は自然的事実に付随すると仮定している。GKに想像抵抗を感じるのは、自然的事実と道徳的事実の付随関係が破られているからだ。そのような付随関係の破れ(あるいは別の付随関係)に対しての理解困難が抵抗の原因だ。Weathersonは高階の性質(正しい)と低階の性質(赤ん坊を殺す)を結びつけることが理解困難であるため想像の抵抗が生まれるとした。Stockは、概念の理解困難というよりも、読者の認知的限界に説明を求める。GKに想像抵抗を感じるのは、読者がそれが真になるような状況について考えが及ばないからだ。
第二の立場では、読者の特定の欲求あるいは価値観に説明を求める。Gendlerは、GKに想像抵抗を感じるのは、GKへ想像的に従事しようとする欲求を欠いているからだとした。キャリーは欲求ではなく欲求風の想像の欠如に原因を求めた。または、「欲求風の想像をしたいという想像」が欠如しているからだ。この返答には、道徳に関係ない文についの想像抵抗はどうなんだという反論が出る。
第一の立場と第二の立場を調停したものも可能だ。道徳においては「厚い概念」といわれるものがある。野蛮だとか、優しいだとか、思慮深いだとか、記述的内容があるが、ある程度まで評価的価値が含まれている概念だ。対して「善い」や「正しい」は「薄い概念」といわれる。読者がGKに想像抵抗を感じるとき、道徳的欲求の欠如と文の理解困難は同じソースがあるかもしれない。厚い概念を適用する能力がいないことだ。

フィクションのパラドックス/The Paradox of Fiction【インターネット哲学百科事典】

http://www.iep.utm.edu/fict-par/

 

我々はフィクション作品を鑑賞するとき、しばしば情動が揺さぶられたと主張する。しかし、情動の本質について考えると、この事象はパラドックスを引き起こす。

 


フィクションのパラドックスは、正しそうに見える以下の三つの命題が互いに矛盾していることである。
(1)フィクションの鑑賞者は、フィクションの登場人物などに対して情動を抱いている。
(2)何らかの対象に対して情動を抱くとき、その対象が実在していることを信じていなければならない。
(3)フィクションの鑑賞者は、フィクションの登場人物などが実在していることを信じてはいない。

パラドックスの提案者、ラドフォードは三つの命題をすべて受け入れ、情動とは非合理的なものだと結論付けたが、その解決法は十分なものではない。

代表的な戦略は三つである。(1)を否定するフリ説。(2)を否定する思考説。(3)を否定するイリュージョン説だ。

 

 

フリ説


ウォルトンが提案するフリ説は、我々がキャラクターに対して、本当の情動を抱いていることを否定する。本当の情動は、その対象が実際に存在するという信念が必要だ(なお、のちにこの条件を緩めて、現実世界の行動への動機付けがなければならないという条件にしたらしい)。
ウォルトンによれば、フィクションにより生成されるように見える情動は本当の情動ではなく「準情動」である。ホラー映画を見て恐怖しているように見えるのは、実際には「準恐怖」を感じているに過ぎない。鑑賞者はフィクションを手掛かりとして、信念では真としない命題を真と仮定するメイクビリーフ(ごっこ遊び)ゲームを開始し、そのなかであたかもフィクショナルキャラクターが存在するフリをする。フィクショナルキャラクターに対しての情動のように思えるものはすべてそのメイクビリーフゲーム中での準情動である。
準恐怖を生成するのはその対象が存在するという信念ではなく、「フィクションによれば、対象がメイクビリーフ的に存在している」という二階の信念である。(なお、準恐怖は恐怖よりも感じが弱いというわけではない、通常の恐怖から存在信念を抜いたものを準恐怖と呼ぶ。その感じは日常的なものよりも強く、持続性も高いことがある)。
このことをもって、他のフィクションのパズルを解くことができる。ある悲劇を見たとき、視聴者はキャラクターたちを苦悩から救ってほしいと言うが、バッドエンドも見たいと一方で言う。これは、「キャラクターを救ってほしい」というメイクビリーフをしながら、実際には「キャラクターが苦しむというメイクビリーフをしたい」という欲求を持っているからである。
また、結末を知っている物語を楽しめるのは、その都度生成される新しいメイクビリーフゲームに参加しているからである。

 

フリ説への反論

ウォルトンは子供のごっこ遊びとメイクビリーフゲームのアナロジーを使う。キャロルは両者にディスアナロジーがあることを指摘する。ごっこ遊びをするかしないかは行為者に選択の余地があるが、ホラー映画を見て(準)恐怖するということは視聴者に選択の余地はない。クソ映画では視聴者を(準)恐怖させることに失敗することがあるかもしれないが、それは映画の問題だ。
他のディスアナロジーとして、現象的側面がある。お涙頂戴の映画にあきあきしながらも思わず涙を流してしまうことがある。フィクションへの参加を拒否しているのに、なぜ(準)情動が生じるのかフリ説では説明できないという反論だ。
ウォルトンはこのような反論に対して、ゲームは意識的なものだけではなく、無意識に参加できるというだろう。
また、ウォルトンは準情動とは何かを明確にしているわけではなく、信念により生成される情動に対応させて、メイクビリーフにより生成される準情動とテクニカルに定義しただけである。

ウォルトンの準情動は余計なものだという反論もある。
映画では突然の音楽や演出などの「ビックリ効果」が良く使われる。そうした効果によって生じる驚きは、存在信念を必要としない。また、驚きによるドキドキした感じは容易に恐怖と混合される。ホラー映画を見たときの恐怖は、実際には驚きを混合したものだというパラドックスの解消法もある。驚きを知覚と分類し、知覚と情動が混在した結果パラドックスが生じるという説だ(Saatela1994)。しかし、その説はフィクションにより哀れみや後悔が与えられることを説明できない。
Glenn Hartzはフィクションへの反応は前意識的なものであり、信念とは独立しているとした。

 

思考説

思考説は前提(2)を否定し、対象が存在しないとわかっていたとしても、それに対しての情動が発生するという説だ。情動が発生するためには、「心的表象」「思考内での楽しみ」「想像的企て」などのみで十分であり、存在信念は必要ないのだ。必要な信念は、フィクションにおいてキャラクターがどれだけ恐ろしいとされているかなどの「評価的信念」のみでよい。

思考説と似ているが違う説としてカウンターパート説がある。この説では、フィクションを楽しむとき本当の情動が生まれているが、それとストーリーの関係性は意図的なものではなく因果関係であるとされる。ストーリーが現実世界についての思考を生じさせ、それが対象となり情動が生まれるという見方である。カウンターパート説は思考説ともフリ説とも協力が可能だ。「存在していないものを対象には情動は生じない」という条件を保持することができるからだ。

 

思考説への反論

思考説への典型的な反論は、存在しないとわかっている怪物を怖がるのは不合理であるというものだ。
また、Malcolm Turveyは我々は、単なる映画のイメージに対して現実と変わらない反応を示すため、そもそもパラドックスは成立しないとしている。しかし、たとえば小説においては文字に対して情動反応を示しているわけではない。
思考説は単なる思考がなぜ激しい情動を引き起こすのか説明しなければいけない。

 

イリュージョン説

年々賛同者が少なくなっているイリュージョン説は(3)を否定し、我々はフィクションに従事しているとき実際にキャラクターが存在するという信念を抱いているとする。Cokeridgeは「意志による不信の宙吊り」によりフィクションを楽しんでいる間、鑑賞者はキャラクターの存在について半信半疑となっているとした。
最も強力な反論は、現実に対してのものとフィクションに対してのものの情動反応の差である。鑑賞者はいくらホラー映画が怖くとも映画館から逃げ出そうとはしない。たとえ半信半疑であろうとも、怪物の存在を半ば信じているのであれば念のため逃げようとするはずである。さらに弱めて、ほんの一瞬の間は存在を信じているとしても、時間が短すぎて情動の説明にはならないであろう。
しかし、鑑賞者の会話は一見、フィクショナルキャラクターの存在を信じているように見える。これは単なるメタファーなのであろうか。「作品に吸い込まれる」「我を忘れる」という言説は非信念的な説明のみで十分なのだろうか。

また、Richard Moranは情動が様相的事実や歴史的事実に反応することは問題ないケースであることから、パラドックスの成立を否定している。